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国立大学法人法成立 : その先に見える景色と私たちの課題

寄稿:野原 光(広島大学・長野大学名誉教授、長野大学元学長)

2023年12月26日

1. 国立大学法人法改正の先に見える景色 : 軍事技術開発と学生切り捨て

(1) 政府直轄の大学
 この間10年ほど、政府の大学への補助金政策は、いつも執拗に「ガバナンス改革」を補助の要件としてきた。それがとうとう国立大学法人法改正 (2023/12/13成立)で 、「ガバナンス改革」そのものが、それだけでむき出しに法制化された。しかもその中身たるや、学長の上に「運営方針会議」を作り、その委員の任命は文科相の承認を必要とするという。補助金による大学誘導から、いよいよ、直接的な大学統制に踏み切ることになった。
 これほどまでに大学を統制し、言うことを聞かせて、政府と経済界は、いったい何をやりたいのだろうか。内閣府所管の「総合科学技術・イノベーション会議」 (CSTI) の「総合イノベーション戦略2023 (案) (概要) 」(2023/06/08) によると、「先端技術の急加速」、「国家間競争の激化」というひっ迫した情勢を受けて、それに対応できる「科学技術・イノベーション政策」の強力な推進が必要であり、それを CSTI が、「司令塔」となって進めるという。とすれば、たしかに「司令塔」の指示のもとに打って一丸となって、大学を挙げての科学技術開発に驀進するためには、各大学の学長の上に、「運営方針会議」のような、「司令塔」の指示を直接に受け止める組織が必要であろう。実行部隊としての大学が司令塔の指示に従わなかったら、司令塔は司令塔として機能しえないからである。

(2) 直轄の大学で何をやるのか
 さてでは、どういうフィールドで、このような「科学技術・イノベーション政策」の展開を図ろうとしているのか。軍事分野が、唯一のフィールドではないが、「安全保障環境の改善」や「同志国連携」という言及からは、軍事分野が、その有力な一つになっていることが見えてくる。その具体的な制度設計は、法の執行の具体策を示す行政の政令や省令のレベルに潜んでいる。筆者たちが起草した「地域と大学を考える会」 (https://chiiki-daigaku.org/) 有志の声明の指摘を繰り返そう。光本によると、この法改正と対をなす「国際卓越研究大学」制度の運用の「基本的な方針」(2022年11月) には、「外部資金の獲得実績や大学ファンドへの資金拠出などに応じて、個々の大学への助成額を決定する」とある(「国際卓越研究大学の危険性」(18頁)( 光本滋 軍学共同反対連絡会News Letter NO.73 2022/11/27 )。ここでいう外部資金の制度として、ひとつ有力なのは、防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」である。この制度は2017年度に、当初予算ベースで20億円から始まり、2023年度には96億円と約5倍に急増している。「国際卓越研究大学」のばあい「外部資金の獲得実績」に応じて「個々の大学への助成額を決定する」のだから、指定された大学は、「外部資金」欲しさに、急激に予算総額が増えている「安全保障技術研究推進制度」にいやでも傾斜していかざるを得ない。しかもこれまで、この制度は、大学からの応募を待ち望んでいたが、学術会議によって待ったをかけられていたので、大学からの応募急増は願ったりかなったりである。「国際卓越研究大学」の「ガバナンス改革」が、そうでない国立大学にまで拡大されたように、外部資金獲得も、防衛装備関連の資金に誘導されていくことは必定である。
 そもそも資本主義経済は、成長、すなわち拡大再生産=資本蓄積の新しいフィールドを常に探し求めている。それがないと窒息してしまう。AI等の情報技術分野の急速な発展は眼を見張るほどだが、日本は出遅れた。国のバックアップによって何としても追いつかなければならない。さらに防衛技術の分野は、平和憲法にさえぎられて、まだまだ日本企業にとっては、フロンティアである。成長力の鈍った日本企業にとっては垂涎の草刈り場である。生き延びるために何としてもこの草刈り場になだれ込もうとする。

(3) 学生の切り捨て
 これが法改正の先に見える景色の一つである。もう一つ見える景色として、こういう大学で学生はいったいどうなってしまうのか。そもそもこの20年来、大学はどうやって若者を育てようとしてきたのか。政府・経済界の関心は、もっぱら、激しい国際競争を勝ち抜くための有能な技術人材の育成である。対する大学の側の考えていたことは、大勢としてみれば、どうやったら学生を、もしくは優秀な学生を集められるか、という受験市場におけるマーケティング戦略だけである。この戦略が、手を変え品を変えた似非「大学改革」として現れ続ける。ところがどちらも肝心の若者たちの現状には無関心である。現代日本の10代の終わりから、20代の初めの若者たちが、どういう生きにくさにもがき、どういう知的渇望を抱きながら、しかしそれを適切な形態で表現できないで苦しんでいるのか、この肝心の問題に、焦点を合わせようとする大学は、殆ど見出すことができない。
 それに加えて、2014年の学校教育法改正によって、大学の意思決定権限が、学長に集中し、教授会は単なる諮問機関になり、教授会自治は制度上否定されることになった。その後教授会の上に、様々な意思決定組織が重ねて作られ、大学で直接に研究と教育にたずさわる教職員と、そこで学ぶ学生とが実際に活動している現場とは、はるかに離れたところで大学の意思決定が行われるようになった。今回は、その頂上にさらに、「運営方針会議」が制定される。現場からはるかに離れた「運営方針会議」のメンバーには、研究と教育を実際に営んでいる教職員、学生の顔は全く見えない。したがって、彼らは政府の政策動向と提出された書類と数字だけを根拠に、物事を判断し、決定していくことになる。組織の意思決定が現場から離れて書類の回覧だけで進んでいく。だからいまでもすでに、学生用トイレの修理ができなくなり (金沢大学)、学生診療所が閉鎖され (京大)、学生練習用のピアノが処分され (東京芸術大学)、グラウンドがでこぼこのまま放置され、校舎の雨漏りも放置され (長野大学)、という事例が頻発している。現場からさらに離れた「運営方針会議」で大学の基本方針が決められるようになれば、学生不在の方針決定はますます加速されるだろう。
 しかも厄介なことに今回の国立大学法人法改正によって、大学債の発行、大学校地の貸し付けが、認可制から届け出制へと規制緩和された。ただでも金欠病に悩まされている大学に対して、校地を貸してどんどん稼げというわけである。財政難に苦しむ大学は、何とか貸し付ける校地を捻出して、貸し出すことになるだろう。学生寮や、グラウンド整備や、学生の自由空間のための校地は、金を食うだけで一銭も生まない。だから学生の顔を思い浮かべることのできない「運営方針会議」の方針決定によって、そういう校地は、どんどん削られていくことになる。こうして学生のキャンパスライフの質の一層の低下、これが国立大学法人法改正の作り出すもう一つの景色である。

2.  国立大学法人法改正反対の運動を通じて、人びとが手に入れつつあるもの

(1) インターネット世界と現実世界の結合
 今回は力及ばずして、国立大学法人法改正の成立を阻止できなかった。しかし阻止に向けて取り組んだこのプロセスは、法案阻止に敗れたからといって無駄だったわけではない。筆者自身は、一方で大学横断ネットワークの最後尾に加えてもらい、他方で小さな地方公立大学で起こっている、目を覆いたくなるような統治ルールの蹂躙に抵抗する運動の一翼にいる、一介の超「後期高齢者」に過ぎない。しかし、そういう限られた体験と視角からでも、いくつかのことが見えてきたように思う。第一にどういう武器を運動は手にしつつあるか、第二に、何が、運動に残された課題として眼前に立ち現れつつあるのか、このふたつのことがかなりはっきりと見えてきた。その点で、我々は限りなく大きな成果をつかんだ。その意味で我々はstill activeである。社会の来るべき全体主義化の危機に備えて、以下、我々のつかんだ宝物のような、この二点を確認しておこう。
 まず、どういう武器を我々は手にしつつあるか。国立大学の定年間際だった筆者の狭い体験から云うと、2004年の国立大学独立法人化の際には、反対の運動はまだまだ広がりをもたなかった。筆者は、北大の数学の教員Xさんのメールを頼りに、身の回りの知人と細々とメールを交換しながら、警鐘を鳴らし続けるだけだった。学内で小さな学習会も開いたかもしれない。だが筆者だけでなく、反対運動の全体も結局インターネットメールの外の世界になかなか出られなかったのではないか。その後、途中に教授会自治を否定し、学長のトップダウン指示を制度化する学校教育法改正  (2014)  を経て、今回2023年、ふたたび国立大学法人法改正となった。だが今回は、格段に発達したインターネット世界を、我々は手にしていたし、それを生かすことができた。新聞、テレビ等のマスメディアが沈黙する中で、この僅か数か月の間に、インターネットの世界での、ニュース報道、実況録画、対談報道、署名活動、ネットワーク内外のやり取り等、実に多様な活動が展開し、しかもそれらが相互に影響し合って、相乗効果をもたらした。さらにそれがインターネットの外の現実世界での活動と結びついて、現実世界での活動に力をもたらした。インターネットを通じた呼びかけによる国会院内集会、文教委員会傍聴、議員へのファックス送信などである。インターネットの世界と現実世界を縦横に繋ぐ、この共通体験は、次にはもっと組織的に、自覚的に今後の運動の中で生かしていくことができるだろう。東欧のビロード革命のときにそうであったように、インターネットがまさに、現実世界での民衆運動の武器になるということである。だからこそまた、一内閣の放送法の解釈変更によって、個別の報道内容にまで介入する政府の動きを、インターネット規制への前哨戦としても、食い止めなければならないのだが。

(2) 所属大学にとらわれない大学関係者の横断的ネットワーク
 もう一つわれわれは武器を手にしつつあると思う。それは「『稼げる大学』法の廃止を求める大学横断ネットワーク」に見られるように、所属する大学の枠を出て、教員個人が一人一人の教員として、自分の意思で参加する運動組織が現れたということである。2004年の独法化以降も、それが日本の大学体制全体への攻撃であるにもかかわらず、個々の教員たちの意識は、なかなか自分の所属組織を離れられなかった。大学問題に関心を持つ教員、そして有能な教員ほど、その良心的な努力が、いわゆる「大学改革」、言い換えれば、個別大学の市場競争力強化のマーケティング戦略に吸収され回収されてしまう。このジレンマに我々は頭を抱えてきたわけだが、いまやようやく所属大学の制約を超えて、日本の「大学改革」と「大学政策」に、連携して意見を述べようとする大学教員たちが続出するようになってきた。今は日本の大学総崩れの時である。幕藩体制末期に志士たちが脱藩したように、大学教員たちは、自分の藩の立て直しに終始するのでなく、個別の大学から心理的に脱藩することが求められている。求められているのは旧幕藩体制 (日本の大学体制) の復活ではなく、新しい民主主義的な学問共同体の誕生だからである。
 そもそもそれぞれの大学を振り返ってみれば、それぞれの教員は、必ずしも日本社会の民主主義の命運への関心や、学問の自由や、時代の若者の直面する生きにくさへの共感や、そういうものによって、それぞれの大学に集まっているわけではない。この著しく細分化された専門分化の世界で、自分の狭い分野で業績を上げ、その評価を挙げることをもっぱらとして集まる者も多いし、それが分業化社会の人の所業であるとすれば、それをただちにけしからんともいいがたい。けしからんと言おうとも、この市場主義万能世界では、こういう人々が絶えず拡大再生産される。これが今日の大学なるものの赤裸々な現実である。つまり個々の大学の現実は、民主主義、学問の自由、若者への共感等において、志を同じくする者の集まりではない。だからこそ、国立大学独法化以降、この20年にわたって、800もある日本の大学の中で、この間の政府の大学政策に正面から異議ありと声を挙げた大学は、組織としてはただの一つもない。志を一つにする者の集まりではないから、そしてそれぞれの大学が生き残り競争に必死であるから、そういう組織合意を形成することはほとんど不可能なのである。それに近い動きをしようとすれば、学内からも巻き返しの動きが起こって、北大総長の懲戒解雇のようにつぶされる。
 したがって、ここまで大学が崩れてくると、もっぱら個々の大学の民主主義的再建を通じて、日本社会の民主主義的再生の努力に加わろうとしても、大学内合意形成に力を使い尽くしてしまい、肝心の動きに加われない。個々の大学は、志を同じくする者の集まりではないから、然も違う志向の人々が次第に優勢になりつつあるから、そうなるのは当たり前なのである。したがって、一方で自分の所属大学が政府のお先棒担ぎや受験市場のマーケッターに純化することに抵抗しながら、他方で、民主主義と学問の自由と若者の困難への共感という意味で、志を同じくする個々の大学関係者 (教員と職員) たちが個人として集い、社会に発信していく、そういうネットワークの強化が、急がれるだろう。
 なお、次に「3.眼前に立ち現れてきた課題」を書かなければならないが、紙数を大幅に超えた。他日を期したい。

(了)

プロフィール : 1942年生まれ。広島大学・長野大学名誉教授、長野大学元学長。
(専門は工場作業組織の国際比較)
「稼げる大学」法の廃止を求める大学横断ネットワークメンバー

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