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日本の有権者は100年の眠りから目覚めるか
―選挙運動規制からみる「参加させない政治」―

寄稿:末木 孝典

2019年11月13日

     第2回 選挙の自由化で冷め切った政治を「解凍」せよ
 
 前回は、94年前の男子普通選挙導入時から始まった選挙運動規制が現在も日本の選挙を「べからず選挙」にしていることを紹介した。今回は、現在の公職選挙法がどのように選挙を規制しているのか具体的に紹介したい。

 最近2人の大臣が相次いで公職選挙法違反の疑いを報道され辞任した。
10月31日に河井克行法務大臣が、妻である河井案里参議院議員の選挙陣営で「ウグイス嬢」に一人当たり日当1万5千円以内という上限規定の倍の3万円を支給していたと『週刊文春』に報じられたことで辞任した。また、その6日前には、菅原一秀経済産業大臣が辞任したが、これも同誌に選挙区内の有権者にメロンなどの贈答品を送っていたことと、選挙区内の有権者に秘書が大臣の代理として香典を贈ったとの報道を受けてのことだった。
 選挙には公正さが求められることから、ルール違反を厳しく罰することは必要である。ただし気を付けなければならないのは、公職選挙法が事細かな規定を設けてがんじがらめの選挙を行わせている一方で、法の抜け道を知っているプロたちは違反にならないように脱法行為を行っている点であり、さらには、些細なことを取り上げて恣意的な狙い撃ちで特定の議員を辞職に追い込むこともできる怖さがあることだろう。

 では、選挙法が規制していることを紹介したい。
 まず、誰でもできるはずの立候補には多額の供託金が必要である。前回紹介したとおり、1925年に2000円でスタートしたが、段階的に金額が上昇していき、現在では衆参ともに選挙区で300万円、比例代表で600万円が必要である。他国の例を紹介すると、米、仏、独、伊では0円(供託金なし)で、英、加は約11万円、豪は約5万円、NZは約2万5千円、蘭、韓は約180万円となっている。選挙を税金で賄っている部分(選挙公営制)があるため、泡沫候補(当選の可能性がないのに売名目的で立候補する候補を指す)の防止という説明がされているが、これで防げるのは、「お金がない人間の道楽」であって、「お金が有り余っている人間の道楽」は防げないのは自明である。他国では泡沫候補防止のために立候補にお金ではなく一定人数の署名を提出させている国(イタリアなど)があるように、工夫次第で目的は達成できる。先進国ダントツの高額な供託金は、被選挙権を実質的に制限した94年前と同じ効果をいまだにもたらしている。しかも高額な上に、もし一定得票を獲得できなければ供託金は没収されるため、後ろ盾のない新人候補や新政党が二度三度と挑戦するのは極めて難しくなる。つまり新規参入を拒む効果がある。
 引き下げの議論が進まないのは、既成政党の候補には政党から公認料が支給され、供託金を自腹で払った経験が多くの党所属議員にないからだと思われる。2018年に結成された「若者政策推進議員連盟」は、若者団体とともに政治参加を呼びかける超党派の議連で、供託金の引き下げを提言している。しかし、若者団体からは10万円に下げる案が出ているのに、議員側は金額にコンセンサスが得られず、そこに温度差があることを露呈している。

 次に、日本では選挙運動期間を設けているが、その期間が戦後段階的に短縮され続けている。戦後最初の期間は衆参ともに30日間だったが、現在は衆議院が12日間、参議院が17日間にまで短くなっている。町村長と町村議会議員の選挙はなんと5日間である。これも短くするほど現職有利、つまり新規参入しづらくなる。にもかかわらず、現在、参議院に関しては17日間から14日間に短縮しようとする動きがある(『日本経済新聞』2016年8月28日付)。よりによって野党からも賛同する声が出ている。理由として費用や候補の負担軽減が言われている。しかし、負けている側が現職有利になる改革に賛成することは、自らの首を絞めることになるだけでなく、与党の世襲議員を批判できなくなる問題がある。新規参入しづらい構造が世襲議員の当選を後押ししているのは確実だからだ。
 しかも、事前運動を禁止しているため、新しい勢力は日常的な活動が制限され、さらに新規参入が難しいのである。既成政党は日常的に政党としての「政治活動」が可能であるため、事前に選挙運動にならないよう気を付けながらも実質的に運動を行っている。新聞各紙が公示日・告示日直前の立候補表明を「出遅れ」と表現するのは、その実態を知った上での表現である。本来ならば選挙の公平性を保証するはずのスタートの日に選挙運動を始めたのではすでにハンディを負い、当選はおぼつかないことを知っているのだ。
 7月の参院選では2つの政治団体が当選者を出し、得票率2%を超えて政党要件を満たして話題になった。1つは参議院議員が設立した団体であり、もう1つもすでに地方議員選挙で数十人の当選者を出している団体であった。つまり選挙を知り尽くした存在だったわけで、まったくの素人が新規参入したわけではない。もちろん、そうだとしても構造的に困難な新規参入の壁を突破したことは特筆すべきことである。

 さて、選挙運動についてはどのような制限があるだろうか。
 戸別訪問の禁止は、前回紹介したように、男子普通選挙が実施された1925(大正14)年に始まった。大正デモクラシーの盛り上がりによって普選実施は仕方ないと容認した枢密院顧問官も、大衆が共産主義化することを不安視し政府に対策を求めた。その具体的な方策が戸別訪問禁止などの選挙運動規制であり、治安維持法であった。戦後改革によって治安維持法は廃止されたが、戸別訪問などの選挙運動規制は変わることなく続いている。
 戸別訪問とは、家庭・事務所における選挙運動のことである。買収防止を主な目的として最高裁も合憲と判断してきたが、世界中で日本だけの禁止項目であろう。前回は買収防止目的がナンセンスであることを指摘したが、今回は少し詳しく説明したい。
 戸別訪問を行っている国では、どのような方法で運動しているのかといえば、選挙区の地図を片手に候補やスタッフが1回目の訪問を行う。その際に、話した感触から、自陣営に対して「支持」、「不支持」、「不明(未定)」を色分けする(阪上順夫「選挙運動としての戸別訪問」『レファレンス』第12号、1962年、ジェフリー・アーチャー『めざせダウニング街10番地』新潮文庫、1985年)。「支持」には投票日に念押しをすればよく、「不支持」は見込みがなければ2回目以降は訪問しない。結局、2回目以降も重点的に訪問するのは、各陣営とも、投票してくれる可能性のある「不明」の家庭ということになる。したがって、集中的に訪問する家は限られ、買収を持ち掛けようものなら、他陣営に筒抜けになってしまう。日本のように無党派層が多い国では、選挙ごとに投票先を考える人、つまり色分けでいえば「不明」が多いわけだから、その層に対して各陣営が重点的にアプローチすることができれば、有権者にとって投票先を考える材料が今よりも格段に増えるだろう。候補側、政党側も無党派層が何を考え、何を求めているのかを世論調査以外でつかむ機会となる。そうなれば、政策形成の際に、無党派層の票を得られるように考慮する可能性が増すはずだ。もちろん、最初は約100年ぶりの戸別訪問解禁に対して、家に来られて迷惑だという反応が出ることが予想されるが、それが民主主義のコストとして他国で許容されていることを粘り強く説明していけば、いずれ定着するだろう。幸か不幸か日本の選挙運動期間は短く設定されているのだから。
 また、複数候補による立会演説会も禁止されている。単独の個人演説会は開催できるが、ほとんど支持者の集まりである。したがって、特定の支持政党を持たない有権者(「不明」)が各候補の声や議論を聞く機会は極めて限定されている。もしかすると、テレビ以外は偶然通りかかった街頭演説しかないかもしれない。立会演説会の禁止は、複数候補が議論すると聴衆が野次ったり、白熱すると喧嘩したりと荒れる危険性があるための禁止であるが、リアルで集まると荒れるのであれば、ネット上で各候補どうしの討論会を開催すればよいだけで、実際、政党の党首による討論はテレビやネットで見ることができる。候補どうしの討論も各地で収録・中継すればよいだけだろう。

 94年前の議論では、戸別訪問が禁止されたことで、これからは文書による選挙だと言われ、第1回普選から選挙ポスターが町中に貼られ、景観を乱すと批判を浴びるほどであった(玉井清『第一回普選と選挙ポスター』慶應義塾大学出版会)。そのため、文書図画を規制する動きが強まっていく。現在では、ハガキ、ビラ、ポスター、マニフェストの頒布に制限をかけている。衆議院小選挙区の個人を例にとると、ハガキは3万5千枚、ビラは2種類以内で7万枚、ポスターは政党が1千枚×当該都道府県届出候補者数、マニフェストは2種類で部数制限はなし、ただし頒布場所を選挙事務所、演説会場、街頭演説場所に限っている。ビラの頒布場所も新聞折込が加わる以外は同じである。つまり、ビラやマニフェストだけを頒布して歩くことは許されていないのである。配りたければ、候補者にくっついて「標旗」と呼ばれる候補者名が入った旗をスタッフが持ち歩き、街頭演説場所であることを示さなければならず、複数個所で同時に配ることができない。
 では、これほどの制限を課している文書図画を若者はどの程度認知しているのだろうか。
 総務省調査(2016年)によれば、ポスター36.6%、選挙公報18.3%以外のハガキ、ビラ、マニフェストは10%未満で項目すら記載されていない。つまり、有権者にまったく届いていないのが実態である。規制する意味がなくなっている。枚数制限を課すことで、候補陣営は、ビラに証紙と呼ばれる小さな切手ほどの大きさのシールを一枚一枚に貼らないと配れないことになり、その負担は大きい。先ほどの例ならば7万枚分のシールを貼る作業を終えないとスタートすることすらできないのだ。紙自体がぜいたく品で印刷のコストも高かった時代の制限を、今や何でもネット中心で紙媒体が危機に瀕している21世紀にも残しているのは、あまりにナンセンスといえる。そもそも戸別訪問禁止など運動方法を厳しく限定することで、文書図画に頼らざるを得ないしくみにしているわけであり、その文書図画の効果があまりない状況では、規制緩和したところで、選挙費用の高騰もビラの濫造もあり得ない。

 結局、不評にもかかわらず、選挙カーが町中で「若さあふれる〇〇でございます」と連呼したり、誰も聞いていないのに駅前で街頭演説をしたり、車が走り去る大通りで手を振ったり、商店街で握手しながら駆け抜けていく(個々面接)風景ばかりになるのは、公職選挙法が戸別訪問禁止などがんじがらめに運動方法に制限をかけているために一つでも行わないと不利になるからだ。映画『選挙2』(想田和弘監督、2013年)には、候補者が「本当はやりたくない」という本音を漏らす場面がある。それなのに止めることができないのは、誰にとっての得なのだろうか? 
 ――現行ルールで勝っている現職議員たちによる新規参入防止としか思えない。そして、法律を変えることができるのはその現職議員だけなのだ。今や政治が「熱かった」時代は終わり、半数以上が選挙に行かない「冷め切った」状態まで来た。大正期に選挙に「新規参入」してきた財産をもたない大衆による政治熱を警戒して候補と有権者を引き離したルールを、政治が「冷め切った」時代に使い続けるのはナンセンスである。政治熱を煽る必要はないが、冷め切ったものをさらに凍結させてどうするのだろうか。日本の有権者が100年の眠りから目覚めるには、まず他国と同じレベルにまで選挙を自由にして冷え切った選挙を「解凍」すべきではないか。

 マス・メディアや世論が声をあげ盛り上がらなければ、このまま「べからず選挙」100周年を迎えることは火を見るよりも明らかである。主権者が眠り続けてくれた方がよいと考える議員にお任せで日本社会の未来はあるのだろうか。

 
 
『第1回 選挙運動をさせない「べからず選挙」』の原稿はこちら

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