【NPJ通信・連載記事】読切記事
死語になった?選良
「選良」という言葉を辞書で調べる。広辞苑には「すぐれた人物を選び出すこと。またその選ばれた人。特に、代議士をいう」とある。大辞林では「選ばれたすぐれた人物。特に国会議員をさす」だ。
「選ばれる」→「すぐれた」→「国会議員」という発想らしい。
日本語源広辞典という特殊な辞典にはいきなり「日本ではもっぱら代議士をさす」と出てくる。こちらは「選ばれた」「すぐれた」の2条件はわざわざいうまでもなく当然の前提という含意か。
「あー、それなのに」である。昨今の国会議員、特に自民党議員の中には「選良」と呼ぶに値しない人物が多い。選挙で当選したのだから「選ばれた」「国会議員」という2条件には合致しているとしても、「すぐれた」とはとても言えない人たちが赤じゅうたんの上を闊歩している。選挙制度や選挙区事情のお陰で当選はしたが、すぐれてはいない、本来なら選ばれないかもしれない知的レベルの議員がごろごろいる。
その一人、同党衆院議員の桜田義孝は2016年1月14日、党の会合で従軍慰安婦について「職業としての娼婦だ。ビジネスだった。これを犠牲者だったかのようにしている宣伝工作に惑わされすぎだ」と放言した。
前年暮れ、日本側が軍の関与や政府の責任を認めた、日韓両政府の合意が出来て一ヶ月もたっていないタイミングだ。彼自身、そうした合意をした政権の一員だった時期もある。批判されて発言を取り消したが、いったん口から出た言葉は消えない。政治家として無責任きわまる。
仮に、彼のいう通りだったとしても、そして当時は売買春が違法ではなかったとしても、女性たちを性の対象としてしか扱わず、その尊厳を踏みにじった罪は許されない。桜田には倫理的反省も全然ないのである。知的退廃というしかないだろう。
その6日前には、同党の新藤義孝が衆議院予算委の質問を「平成28年が明けました。伝統的な数え方で言えば皇紀2676年…」と切り出した。皇紀とは神武天皇が即位したとされる、西暦紀元前660年を元年とする、神話に基づく年数の数え方である。
日本が太平洋戦争を始める直前、1940年には皇紀2600年として盛大に祝われるなど、皇紀は国威の発揚、太平洋戦争の完遂に向けた国民精神総動員のために利用された。明治初期に定められたのだから必ずしも伝統的数え方ではないが、新藤の発言が復古調であることは間違いない。
前年3月にはやはり自民党の三原じゅん子が参議院予算委で、日本が侵略戦争を正当化するスローガンとして宣伝した「八紘一宇」を「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」と肯定的に評価して批判を浴びた。
「皇紀」にしろ、「八紘一宇」にしろ、歴史を少しでも学んでいれば、軽はずみには使えない。少なくとも公の場では、まして公人は控えるのが知的な態度であろう。
知に対する敬意の欠如は安倍政権、安倍自民党の面々の特質だが、3人も例外ではないようだ。これでも大臣や副大臣の経歴があるのだから「選良」の名が泣こうというものだ。
他にも「選良」と呼ぶに値しない国会議員が何人もいる。下着泥棒の疑いについてきちんと説明できないまま閣僚席にしがみついていたり、金融疑惑、セックススキャンダルを報じられてもまともな反論も釈明もせず、自民党を離党しただけで議席に居座っていたり、香典の名目で買収まがいの政治資金ばらまきをしたり……枚挙に暇がない。
そもそも首相の安倍晋三でさえ「選良」といえるかどうか。国会の質疑では野党の追及を受けても丁寧に説明することをせず、「レッテル貼り」「揚げ足取り」などと逃げまくる。質問を「枝葉末節の議論だ」と切って捨てたこともあった。
枝葉末節かどうかは有権者が判断することであり、政権担当者には問われたことについて真摯に説明する責任があるが、安倍は丁寧な説明どころかしばしばけんか腰になる。答弁席からのヤジもやまず、知的な人物なら当然、自覚していなければならない「節度」も「自重」も「自粛」も感じ取れない。
不誠実な国会対応はきちんと答弁するには知識も見識もないからだ、と受け止められても仕方あるまい。
社会生活や政治に関する経験が豊富で、きちんとした政治哲学も持ったベテラン議員が次々と引退し、国会では安倍に代表される未熟な政治家の威勢のよい議論が横行して政治が暴走している。
多くの有権者はその実態を知り、不安と苛立ちを感じている。最高裁に「違憲の疑い」と何度言われても、議員定数の配分変更を拒否して議席にしがみつく議員たちを「選良」とはとても思えまい。
いまや「選良」は辞書の中にあるだけで現実社会では死語ではないか。
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