【NPJ通信・連載記事】読切記事
ルポ 「福島 5年目の証言」
「きょうはここから捜していこう」
3月5日、福島第一原発から3キロの海岸にボランティアが集まっていた。スコップを手に掘り出したのは瓦礫の山。津波に流され行方不明になっている少女、汐凪さんを捜すのが目的だ。
汐凪さんの父、木村紀夫さんは原発事故のため娘の捜索が許されなかった。その後悔を胸にかかえて過ごしてきた。
「震災直後はあれだけ原発のことが騒がれたのに、いまは再稼働なんてことになって」と問いかける知人。木村さんは、「自分の体験が全部無駄になってしまったようで非常に残念です」と話した。
原発の構内では人身事故があとを絶たない。2014年3月には初の死亡事故が起きてしまった。復旧工事にあたっていた作業員が、5号機近くの施設で生き埋めになったのだ。
犠牲になった安藤堅さん(享年55)は、父・文男さん、母・チエさんと3人で暮らしていた。学生時代には野球部で活躍する活発な青年だった。タクシー運転手をやめ、建設業についたと両親は聞いていた。職場が原発だと知ったのは事故の直前だった。
「息子から原発で働いてると聞いてドキッとした。息子は、『テレビに映るような危険なところじゃないよ』と言っていた。そして、普通の土木作業より稼ぎが良いって。そう言えば、週末帰ってくるときに買ってくる肉の量が増えていた」
一人息子を喪い、生活保護を受けて暮らすようになった文男さん。遺骨を前にこう話す。
「なげ、こげなった!(どうして、こうなった!) やめっちまえばいい、あんなもの(原発)。電気より人の命が大切だろう。親が死んだときよりつらい」
震災5年を前に、重い口を開き始めた人もいる。
2011年11月、浪江町の自宅に一時帰宅した際、割腹自殺した今野富夫さん(享年59)の兄、豊勝さん。子どもの頃、浪江の山で一緒に遊んだ弟の変わり果てた姿にショックを受けた。
「弟は建設会社の責任者として原発で働いていた。震災の日もイチエフ(福島第一原発)にいたんだ。稼いだ金で家の周りの田んぼをこつこつと広げ、正月には親戚にごちそうをふるまってくれた。本当に真面目なやつだった」
日々の暮らしを支えていた原発。その事故のため故郷は汚され、人が住めなくなった。そのことは、富夫さんにとって耐えがたいことだったと豊勝さんはいう。
「原発さまさまの町だったんだ。弟だけでなく、多くの町民にとって。その原発に裏切られて。弟は事故のあと自宅に戻る度に、『もう元には戻らない』と言ってがっくりしていたそうだ。自殺の原因は原発だべな。殺されたように感じる」
いまだ帰還困難区域として閉ざされたままの故郷。豊勝さんは、富夫さんの墓を関東にある自宅のそばに移した。その墓を訪ねてくる人はあまりいないという。「どうしても時間が経つと忘れられちゃうわな」
原発で事故死した堅さんの父・文男さんは、その年の11月、病気で亡くなった。母のチエさんはひとり、介護施設に入所している。
二人に起きた悲劇と、底知れぬ憤りの思いを伝えてくれたご遺族の証言は極めて重く尊い。そこからどれだけの教訓をくみ取れるか。いま、私たちが問われている。
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