【NPJ通信・連載記事】読切記事
ルポ「震災4年の福島」② 中間貯蔵開始の大熊町 行方不明の二女を捜す父が講演「娘が眠る場所を 売る気も貸す気もありません」
福島でぜひ汐凪(ゆうな)さんについての講演会を ———。原発の町・大熊、最後の行方不明者となった二女を捜す木村紀夫さん(49)と筆者の思いは、震災4年を前に実現した。
「どれだけの人が足を運んでくれるだろうか」
私たちの不安をよそに、南相馬市の公民館には、近くの仮設住宅や県内、また首都圏や関西からの参加者も含め約140名もの方が集まってくれた。
「家族を失った方が多い南相馬で自分だけが話をしていいのか悩みました。ただ、原発事故のために生じてしまった様々な溝や壁を取り払えたらと思い、決意しました」
冒頭、木村さんはそう語り、自身の震災体験を話し始めた。
4年前、木村さんの父、妻、二女の汐凪さん(当時7歳)は津波に流された。自宅は東京電力福島第一原発から3キロのところにあった。政府による避難指示のため、震災翌朝、木村さんは家族の捜索を断念させられた。その後、父と妻の遺体は発見されたが、汐凪さんは行方不明のままだ。「家族を捜してやれなかったことが悔いとして残っています。自宅の近くに汐凪がいるかもしれないという思いで、今も捜索を続けています」。木村さんはそう語った。
木村さんの自宅周辺は中間貯蔵施設の予定地となっている。失った家族とつながれる唯一の場所を守りたいと、昨年8月、町に意見書を提出した。木村さんは全文を読み上げ、その思いを話した。「私の土地は売る気も貸す気もありません。また、交付金にも違和感があります。原発で潤っていた頃の大熊町に戻るのかと」
国は住民を助けてくれない
講演会のゲストは皆、津波や原発避難で家族や親しい人を失っている。
南相馬市の上野敬幸さんは津波で家族4人が流され、行方不明の父と息子を捜している。原発事故のため自衛隊による捜索が遅れた当時を振り返り、「俺たち、見捨てられていると感じた」と言う。「原発報道ばかりで津波の被害者について伝えられることが少ない。とても憤りを覚える」と訴える。
木村さんの隣人だった新長カツ子さんは震災直後に両親を失った。介護施設を出たバスが迷走を続けた末のことだった。「原発事故のあと、体の弱い人は安全に避難させてくれると思っていたが間違いだった。いざという時、国は住民を助けてくれない」
汐凪さんがいた児童館の先生・渡部千恵子さんは、閉ざされた町の姿を知らせたいと、大熊町ふるさと応援隊を立ち上げた。
「中間貯蔵施設は受け入れざるをえない面もあるが、汐凪さんを見つけるため自宅の周辺はそっとしておいて欲しい」と話す。
木村さんの親戚・鎌田清衛さんは、中間貯蔵施設の予定地にある神社などの保存活動をしている。「先祖代々の土地は私たちだけのものではない。きれいな形で次の世代に残してやりたい」と語った。
福島の声を受け止めて
参加者からは多くの感想が寄せられた。
「原発は押しつけられたのか受け入れたのか、という問題提起は、地元紙でも論じられないテーマで興味深かった」(南相馬市 30代女性)
「いま再稼働に向けて動いている自治体に言いたい。あなた方、事故が起きたら責任を取れますか。福島を見てわかったでしょと」(大熊町 50代男性)
講演会で聞き手を務めた作家の渡辺一枝氏が、この催しの感想を語ってくれた。「私が交流を続けている仮設住宅の方も、自分の思いを腹の底から吐き出せないと言います。今日は、被災者が被災者の前で語ることの意味を感じました。また、他府県からの参加者が、中間貯蔵施設の問題を“我が事”として考えるきっかけになったと思います」
大熊町での現地学習会と講演会を終えて、木村紀夫さんはこう話す。
「学習会では、仲間が見つけてくれた娘の持ち物を見つめる参加者の姿が印象的だった。ぜひ、被災者の生の声を受け止めて、福島のことを考える機会にして欲しい」
文・写真 尾崎孝史(写真家)
こんな記事もオススメです!