【NPJ通信・連載記事】色即是空・徒然草/村野謙吉
親鸞とジョージ・オーウェル : 知識人に突きつけた仮借なき批判精神 ( 1 / 2 )
親鸞とジョージ・オーウェルの両者にどのような関係や共通要素があるのだろうか、と訝しく思われるかもしれない。私が、ジョージ・オーウェルの現存する著作の全作品とそれらに関係する重要な文献を読了したのは40年以上前のことだが、両者の生きた歴史的状況や生き様やは全く異なるが、私の心の中の片隅でまったく違和感もなく現在も生き続けている “思想家” としての二人である。彼ら二人に共通していること、それは一体なんだろうかと思案しながら、この記事を書いている。
親鸞は、生涯の様々な段階でいくつかの僧名・号等を用いているが、親の字はインド仏教における最大の学僧ヴァスバンドゥ (漢訳 : 天親・世親 ; 現在のパキスタン・ペシャワール出身) を意味し、鸞は、世親の『浄土論』の注釈書である『浄土論註』を書いた曇鸞を意味している。親鸞は、インドと中国で念仏道をといた二大学僧の衣鉢をついでいるとの自覚と自負を持っていたのだろう。
親鸞とオーウェルのそれぞれの生涯を時代背景や他の重要な関係者らの行動も交えながら、ごく基本的なことを年表風に確認してみたい。
まず親鸞の場合。
・ 1168年、栄西 (臨済宗僧侶;神社家の出身) 、宋に渡る。
・ 1173年、親鸞、日野有範の子として誕生。鎌倉期に活躍した僧侶を身分的出自に触れて述べれば、親 鸞の師・法然は武家の出、親鸞と道元は貴族。日蓮は現在の千葉県・小湊の漁師の子であり平民の出身で、自らを「片海の海人の子」、「海辺の旋陀羅が子」を名乗った。旋陀羅 (センダラ) はサンスクリット語・チャンダーラの漢字音写で、ヒンズー教のカースト社会ではアウトカースト、つまりカースト外の最下級である。もちろん日本列島には広義のアーリアン文明圏におけるような過酷な血統重視のカースト制度はないから、日蓮が「旋陀羅が子」と名乗るのは、ゴータマ・ブッダが唱えた人間の平等観にもとづく彼なりの社会的差別批判である。
親鸞は下級貴族の出身とはいえ仏教者として、出自や社会的職業的差別を超えた人間の平等観を唱えていたことは当然である。「海・河に網をひき、 釣りをして、 世をわたるものも、 野山にししをかり、 鳥をとりて、 いのちをつぐともがらも、 商 (あきな) ひをし、 田畠 (でんばく) をつくりて過ぐるひとも、 ただおなじことなり」 (『歎異抄』) 。
この年、明恵 (華厳宗僧侶:武家出身・平重国の子)、誕生。彼は後に法然の徹底的批判者となる。
・ 1180年、後鳥羽天皇 (日本歌道における美意識の頂点を代表する「新古今和歌集」の編纂者)、誕生。
・ 1181年 (親鸞 9 歳)。天台座主を 4 回勤めた慈円 (九条家の祖・九条兼実の弟) により出家・得度し天台僧となり範宴と号する。その後、親鸞は 9 歳から29歳まで20年間、比叡山で修行。
この年から翌年にかけて飢饉、大風、洪水、疫病などが起こる。多くの人々が餓死し、死臭が世界に満ちて、路傍に生き絶えた母親の乳房を赤子がくわえているような光景を『方丈記』は簡潔に記録する。
・ 1185年 (親鸞13歳)。元暦の大地震。これも『方丈記』に記すところ。「また同じころとかよ、おびたたしく大地震 (おおなゐ) ふること侍りき。そのさま世の常ならず、山は崩れて河を埋 (うづ) み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌 (いわほ) 割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波にただよひ、道行く馬はあしの立ち処 (ど) を惑はす。都のほとりには、在々所々堂舎塔廟ひとつとして全 (また) からず、或は崩れ或は倒れぬ。塵灰たちのぼりて、盛 (さか) りなる煙のごとし。・・・」
この年 3 月24日、源義経、平氏軍を壇ノ浦の海上に破り、平氏一族の多くが戦死。
・ 1187年、栄西、再度、入宋。
・ 1190年、西行 (武家。僧侶、歌人) 寂。
・ 1192年、源頼朝、征夷大将軍、鎌倉幕府を開く。
・ 1200年、道元、誕生。
・ 1201年、親鸞 (29歳) 比叡山を下り、京都の六角堂に100日間籠り95日目に聖徳太子の示現をえたが、「生死 (しょうじ) 出 (い) づべき道」を求めてさらに100日間、六角堂に通いつめる。京都で念仏の教えを説いていた法然に出会い35歳まで師のもとで研鑽。しかし、比叡山を降りて念仏一道を説いていた法然へ比叡山の一部の僧たちの弾圧は増してゆき、奈良仏教界も法然の活動に神経をとがらせて、興福寺の学僧らは時の朝廷に念仏の停止を訴えた。
「洛都の儒林 (朝廷の儒学者ら:司法官僚) 」は、「邪正の道路を弁 (わきま) ふること」なく、正邪の判断が錯乱していた。かくて「主上臣下、法に背 (そむ) き義に違し、忿 (いか) りを成し怨みを結ぶ」 (『教行信証』)。権力の中枢もその配下の官僚も、法治の精神に違反し道義に悖り、怒りと恨みの感情に左右されていた。
・ 1205年 (親鸞33歳)。興福寺の衆徒が法然の提唱する専修念仏の禁止を求めて興福寺奏状を朝廷に提出。
・ 1207年、親鸞35歳、師の法然と他4名の念仏者らと共に僧籍を剥奪され、流罪を宣告される。法然は四国の讃岐へ、親鸞は越後へ流刑。さらに他 4 名は斬首。
・ 1200年、道元 (日本曹洞宗開祖) 誕生。
・ 1211年、親鸞 (39歳) は流罪を解かれて妻とともに関東へゆく。諸説あるが、親鸞は越後に配流中に妻帯したようだ。妻の名を恵信といい、彼女の私信 (1921年、西本願寺の蔵で発見) が残されていて、親鸞の生き様を知る貴重な資料となっている。
・ 1212年 (親鸞40歳)。法然、80歳にて往生。
・ 1221年 (親鸞49歳)。後鳥羽天皇は鎌倉幕府に対して「承久の乱」を起こして破れ、隠岐に配流。
・ 1222年、日蓮、誕生。
・ 1223年、道元、宋に渡る。
・ 1224年 (親鸞52歳)。延暦寺の僧たちは再び念仏者の活動停止を訴える。
・ 1227年 (親鸞55歳)。延暦寺の一部の僧たちは、京都大谷にある法然の墳墓を破却。さらに法然の門下の 3 名が流刑、法然の主著『選択本願念仏集』の版木が焼却される。道元、宋より帰国。
・ 1231年、親鸞、59歳、病臥。
・ 1232年頃、親鸞一家は、京都へ帰る。華厳宗中興の祖・明恵、示寂。
・ 1253年 (親鸞81歳)。道元、53歳、京都で示寂。
・ 1254年 (親鸞82歳)。妻・恵信は、この年以前のある時期に越後へ帰郷。
・ 1255年、親鸞83歳、住居の火災に遭い、弟の尋有 (じんう) の屋敷に移る。
・ 1256年、親鸞84歳、息子の善鸞を義絶。「いまは父子の義はあるべからず候。 ・・・ 今は親といふことあるべからず。子とおもふことおもひきりたり。・・・かなしきことなり。」と親鸞は手紙に記す。
・1259年 (親鸞87歳)。全国的深刻な飢饉。国々に夜盗・強盗が蜂起。
・1260年 (親鸞88歳)。日蓮「立正安国論」を北条時頼に進呈し、念仏宗 (浄土宗) や禅宗を災厄の根源であると批判。
・1263年 1 月16日、親鸞、90歳、往生。
以上が親鸞の生涯の概略である。
親鸞90年の生涯の仏教活動に直接関わる歴史的状況の要点を以下、総括する。
1 。 聖徳太子が確立した和国日本の下に鑑真が築いた日本仏教の基盤である奈良仏教において政治化に汚染された一部の衆徒の乱行。体制は常に退化する可能性を帯びている。
2 。 司法官僚の進言にしたがって突き動かされた、美意識の価値観に生きる後鳥羽上皇の積極的政治介入と失墜。政権の最高実務者 (大統領・首相・独裁者など) が処罰され、彼らを支える上級官僚は生き残る。
3 。 上皇を取り巻く儒教にもとづく現世的思考の司法官僚。宗教と政治と行政の関係は、常に混乱する。
4 。 奈良仏教界に生まれてきた負の性格の批判の下に最澄が命を賭けて築き上げた日本仏教の総合的修行道場としての比叡山の日本天台宗だが、そこで発生した一部の衆徒の政治化した行動。奈良仏教界の退化の反復。
5 。 比叡山で修行した鎌倉仏教の数々の個性的仏教者たちの活動。彼らが明治維新までの伝統的日本人の宗教情念の形成に重大な影響力を持った。
以上のように、複雑に絡みあった激しい歴史的状況の中で90年の緊張した人生を親鸞は生き抜いた。
それでも、日本の鎌倉期は、中国における皇帝の絶対的政治権力とそこに従属する宗教の関係とも違う、また西欧においてキリスト教会が政治権力の上位にあって欧州の国王の結婚問題にも介入し、異端審問と魔女裁判などを行ったような状況とも違う歴史的状況下で、信教と布教の基本的自由はあったから、鎌倉仏教は成立した。
冒頭に掲げた「この世の本寺本山のいみじき僧とまうすも法師とまうすもうきことなり」は晩年に書かれた親鸞の和讃「愚禿悲歎述懐」の一部であるが、「いみじき僧」は「官位において高位の僧」のこと、「うきこと」は「なげかわしいこと」の意味だ。
これは古代から現代にまで通底している、いわゆる宗教教団組織と密接な関係にある特殊な知識人としての聖職者一般に対する親鸞の鋭い批判であるといってよい。
親鸞は犯罪者とされ僧籍を剥奪されたから非僧となったが、だからといって仏教者の本来を放棄したわけではない。そこで非僧非俗の立場を貫いた。
では、なぜ、法然の専修念仏は当時の政権中枢と古代仏教界を代表する奈良仏教界、その批判の下に成立した比叡山の日本天台宗と、さらに鎌倉新仏教を代表する一人の日蓮からさえも危険視されたのか。
これを現代にまで通底している普遍的思想の立場で見れば、一面では既成の保守的秩序体制の批判に関わり、同時に他面では全体主義の独裁思想に深く関わり、しかも仏教の生命観の根底にある「平等」と「自由」の思想の深層に関わる。
「平等」と「自由」の問題は、現実の政府レベルの政治戦では避けられているが、米中の文明的価値観の衝突にもかかわり、現代の世界政治の根幹に関わる最重要な課題である。
とくに西欧近代における「人」と「思想」の乖離を、それとなく指摘したのは鈴木大拙であったと記憶しているが、堕落した聖職者らを批判する親鸞が同様に鋭く批判したのが自分自身であった。
「浄土真宗に帰すれども真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし」
「是非しらず邪正もわかぬ このみなり 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり」 (親鸞、85歳以降作)
様々な文脈から名声・利欲 (量的拡大を限りなく求める人間の所有欲) を超えて親鸞が最も鋭く批判するのは、知の根源的賢 (さか) しらに無反省は人間の支配欲 (人師) である。
『教行信証』は漢文で記述されているが、親鸞は晩年には多くの和讃を著し、和語と漢語を併用して、知識人らの賢しらに深い批判を加える。
「よしあしの文字をもしらぬひとはみなまことのこころなりけるを善悪の字しりがほはおほそらごとのかたちなり」 (親鸞、85歳以降の和讃)
「よしあしの文字をもしらぬひと」の「まこと」に違反しているのは「善悪の字しりがほ」の少数のエリートであり、支配知を操る虚業の政治と経済の専門家としての知識人たちであり、司法を歪めて責任は政治家と行政の当局者に負わせ、実業に従事する多数の無辜の人々の命運を狂わせて恬として恥じない人々ではないだろうか。
これは古代から現代にまで連綿として流れている強固なる知の賢しらであり、これを聖書的には、知恵のリンゴをかじった人間に喩え、ソロモンの栄華に酔う者たちに喩えられるだろう。仏教では、無明煩悩に翻弄された罪悪深重の凡夫という。
『教行信証』の最終巻には、末法史観にもとづき、大乗経典「大方等大集経」を引用して、時代の悪の集合的心象がアポカリプス的に表現されている。
今は「闘諍悪世の時・・・大煩悩の味はひ世に遍満せん。 集会の悪党、 手に髑髏を執り、 血をその掌 (たなごころ) に塗らん、 ともにあひ殺害せん。」
親鸞の在世中、貞慶 (法相宗) は法然の念仏道の活動の停止を求めて「興福寺奏上」を起草して朝廷に提出し、明恵 (華厳宗) は「摧邪輪 (ざいじゃりん) 」を著して法然の念仏道を徹底批判した。
明恵は持戒堅固で知られた華厳宗の学僧であり、仏道を極める決死の覚悟を自らに課して、仏前に向かって右耳の外耳を剃刀で自ら切り落とした。また19歳ごろから没年の58歳まで見た夢とそれに対する解釈を記した『夢記 (ゆめのき) 』が有名であるが、それは自己の煩悩との熾烈な知的戦いでもあったろう。
一方、法然は「知恵の法然房」と知られた当時の偉大な学僧で天性の聖者でありながら、しかも愚の自覚を唱えて知の賢しらに生きる知識人に対する徹底的批判者であった。
伝統的日本の指導者たちと日本文学と大衆の性格形成に大きな影響力を持った仏教者と歌人たち : 法然 (浄土宗)、日蓮 (日蓮宗)、道元 (曹洞宗)、一遍 (時宗)、明恵 (華厳宗)、そして鴨長明 (歌人・「方丈記」の著者)、西行 (「新古今和歌集」で圧倒的存在感を占める歌僧)、中国僧・無学祖元 (1279年来日。時宗の精神的指南役。鎌倉円覚寺創建) らは、みな親鸞と同時代人であった。
1263年 1 月16日、京都の仮住まいで、末娘の覚信、次弟の尋有、数少ない直弟たちに見守られ、わずかな所持品の筆硯を残して親鸞は90年の生涯を終えた。
(2022年 9 月22日 ・ 記)
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