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【NPJ通信・連載記事】メディアは今 何を問われているか/桂 敬一

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第45回 だれが牧伸二を死なせたか―時代を映し出せなくなったメディア

2014年5月6日

4月30日、新聞・テレビがいっせいに、戦後昭和の最盛期にウクレレ漫談で人気を博した、牧伸二の死を報じた。 続報によれば、彼は前日29日未明、東京・大田区と神奈川・川崎市とを結ぶ中原街道の丸子橋の手摺りを乗り越え、 下を流れる多摩川にみずから身を投じた、ということだ。橋の欄干には彼が遺した杖が立てかけてあったという。 彼は11年前、脳出血で後遺症に悩まされ、歩行には杖を必要としていた。橋の中央までゆくのに車を使った形跡がない。 タクシーを使っていれば、何らかの情報が得られたはずだ。東急・多摩川線の多摩川駅か、ひとつ蒲田寄りの沼部駅で下車し、 難儀しながら辿り着いたのか。あるいは自宅は大田区だというので、丸子橋が近かったのなら、川に向かうあの中原街道の長い坂を、橋の半ば目指し、 不自由な足で下っていったのだろう。遺書は発見されてない。二度と戻らぬ道を、覚束ない足どりで独り往く彼の姿を想い浮かべるとき、 悲しみとともに、なぜか、言いようのない大きな怒りを感じる。

私は若いころ、ほとんどテレビを見ない人種だった。見ることができなかったのだ。姉や弟が中学卒で働く、食うや食わずの暮らしの家に、 テレビはなかった。私は昼間の都立高校に通っていたが、週日は全部、よそで晩飯付きの家庭教師。夏休みなどは町工場などでのアルバイト。 仮に狭い家にテレビがあっても、見る時間がなかった。大学にいっても事情は同じ。 大学の4年からは、家にもいられず、裕福な叔母の家に間借りし、家を離れたが、週7回の家庭教師、翻訳などのアルバイトに追われ、 そこには寝に帰るだけで、茶の間のテレビは見ることもなかった。 大学3年の1958年、日清製粉社主の令嬢、正田美智子さんが皇太子(現天皇)と婚約、「粉屋の娘」 が王子様に見初められたと、 メディア好みの話題が弾け、ミッチー・ブームが巻き起こり、プロダクト・ライフサイクルの初期段階にあったテレビが100万台の大台に乗り、 ご成婚の翌年には一気に200万台に達し、本格的普及期に突入した。 私は、月給の安い団体に就職、東武東上線の郊外に建つ、住宅公団の世帯者向け団地に独りで入居していた兄に誘われ、同居することになったが、 二人一緒でも、テレビを買う余裕はなかった。蕎麦屋の壁の棚の上とか、駅前広場のヤグラの上とかに置かれた受像機で、 力道山や美空ひばりを眺めるのが、テレビというものだった。

テレビがうちにきたのは、1963年になってからだ。兄は60年安保の騒ぎが収まった翌年ごろ、神奈川・川崎市の中学の教員に採用されたが、 埼玉・川越近くの団地からはとても通いきれず、居住名義をそのままに、私を残して出ていった。 それから3年近く独り暮らしをしていたが、いつの間にか女性と一緒に暮らすことになった。職場にアルバイトにきていた女性、現在の妻だ。 多摩川べりの町から埼玉の辺鄙な団地によく遊びに来たものだ。来るたびに、鍋や食器の類が増え、やがて電気冷蔵庫が来着、 ついで本棚が来て積み上げてあった本が収まり、畳部屋が片づき、本人がそのまま自宅に帰らなくなったころ、ダイニングキッチンの冷蔵庫の上に、 小さな白黒テレビが鎮座した。結婚式はしなかった(カネがなくてできなかった)が、到来の品々は妻の嫁入り道具というわけだ。 そのテレビで日曜日に発見したのが、牧伸二だった。日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)、 日曜日正午からの 「大正テレビ寄席」の司会者として活躍していた彼である。 落語は好きだったので、ラジオでよく聴いており、あまり好きではなかったが、同じ寄席芸の漫才や声色・物まねも、多少は知っていた。 ところが、牧伸二司会のこの番組の出演者の笑わせ方は、伝統的な寄席芸のそれとは、ひと味もふた味も違っていた。 漫才の 「コロンビア・トップ・ライト」 はすでに馴染みの存在だったが、ここでは痛烈な政治風刺を放ったりした。 初めてお目にかかる 「コント55号」 や 「てんぷくトリオ」 は、奇っ怪な所作とともに、痛快な社会風刺を披露してくれた。 それらは、時代の不条理を映し出していた。

司会の牧伸二自身が、ウクレレを爪弾きながら登場、例の 「やんなっちゃった節」 の新作を、鼻歌の乗りでいくつか紹介、 番組の気分を盛りあげるのが慣わしだったが、その多くが政治や社会の出来事を風刺するもので、それはニュース性豊かなものだった。 「ビルが建つよ、道路ができる/高速道路のその裏側で/スピードアップは汚職です/オーショク(汚職?)人種じゃ無理もない/ああ、ああ、 やんなっちゃった/ああ、ああ、驚いた」。最初の4つの区切りがそれぞれ1行で、4行詩(ソネット)だ。 それにどの作にも 「ああ、ああ、やんなっちゃった」 のリフレインがつく。 高度成長で会社が大いに潤い、その余滴が社員にも回り、マイカー、マイホームにありつける人も増えていった。ところが、安月給のわが家は、 高度成長の余恵とは無縁だった。「公約すぐに忘れちゃう/政治家やはり呆けてるか/いえいえ呆けていませんよ/上に 「と」 の字がついてるよ」。 列島改造計画といっても、こちらにはピンと来ない。政治家の汚職の大型化ばかりが鮮烈に思い出される。 牧伸二は、時代に流される国民大衆の軽佻浮薄にも、遠慮のない裸の眼を向けた。 「フランク永井は低音の魅力/神戸一郎も低音の魅力/水原弘も低音の魅力/牧伸二は低能の魅力」。 だが大衆を、ただ冷たく突っ放すのでなく、自分をも茶化す眼差しがそこにはあり、それが優しさを保証していた。 後のたけしのようには、シニシズムに陥らなかった。

わが家にテレビが来た。おかげで、滑り込みセーフで東京オリンピックもテレビで見られた。 しかし、世間を知るものとしては、牧伸二との出会いのほうによほど大きなありがたみを、テレビに感じた。だから腹が立つのだ。 なんで今のテレビには 「牧伸二」 がいないのか。そもそも彼をそこにいられなくさせたのも、今のテレビのせいではないのか。 彼自身に限れば、年齢とともに体力も衰え、時代感覚も鈍磨し、才能が涸渇したのかもしれない。 しかし、才能のある若者たちが彼のあとを襲ってつぎつぎに出現、鋭い政治風刺、社会風刺でテレビを賑わせ、国民大衆を笑わせつづけてきていたら、 それを見る彼も嬉しく思い、満足したに違いない。自分の苦労が報われたことを日ごろ目にしていたら、彼も自殺はしなかったはずだ。 それにしても、なぜテレビはそういう才能を、つぎつぎに生み出すことができなかったのか。 バブル崩壊直前の80年代末、風刺コント集団 「ザ・ニュースペーパー」 が登場した。ネタはいくらでもあった。 だが、小泉構造改革のころは、まだ多少テレビでも見かけたが、もっとネタになるはずの第1次安倍内閣ぐらいからは、とんとテレビに現れなくなった。 見たければ、劇場公演にいくしかなくなった。「爆笑問題」 もせっかくの才能を燻らせっぱなしだ。 「3・11」 後となると、ネタはいっそう溢れかえっているのにだ。最近、ユーチューブにアップしてあった 「原発やんなっちゃった節」 のソネットを発見した。 なんと大震災発生後、3か月も経たない6月1日のアップだ。 「ただちに影響ありません/健康被害はございません/20ミリでも安全です でも/20年後は知りません」、 「ヨウ素の半減期は8日間/セシウムならば30年/プルトニウムは2万4000年/そんなに長生きできません」、 「津波の高さは 想定外/電源喪失 想定外/炉心溶融 想定外/あんたの給料も 想定外」。冴えているではないか。 投稿なので、オリジナル作詞者の名前が分からないのが残念。

ヨーロッパはエンタテインメントとしての政治風刺・社会風刺がメディアのうえでも健在だ。 フランスでは、ときに賛否相半ばするが、有料の民間放送 「カナル・プリュス」 の、 著名な政治家をモデルにした情報人形劇 「レ・ギニョル・ド・ランフォ」 が評判だ。ほかでは、政治家の物まねをするステファン・ギヨンが人気者で、 ラジオで替え歌をはやらせたりしている。英国でも「そっくりさん人形(Spitting Image)」による政治風刺番組があちこちのテレビでやられているし、 「ミスター・ビーン」 でお馴染みのローワン・アトキンソンは、あれで風刺的な喜劇もこなしている。 ドイツ第2テレビ(ZDF)の政治風刺番組 「ホイテ・ショー(Heute Show。今日のショー)」 も、よく見られている。 「犯罪会社・東京電力の正体」 なんて特集をやったのだから、恐れ入る。 アメリカでさえ、映画監督、マイケル・ムーアは政治のインチキを笑い飛ばすような、果敢なドキュメンタリーをつくりつづけてきたし、 お笑い専門のテレビ 「コメディ・セントラル」 では、番組 「デイリー・ショー」 のキャスターを務めるジョン・スチュワートが、 マードックのフォックス・テレビで露骨なブッシュ贔屓をつづけてきた司会者のビル・オレイリーや、 経済テレビ・CNBCで金融バブルを煽ってきたリック・サンテル、ジム・クレイマーらの所業を、仮借なく暴いて笑いのめしてきた。 日本のテレビにどうしてこういう番組がなく、テもなくアベノミクスにやられてしまうのか。

今、なぜ牧伸二亡きあとの 「牧伸二」 がいないのか。そのことを牧伸二本人が、一番口惜しく思っていたであろう。 亡きがらは川面の上に浮かんだが、魂魄はまだ川底にあり、浮かばれないのではないか。彼の死後、自殺の原因は経済的な行き詰まりか、 自分が会長を務める演芸人の会の預かり金の使い込みか、といった話題がメディアの続報では飛び交った。 だが、これも情けない。そんな詮索より、エンタテインメント番組が全部、巨大プロダクションの仕切るものとなり、タレントは金太郎飴の顔ぶれ、 いつも似たようなおちゃらけばかりといった、報道機関の息吹とは無縁な状態に陥ったところに、本当の原因を探るべきではないのか。 明治民権運動の時代、民衆のなかで川上音二郎らは 「オッペケペー歌」 など、壮士演歌を創った。 大正の初め、桂陸軍大将内閣が出現すると、憲政擁護運動の勢いが強まり、演歌師、添田唖蝉坊は 「マックロ節」 などで底辺大衆の怒りを表し、 昭和の民衆に歌い継がれる演歌を定着させた。その流れのなかで戦後にもつづく石田一松の 「ノンキ節」 が生まれてラジオでも歌われ、 さらにその遺伝子は、三木鶏郎によるNHK番組 「日曜娯楽版」 の数々の歌にも受け継がれていった。 牧伸二も高度成長の中、そうした批評精神と風刺の技を、メディアのうえで発揮してきたのだ。 メディアは、彼の冥福を祈ろうとするのなら、「3・11」 と安倍改憲政権出現という、かつてない大きい政変のただ中、 この時代に相応しい批評性と、“悪役” の骨の髄まで突き通す鋭い風刺を、みずからの武器として取り戻す必要があるのではないか。 (終わり)

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