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【NPJ通信・連載記事】選挙へ行こう~自民党改憲草案と参議院選挙@2016

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参院選について、日常から延長させて考えること

寄稿:三栖利美(仮名)(津田塾大学聴講生)

2016年7月6日

人生で3回目の投票をむかえる今、1、2回目と比べれば自分の中で随分と政治への関心が薄れてきたように感じる。

人生初の投票は都知事選で、色々考えて気合を入れて投票したのに、その選挙で決まった人は、任期を全うすることもなくやめてしまった。早くも、少し虚しい気までしてくる。新聞を読まない日も多い。

しかし、それでも、私は当然のこととして、投票に行く。なぜなら、今の政権の向かう先に、自分や家族、友人たちの明るい未来――それは私にとって「穏やかな日常」—―を見ることができないから。

勉強不足で細かことはよくわからないけれども、少なくともこの30年ほど、自民党政権はほとんどブレずに特定の方針に則ってきたように見える。

ひとつ、対外的にはアメリカ追随でいくということ。

もうひとつ、対内的には、弱肉強食でいくということ。

私はどちらにも賛成できない。だから、その方針とは別の道を拓くため、私にできるほとんど唯一の抵抗手段である「投票」をする。

一つ目の点、アメリカとの軍事的結びつきは、安保法制の成立で一層強固なものとなった。このまま行けばいずれ「足枷」となってきた憲法9条が変えられ、アメリカの戦争・紛争に巻き込まれる危険は格段に高まる。そうすれば、やがて東京などでテロが起こるようになるだろうし、困窮した学生(それは私の友人かもしれないし、子供かもしれない)が、人を殺したり殺されたりするようになるということだ。
そんな日常が今より幸せなんてとても思えない。

二つ目の点は、しばしば「自己責任」や「自助努力」という言葉に変化して登場したりする。裏を返せば、ごく一部の勝ち組だけが甘い汁を吸って、残りはどうにでもなりなさい、ということだと理解している。「やる気」や「努力」でなんとかできる、という考えは、その人がいわば「五体満足」で、自分の力だけでなんとかやっていける状態にいることが前提になっている。しかし、障がい者や病人に限らず、あらゆる人間の生涯において、そのような「強い」期間は限られている。どんな人でも、幼少期や高齢になってからは「弱い」状態になり、人の助けがなければ生きていけない。それにもかかわらず、ごく一部の「強い」人たちだけに合わせて社会が作られていくのは、全くもっておかしいことだ。

このような考え方は、現政権の方針に反対する理由としては、拍子抜けするほど単純なものに見えるかもしれない。けれども「私にとって一番大切なものが脅かされる危険が高まる」これ以上の理由は私にはいらない。

現政権の方針に反対するとして、ではどこに投票するか、ということも、日常を離れて決めることができない。

政治をめぐる議論が、自分の日常の生活からあまりに離れてしまったと感じるとき、自分の存在が無視されたまま物事が決められていっているように感じて、反発を覚えることもあるし、反動的な考えに走ってしまいそうになることさえある。

一方で、自分の生活している「今ここ」だけを考えて投票したいとも思わない。自分の日常生活を時間や場所を「ちょっと延長」させた先、たとえば、自分の家族ではないけれど誰かの家族である人、今すぐの話ではないけれど将来問題になりそうなこと、などにまで目線を広げたい。そして、出来ることなら、誰かが不当に不幸になってしまうようなことを最大限避けられる道が拓けるように投票したいと思っている。

たしかに、私は政治の動向にそれほど強い関心がない。誰かと議論して論破できるほどの知識もない。けれども、今の日常を延長して行った先に、自分や自分の大切な人たちの明るい未来を見たいという気持ちは、自然と私を投票所に向かわせる。

人々の日常生活の積み重ねとも言える「歴史」は、抗うことのできない運命ではなく、主権者である私たち自身の、小さな選択の積み重ねによってつくられていくもののはずだから。

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