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沖縄の若者ゆえの逡巡と葛藤を抱え
米軍基地巡る分断の先に見えてきたもの

寄稿:辰濃哲郎

2021年1月23日


 彼女に会ったのは、18年12月のことだ。

 清楚な佇まいでどこか頼りなげだが、クリっとした大きな目に強い意志が宿った女子大生だった。

 その 1 週間前の12月14日、沖縄県・辺野古の米軍新基地建設の現場に、初めて土砂が投入された。沖縄の民意を力でねじ伏せるかのように、澄んだブライトブルーの海が赤茶けた色に染まっていく。

 その 2 日後、Facebookに投稿された一文が私の目に留まった。

 私は沖縄で生まれて、沖縄で育ってきた。
 この島で生きる人たちはとっても優しくて、
 とってもあたたかくて、とっても強い。
 大切な人をまもりたい。
 未来の沖縄を生きるみんなをまもりたい。
 どんなにその思いが踏みにじられようとも
 歯を食いしばって闘ってきた。
 どれだけの人が沖縄のために
 自分ではない誰かのために
 たくさんの涙を流してきたのだろう。
 どうしてこの思いが届かないんだろう、
 くやしくって かなしくって たまらない。
 優しさで溢れるこの島で
 誰も望んでないのに
 どうして外からやってきたものによって
 対立させられなきゃいけないんだろう。
 わかっているはず、
 対立なんて誰も望んではいないこと。
 誰かを傷つけたくて
 傷つけている人なんていないこと。
 誰かを傷つけることで
 自分も傷ついていること。
 ただしあわせになりたいだけ。
 私たちはすでに
 平和をつくるための知恵だって術だって
 ちゃんと持っているはず。
  (中略)
 もう誰かが傷ついているのをみたくない。
 ただそれだけ。

 
 誰かを批判する言葉や、とがったフレーズは、一切使われていない。唯一、遠慮がちに名指ししたのが「外からやってきたもの」だった。

 そこに構造的な差別を背負った沖縄の社会を見て育った若者の、閉塞感と逡巡と苦悩が凝縮されている。

 投稿主は、私の取材していた青年の知り合いだという、彼に仲介してもらい、会いに行った。

 彼女は、沖縄南部の高校から台湾の高校に留学し、そのまま現地で大学に進学した。18年 4 月に名護市の大学に編入して故郷に戻ってきた。辺野古は、すぐ近くだ。いまは教員を目指している。

 土砂投入の前年 9 月、新基地建設反対を貫いてきた翁長雄志前知事の逝去に伴う知事選があった。翁長氏の後継の玉城デニー氏が、過去最高の得票数で当選した。新基地建設反対の圧倒的な民意を示したはずだった。

 それからわずか 2 か月半後、土砂が投入された。彼女は、沖縄の心が土足で踏みにじられるような大きな力を感じた。同時に自分たちの無力さを思い知らされた。辺野古近くの砂浜で友だちと長い時間、語り合った。だが、気持ちをどこに持っていけばいいのか、糸口さえ見えてこない。

 Facebook への投稿を思いついた。これまで基地問題に触れる投稿はしたことがない。彼女は 2 日間、悩みながらスマホに向かったという。書いていると、文字盤を操る指先が震えた。何度も投稿を躊躇しながら、最後は勇気を振り絞ってアップした。

 基地に勤める知人や、米兵と結婚している親戚もいる。もちろん基地に賛成する人だっている。基地問題に触れさえしなければ波風はたたないし、何より自分が楽だ。それが沖縄の若者の処世術なのだ。Facebook への投稿は、その「掟」を破ることになる。

 基地のしがらみを巡って大人たちが争う姿を、子どものころから見てきた。そのことで分断されてきた息苦しさを、ひしひしと感じて育った。

 そんな葛藤を抱えて生きてきた人々の心の扉を、叩いてみたかった。

 「みんな苦しいよね」って。

 背筋を伸ばし、言葉を選びながらゆっくりと話す彼女の目には、みるみるうちに涙があふれていった。

 沖縄の原点とは虐げられてきた歴史

 沖縄の若者は、生まれたときから米軍基地があった。沖縄が日本の捨て石となって戦った沖縄戦 (1945年) や、それに続く米軍統治下の圧政を経験した祖父母の世代。本土復帰 (1972年) や、その後の基地闘争は両親の世代だ。世代の経験値によって、それぞれ感じ方や行動も違う。ギャップが生まれるのも、そのためだ。

 ただ共通しているのは、沖縄戦も、米軍統治も、本土復帰も、そして米軍専用基地の 7 割が沖縄にあることも、みんな「外からきたもの」だということ。

 米軍基地は初めから沖縄に集中していたわけではない。戦後、本土での反米基地闘争によって沖縄に移ってきた。米軍専用施設の割合が 3 (本土) : 7 (沖縄) と逆転するも、本土に復帰すれば基地は縮小するはず。その沖縄の思いも、裏切られた。

 そして、96年には世界一危険と言われる普天間飛行場の返還が決まった。だが、その移転先は、同じ沖縄の辺野古だった。この虐げられてきた歴史の重みが、沖縄の原点だ。

 シニア世代との軋轢

 私は18年から、沖縄の若い世代を中心に取材を続けている。彼らには、本土に対するコンプレックスがない。シニア世代が持つ情念とは別のプライドが、膠着した沖縄の地平を切り開いていく予感がしたからだ。

 辺野古の新基地建設の賛否を問う19年 2 月の県民投票も、若い世代が実現にこぎつけたものだ。だが、その実現には紆余曲折があった。身内であるシニア世代から、実施に疑問が投げかけられたのだ。

 一橋大学大学院生だった沖縄出身の元山仁士郎氏が、県民投票へ向けた勉強会を那覇市で開いたのは、17年12月のことだ。これまでの反基地運動は、政治的な党派や労組などを中心に続いてきた。だが彼は既成の組織に頼らず、基地賛成にしろ反対にしろ、沖縄の未来は自分たちで決めたいと考えていた。

 出席者のほとんどが、反基地運動を担ってきたシニア世代だ。県民投票への風当たりは予想以上に強かった。すでに民意は知事選で示されている。いまは護岸工事阻止に傾注すべきだという意見が大勢を占めていた。なかには、「何も知らない若僧が」と蔑むような発言も飛び出した。

 元山氏は、シニア世代の過激な運動手法に疑問を感じていた。激しすぎて市民、とくに若い世代の心が離れていっている。彼が主催したあるシンポジウムで、やんわりと本音を吐露したことがある。

 「私たちが話しづらいのは、(シニア世代から) 『お前はわかっていない。もっと勉強しろ』と言われる。そうなると、考えたくなくなってしまう。どうかシャットアウトはしないで欲しい」

 80人ほどの参加者の 6 割以上がシニア世代だ。彼らも黙ってはいなかった。一人がマイクを握った。

 「このシンポジウムに不満と疑問を感じた。辺野古の問題はシンプル。70%の基地を押し付けて、普天間基地を即時撤去して欲しいという要求に、『それなら代わりを出せ』という不条理な要求は通るはずがない。これが原点です」

 シニア世代の思いは深く、そして激しい。だが、問題を突き詰めていくと、知識というより苦難の歴史を経験したという情念の差に行き着く。知識なら勉強を重ねれば追いつくが、歴史だけは追体験できない。世代間の軋轢の根深さは、そこにある。

 ハンストで県民投票不参加に抗議

 そして高いハードルがもうひとつ、待ち構えていた。

 若者が街に出て、県民と語り合いながら集めた署名は、18年 9 月に県民投票に必要な署名数に達した。だが、年末にかけて、県内の 5 自治体の市長が投票への不参加を表明する。

 県民投票の選択肢について、「賛成」「反対」だけではなく、「やむを得ない」「どちらでもない」を加えるべきだというのだ。いずれも自民党系の首長で、「反対」の票を少しでも減らす狙いであることは明らかだ。

 5 市となれば、有権者の約 3 割に当たる36万人が投票できないことになる。元山は、不参加を表明した各市を回って説得を試みたが、覆らない。年が明けた 1 月、元山氏は、自分の実家のある宜野湾市役所前でのハンスト決意し、副代表に打ち明けた。信頼する年上の司法書士の安里長従氏だ。

 安里氏は、こう答えた。

 「ハンストは自分に対する暴力だ。それを示して訴えるのは、暴力を手段とした抵抗運動ではないか」

 だが、いつも沈着冷静な元山氏が、珍しく気色ばんだ。

 「じゃあ、何ができるって言うんですか ! 」

 元山氏の意思は固かった。

 ハンストが始まったのは15日だ。お笑いコンビのウーマンラッシュアワーの村本大輔氏が応援に訪れた。右翼の街頭活動にも見舞われたが、元山氏は毅然と立ち向かう。一方、身体は日々衰弱していく。話す声もどんどん小さくなっていく。学生や若者が入れ代わり立ち代わり世話をする。報道で知った市民が、投票を求める署名に行列をなした。

 このとき、官房長官会見でハンストについて政府の認識を尋ねられた菅氏は、こう答えている。

 「その方に聞いてください」

 元山氏は、ツイッターで返した。

 「いまの日本政府、政権というのはどれだけ冷酷なのか。選んだ方々もどう思うんだろう。でーじ (すごく) 悔しい」

 ハンスト 3 日目の朝、公明党県本部の県議から連絡が入った。

 「若者がハンストまでして頑張っていることに心を打たれた。何とか調整したい」

 副代表の安里が県議を訪ねると、県議はその場で副知事や、不参加を表明する市長らと連絡を取り始めた。ここで事態は一気に打開へと動き出す。

 ハンスト 5 日目に当たる19日、元山氏にドクターストップがかかる。105時間に及ぶハンストは終わったが、県議会は、投票実現に向けてギリギリの時期に「どちらでもない」を加えた 3 択案でまとまった。 5 市長は不参加表明を撤回し、県内すべての市町村で予定通り実施されることになった。

 19年 2 月24日に実施された県民投票では、投票総数約60万票のうち 7 割を超す約43万票が、新基地建設に「反対」の意思を示した。「どちらでもない」はわずか 5 万票に留まった。

 県民投票の理論的支柱となった副代表の安里氏は、県民投票を振り返って、こう話す。

 「『足を踏まれて痛いんだ ! 』ということを伝えるツールとして、県民投票の意味は大きかった。若者たちが、県民の 8 割を占める無党派層の社会参加を促したのだと思う。その先頭に立った元山仁士郎という若者が、本土にボールを投げた。今度は、本土が考える番です」

 「乞食行進」で歴史を辿ろう

 県民投票の前日早朝、沖縄県糸満市の魂魄の塔に若者らが集まってきた。そのうちのひとり、琉球大学大学院生の小林倫子さんは、プレッシャーに押し潰されそうだった。

 県民投票に合わせ、本島南部の糸満市から北部の名護市・辺野古までの約80キロを、 2 日間かけて投票を呼び掛けながら歩く「March on Okinawa」が間もなく始まる。車社会にどっぷり浸かった彼女にとって、途方もない距離だ。身体がどうなってしまうのか、想像さえつかない。いつもの、はにかむような笑顔は消え、表情が強張っている。

 行進は 2 週間前に決まった。玉城デニー知事の選挙を応援してきた若者と、翁長前知事の次男で、当時は那覇市議だった翁長雄治氏らの発案だ。

 初めは「那覇市内でのパレード」だったが、次第にふくらんでいく。沖縄戦で多くの県民が戦死した県南部から、辺野古までの80㎞を歩く提案に、小林さんは、すかさず反応した。

 「『乞食行進』だね」

 戦後、米軍統治下の沖縄の離島・伊江島で、米軍が家屋をなぎ倒して基地を建設した。生活の糧を奪われた農民は困窮に堪えかね、本島の住人に訴えるために55年、南部の糸満から北部の国頭まで行進した。後に「乞食行進」と名付けられたが、沖縄全域に広がった反基地の「島ぐるみ闘争」の先駆けとなった運動だ。

 小林さんは、その指導者で沖縄のガンジーとうたわれた故・阿波根昌鴻 (あはごん・しょうこう) を知っていた。徹底した非暴力を貫いた彼の心構えは、いまでも反基地運動を担うシニア世代のお手本にもなっている。

 だが、実施 1 週間前になっても、人が集まらない。80キロとなると、みんな尻込みしてしまうのだろうか。雄治氏がメンバーを招集する。

 スカイプで参加していた小林さんが、中止やむなしの雰囲気を察して声を上げた。

 「投票率を上げたいだけでなく、歴史的な価値を行進に見出している。私は、やはり歩きたい」

 その一言に、みんなも心を動かされた。「やるだけやってみよう」

 県民投票前日の午前 8 時前、魂魄の塔の前を出発した。魂魄の塔とは、終戦直後に付近に放置されていた遺骨を地元の住人が集めて作った慰霊碑だ。メンバーは、雄治氏に小林さん、最も若い19歳の照屋みなみさんら総勢10人ほどだ。

 雄治氏は、学生時代に柔道で鍛えた108㎏の巨漢だが、膝や足首は古傷でいっぱいだ。案の定、那覇までの17㎞で足が痛みだした。運動不足の小林さんも足裏が痛み、途中の休憩地でテーピングをしてもらう。若いみなみさんは、やはり元気だ。

 途中で沿道の人が加わったり、拍手で迎えてくれる人もいる。夕暮れが近づく北谷では、車いすの男性が待ち構えていた。「待っていたんです」と、一緒に歩く。通行中の車が、プラカードを見てクラクションを鳴らしてくれる。

 この日のゴールとなる沖縄市のコザ運動公園に着いたのは午後七時半を過ぎていた。小林さんの脚は悲鳴を上げていた。一足先に宿舎に戻って休む。

 食事から戻ってきたみなみさんと相談して、この行進の目的をSNSにアップした。

 「沖縄の人たちが歴史の中でつないできたバトンを、いま私たちが持って、精一杯頑張ったという県民投票の最後を、みんなで迎えたいです」

 シニア世代の笑顔に支えられ

 そして 2 日目。朝から雨天で肌寒い最悪のコンディションだ。小林さんは前日からの足の痛みに悲鳴を上げながらも、どうにか宜野座までたどり着いた。座って休んでいると、雄治氏のつぶやく声が聞こえた。

 「最後までもつかな。車に乗ろうかな」

 相当、脚が痛むようだ。それでも出発すると、やや遅れながらついてくる。途中で、見かねて「車に乗りませんか」と誘ってみた。だが、雄治氏はおどけたように答えた。

 「ここまで来たんだから、最後まで行こうぜ ! 」

 そう言って自分を鼓舞しているのだろう。そして辺野古ゲート前まで 3 ㎞と迫った久志公園に着いた。そこにはシニア世代が集まっていた。若い世代と反目している彼らだが、小林さんらが拡散したSNSを受け止め迎えに来てくれたのだ。

 一緒に辺野古ゲートへ向けて歩き出す。周囲は暗闇に包まれていた。すでに県民投票は締め切られている。だが、それより、ゴールにたどり着かねばという思いで必死だった。きっと泣きそうな顔で歩いているに違いない。

 彼女は、集団の先頭を歩いていた。レインコートのフードを被っているから前しか見えない。雨の中でもかかわらず、後ろから元気な笑い声が聞こえてくる。

 この光景を目に焼き付けておきたい。でも、脚が硬直しているから、振り返ると倒れてしまいそうだ。それでも無理やり首をひねってみた。フードの隙間から、一瞬だけ、見えた。反基地闘争を支えてきたおじぃや、おばぁの、飛び切りの笑顔だ。

 涙が止まらなくなった。

 ゲート前では、大勢のシニア世代が迎えてくれた。大きな笑顔や手拍子で。彼女は泣き崩れた。

 「乞食行進」は、「歴史を知らない」と揶揄される若者たちが、苦難の歴史に耐えてきたウチナーンチュとしての誇り、いわばアイデンティティを確かめるための試みではなかったか。そこにシニア世代が心から応援を寄せたことに、世代間の分断を乗り越える糸口を見出したのは、私だけではないはずだ。

 沖縄は、知事選に続き、若者が主導する県民投票でも「民意」を示した。アイデンティティの向こうに、本当にものを言うべき相手が見えてきた。それは「本土」にいる私たちであることに改めて気付かされる。       

 県民投票の翌日、官房長官会見で、県民投票の結果の受け止めを尋ねられた菅氏は、こう答えた。

 「 (県民投票は) 辺野古における埋め立てに対する賛否のみが問われたもの」

 政府が原点とする「普天間基地の危険性除去」が否定されたものではない、という理屈だ。都合のいい部分だけを切り取る、菅語録の典型だ。

 菅氏が担当相に就任して以来、繰り返していた「沖縄に寄り添う」という言葉の裏に潜む詭弁を追及したのが、故翁長前知事だった。志半ばで逝った県民葬で、菅氏は、この「寄り添う」で集中砲火を浴びることになる。

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