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【NPJ通信・連載記事】色即是空・徒然草/村野謙吉

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世界が燃えている ! 三界は火宅だ

2022年5月17日


 「自由」と「秩序」は、人類の歴史的生態系を維持している矛盾的相互補完の原則である。
 「自由 (liberty / freedom)」は「我」 (「個」) の利己性を特質とし、「秩序 (order)」は「世界 (「多」) の規律性を本質とする。そして自由と秩序の間に、平等の理念が常に曖昧に揺れ動いている。

———————————————————

 2500年ほど前、北インドのとある場所で農耕の儀式が行われていた。
 設けられた座席で、十三、四歳の気品のある少年が黄金の鋤で田を耕す儀式を見ていた。

 少年はふと、耕作地の地面から白い小虫が顔を出しているのに気がついた。
 そこに小鳥が飛んできて、小虫をクチバシに挟んで空中に飛び立った。
 すると今度は上空から急降下してきた鷹が、その小鳥を襲い奪い去って行った。

 農耕地ではありふれた光景であるかもしれない。
 しかし、その光景に少年は深い悲しみを覚えた。

 「生きとし生けるものは、喰らい合い殺し合いの命の連鎖の中に生きているのだ」(1)

 これは、ガウタマ (姓) ・シッダールタ (名) の幼年期の逸話である。

 単なる生物学的「死」ではなく、「殺」という死によって維持されてる「いのちの連鎖」の根源的意味の追求が、王国、王権、家族さえも放棄してシッダールタが求道の旅に向かった核心的動機の一つであった。

 その後、シッダールタは35歳にして「ブッダ (覚者) 」となり、シャークヤ (釈迦) 族の聖者として「釈尊」と尊称されるようになった。

 釈尊は、なにを覚ったのか。
 「自由と秩序」の矛盾的相互補完を超えた平等の世界、善悪の「彼岸への道」を覚ったのだ。

* * *

 釈尊は幼少期に、喰らい合い殺しあって保たれている生物界の実態に深い悲しみを覚えたが、ブッダとなってから歴史的世界の「殺に関わる悪」の本質についての認識を深めていった。

 「世界は常に燃えているのに、
 なぜ笑えようか、なぜ喜べようか。
 暗黒に包まれているのに、あなたは光を求めないのか?」
 (「ダンマパダ」・「法句経」第146偈)

 この言葉は、歴史的ブッダ・釈尊の教説を記録した423の偈 ( 4句の詩文) から成る「ダンマパダ」にある第146偈である。「ダンマパダ」は古代インド語のパーリ語で記録された仏教経典で南アジアの仏教国で広く用いられ、「法句経」と「法句比喩経」の二種の漢訳 (中国語訳) があり、西欧の知識人にもっとも知られた仏教経典である。

 ここで「世界は常に燃えている」について、多少の専門的説明を加えたい。この偈のパーリ語テキストの直訳は「常に存在して燃えている中に、いかなる喜びがあろうか」であり、数種ある英訳にはすべて the world またはカッコ付きの (the world) の訳語を与えている。しかし漢訳「法句比喩経」は「 (漢訳の書き下し文) 何を喜び何を笑う、念 (おもひ) 常に熾然 (燃えさかり)・・・」であり「世界」の語はない。

 そこで「ダンマパダ」の最重要の第一偈が、人間の「心」 (パーリ語 : manas) の問題ではじまっていることを考慮すれば、ブッダの慈悲の心の鏡に映し出されて燃えているのは物理的世界ではなく、全人類の心の問題である。

 現在も世界中で「常に絶え間なく燃えている」のは人間の肥大化した欲望である。

 「法句経」は歴史的ブッダ・釈尊の言行録であるアーガマ (漢訳音写 : 阿含経) の一部だが、「世界は燃えている」と言うメッセージは豊かなイメージを後代のインド仏教者たちが育んでいって、大乗経典「法華経」の「三界火宅」の隠喩となった。因みに「三界」とは「欲望の生命界・欲望を離れているが形態を維持している生命界・形態を離れた精神的生命界」で、人間の認識可能な世界の極限のことで、此岸・迷界である。

 「三界火宅」とは、世界は燃えている家であり、その家の中で子供たちが危険も知らずに無邪気に遊んでいる。

 しかし燃えているのは「法句経」の説くとおり、人間の煩悩の心である。

 支配欲・独占欲に燃える人間の欲望が「自由」を私用化し、様々な分野のエリートたちが情報を寡占化して金融を支配し、食料や燃料の争奪戦を生みだし、戦争の銃火を作りだしているのが現在の状況ではないのか。

 生存するための食糧獲得をする過程における「殺」ではなく、「殺と悪」の根源である支配欲という人間の根源的情念を炎に喩えて、「戦争する人間」の実体について釈尊は覚ったのだ。

 人間は戦争する動物であり、また闘争を楽しむ動物ではないのか。

 釈尊は晩年、後継者に考えていたであろう思考力の格段に優れていた弟子の一人シャーリプトラ (漢訳:舎利弗または舎利子) に先立たれ、従弟のデーヴァダッタ (提婆) とサンガ (修道組織) の指導方針について見解が対立し、コーサラ国のヴィルーダカ王による釈迦族の中心地カピラヴァスツの攻撃を目の当たりにし、釈迦族の大多数の人々が殺害されるなどを経験した。

 悪の根源である「殺」について、仏教は、造物主であり罰を下す絶対的観念としてのGodを奉じる一神教の宗教情念とは、基本的性格を異にしている。仏教は基本的に “自覚責任” の教理であり、造物主のGod により被造物としての人間の赦しが成立している一神教とは (どちらに優劣があるということではなく) 精神的価値観の範疇を異にしている。

 「ダンマパダ」の第一偈にのべるごとく、永遠の「いのちと心」に通徹する「善心楽果・悪心苦果」を説く仏教は諸行無常・色即是空の縁起の教説であり、そこには終末論も原罪の思想もない。

* * *

 人間存在の「殺」の問題は、ブッダの生れたインドの精神世界であるヒンズー教の重要なテーマの一つでもある。

 そのヒンズー教の豊穣な精神世界を描いているのが「マハーバーラタ (偉大なバラタ族) 」である。

 本書は、戦争を主要なテーマとした18巻からなる世界最大の叙事詩であるが、その分量は「バイブル (旧約聖書・新約聖書) 」の約 3倍になる。
 そしてそこで展開される戦闘は18日間続く同族同士の戦闘だ。

 「マハーバーラタ」において暗示される戦争の普遍的動機は、釈尊が直感したように、歴史的存在としての人間の生存そのものに内在する「殺と悪」の問題に関わっている。
 悪とは、自らの殺害行為に対する反省・悔悟があってこそ成立する、人間を人間たらしめる倫理基準の根拠である。

 複雑きわまりない構成の「マハーバーラタ」であるが、人間の生存に関わる「殺と悪」のテーマが凝集された部分が第 6巻に収められている「バガヴァッド・ギーター (神への讃歌) 」 (原型成立 ; 紀元前 2 C. ) だ。

 「バガヴァッド・ギーター」は、インド人の知識人ならすべて熟知しているであろう、ヒンズー教徒にとっての「新約聖書」ともいうべき18章である。ちなみに「18」はヒンズー教において象徴的数で、阿弥陀仏の48願のうち、「わたし」の救済にかかわる最も重要な願は第18願であり、その本願の極意を述べる『歎異抄』も18章に整理されているが、「歎異抄」第13章で親鸞は「殺と悪」の問題を語る。

 では「バガヴァッド・ギーター」の説く「殺と悪」からの救済とは、なにか。
 「マハーバーラタ」を翻案・要約すれば、親族関係にあるクル家の100王子とパーンドゥ家の 5王子を中心とする物語だが、「バガヴァッド・ギーター」におけるクライマックスは、クリシュナを御者とする二輪馬車に乗ったパーンドゥ家の第三王子・アルジュナの開戦前の場面だ。

 アルジュナが平原の戦場においてかなたの敵の陣営をながめると、そこにはかっての友人・知人たちの顔が見える。そこで、アルジュナは戦士としてはゆるされえない戦闘することに躊躇する。
 殺す相手は、かっての自分の仲間たちではないか。

Konddiah Raja, Public domain, via Wikimedia Commons

 殺すことへの躊躇と、しかも同族の知友たちを殺さなければならないことへの逡巡と怯懦。
 そして人を殺すことの罪意識の芽生え。

 しかし殺さなければ殺される、しかも殺されるのは自分だけではなく自分の親しい人々も殺されるのだ。

 そこで、ヴィシュヌの化身である御者のクリシュナが多頭・多腕を持つデーヴァ (神) の形をあらわして「カルマ・ヨーガ」の教説よろしくアルジュナに戦士であれと励ます。

 “「いま・ここ」にある義務に忠実であれ、戦え ! ”

 弓術の名手アルジュナは戦闘を決意した。敵方に矢を放った。

* * *

 1945年 7月16日午前 5時過ぎ、アメリカは史上初の原爆実験をアメリカ本土でおこなった。
 実験の成功は直ちに実戦に移された。

 同年 8月 6日、アメリカは当時人口42万人の広島にウラン235を使用した原爆を落下。死者、行方不明合わせて12万2338人。 8月 9日、当時人口24万人の長崎にプルトニウム239を使用した原爆を落下。死者、行方不明合わせて 7万3884人。

 史上初の原爆実験で世界破滅の光景であるかのような巨大な火の玉を目の当たりにしたオッペンハイマーが当時体験した現場の様子と心境を回顧した画像をNBCは1965年に放映した。

 顔面に疲労困憊の表情をたたえたオッペンハイマーは、時に涙に堪えて当時の心境を語る:

 「(その時) 何人かが笑いだした、何人かが泣き出した、ほとんどの人たちは沈黙していた。わたしはヒンズー教聖典のバガヴァッド・ギーターの文を思い出した。ヴィシュヌ (神) が強い印象を与えるために多数の腕をもった形をとって、王子 (アルジュナ) に自分の義務を果たすように説得している。
 ヴィシュヌは語る「我は死の神なり、様々な世界の破壊者なり・・・」 ( 2 )

 オッペンハイマーは、ドイツからのユダヤ系移民の子としてニューヨークで生まれたが、なぜユダヤ教のゴッドに祈らずに、ヒンズー教の聖典「バガヴァッド・ギーター」を思い出したのか。

 彼は、「死の神、世界の破壊者」に自己を同定した戦士アルジュナに、自らの心身をゆだねることで、ユダヤ教では満たされない救済を期待したのだろうか。

 オッペンハイマーは最初の原爆を作り出した後、みずからの両手が血塗られていることをトルーマン大統領に告げたとき、大統領は怒って言った「私の両手も血塗られているのだ」。そしてオッペンハイマーを大統領執務室から叩き出した。 ( 2 )

「原爆の父」オッペンハイマーは1965年 2月18日、咽頭がんが原因でニュージャージー州プリンストンの自宅で死去。62歳。

* * *

 「バガヴァッド・ギーター」は、マハトマ・ガンジーも熟読し、インド 2代大統領・哲人政治家・ラダクリシュナンによるサンスクリット語原典の英訳と詳細な解説もある。

 現在の第18代インド首相、ヒンズー教徒のナレンドラ・D.モディ氏も、当然本書を熟読していることと推察される。

 インドの指導者たちはすべて、「バガヴァッド・ギーター」が教示する「殺と悪」のもっとも深刻な現実化である戦争と軍備にかかわる決断について、十二分な宗教的覚悟をしているだろう。

 1974年 5月18日、インドにおけるブッダの生誕日に、インド政府は原爆を独占的に保有する核先進国の反対を押し切ってインド初の原爆実験に成功した。
 その実施計画のコードネームは「ほほえむブッダ作戦 (Operation Smiling Buddha ) 」であった。 ( 3 )

 1998年、パキスタンが核実験をした。
 世界は常に燃えているのだ。
 三界火宅の世界に満ち満ちているのは、
 何億人の人々の涙でも消すことのできない、
 支配欲・偽善・虚偽の炎ではないのか。
———————
( 1 ) 『修行本起経』などの経典の趣意。高楠順次郎『釈尊の生涯』1936。
( 2 ) https://www.history.com: “Father of the Atomic Bomb” Was Blacklisted for Opposing H-Bomb After creating the first one, J. Robert Oppenheimer called for international controls on nuclear weapons. Paul Ham: Hiroshima Nagasaki: The Real Story of the Atomic Bombings and Their Aftermath.
( 3 ) Wikipedia: Operation Smiling Buddha [a] (MEA designation: Pokhran-I) was the assigned code name of India’s first successful nuclear bomb test on 18 May 1974. [ 1 ] ・・・ The device was detonated on 18 May 1974, Buddha Jayanti (a festival day in India marking the birth of Gautama Buddha) . [11] Notes [edit] 1. This test has many code names. Civilian scientists called it “Operation Smiling Buddha” and the Indian Army referred to it as Operation Happy Krishna. ・・・
 This page was last edited on 26 April 2022, at 08:49 (UTC).

(2022年 5月 5日 記)

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