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【NPJ通信・連載記事】ビーバーテール通信―カナダから考える日本と世界―

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ビーバーテール通信 第 7 回
 北オンタリオの旅 (前編)
 隔離からの解放、これが人生だ !

2020年8月21日

 小笠原みどり (ジャーナリスト・社会学者)

 3 月17日に始まったオンタリオ州の緊急事態が、 7 月24日に遂に終わった。新型コロナウィルス の感染拡大を防ぐために、誰もが自分をどこかに閉じ込めていた、長い、長い、自己隔離期間――なのに、私はその終わりに気づいていなかった。家で仕事して、買い出しと散歩のときだけ外に出て、を繰り返してきた約 4 カ月間、緊急事態は何度も何度も延長され、その度に新しいルールが導入された。終盤は、昨日よりも今日、できることが少しずつ増えていくことにホッとしながらも、昨日と今日で違う決まりに縛られる「新しい生活様式」に、いつの間にか適応しかけていた。だから、本当なら大喜びしてもいいくらいの緊急事態の解除に気づかなかったのだ。

 緊急時と平常時の境目が消えたのには、政治のトリックもあった。その流れはこうだ。私が暮らしている街キングストンでは、感染者数が少なかったため、トロントなどの大都市よりも早く、 7 月中旬から経済の再開が始まった。オンタリオ州のダグ・フォード知事は 6 月、 3 段階に分かれた「再開計画」を発表し、徐々に社会的隔離を緩和してきた。当初の第 1 段階では、野外だろうと自宅だろうと人々は 5 人までしか集まることができなかったが、第 2 段階では10人まで、そして第 3 段階では屋内なら50人、野外なら100人にまでが集まれるようになった (が、第 2 段階でも、市役所前で反人種差別集会は開かれていた) 。

 こうした規制の多くは、州知事が緊急管理・市民保護条例に基づいて宣言した緊急事態の期間中に、緊急令として出され、その間にだけ効力がある。だから、緊急事態の解除とともに失効する決まりなのだが、フォード知事は緊急令の多くを解除後も維持するために「オンタリオ再開条例」を成立させた。緊急事態宣言によって知事が手にした強大な権限は、こうして半ば温存され、解除後の政治に生き続けている。そういう意味で、緊急事態はさっぱりとは収束しないし、その後の政治にも居残る。まして、ウィルスの危険は去っていないのだから、緊急事態に逆戻りする可能性も消えていない。平常時にも緊急時が続いている、不安定な日々――それが私の視界をぼんやりとさせている。

アルゴンキン州立公園のなかにあるポグ・レイクのビーチ。周囲を深い森に囲まれている=2020年 7 月、撮影はすべて溝越賢

 
 それでも、夏は来た。厳しい冬の後、強い日差しと爽やかな風とともにやって来るカナダの夏は、人々のこわばった身体をやっと緩ませてくれる。私は半自宅軟禁中、パソコンと向き合う時間が無制限に増えていき、鬱血気味になった頭と全身をほぐしたくて、家族と北オンタリオへ旅に出た。
 
 北米五大湖のうち、一番東側に位置するオンタリオ湖の、これまた東端に位置するキングストンから、北西に向かって出発 ! ヒューロン湖の東岸を北上、ミシガン湖の北端をかすめ、最も大きいスペリオル湖の沿岸を半周して、北の街サンダー・ベイを目指す。小さな中古車にキャンプ用品を詰め込んで、全行程3500キロ、 2 週間のロード・トリップは始まった。運転手は私。つれあいと子どもは、テントや寝 袋や鍋や食糧に居場所を削られて、それぞれ窮屈そうに体をよじって揺られている。

 まず、カナダに来て以来ずっと訪れたかったアルゴンキン州立公園のキャンプ場で 3 泊した。宮崎県や静岡県と同じくらいの面積を持つ広大な森林には、大小無数の湖があり、互いに水路でつながっている。私たちの目当ては、カヌーをレンタルして漕ぎ、小さな無人島にピクニックに出かけること。カナダの州立キャンプ場は、数は少なくても水洗トイレやシャワーが整備されていて、清潔で親しみやすい。が、今年はシャワー室が閉鎖されていた。そうなると湖で泳ぐことが、シャワー代わりになる。気温は日中30度以上まで上がるが、湿度が低いので、あまり汗はかかない。

 深い森の中のキャンプ場には、小さな子どもたちの笑い声があふれていた。公園の遊具はずっと使用禁止だったので、無人の滑り台やブランコにいつの間にか目が慣れてしまっていたことに気づく。そして、遊び場に子どもたちがいるだけで、どれだけ自分の肩の力が抜けるかも。キャンプサイトやビーチでは、大人数の何家族かが数カ月ぶりの再会を喜んでいた。

 私たちもトロントに住んでいる友人 N 一家と、アルゴンキンで再会を果たした。ロシアからカナダに来て数年目の N の夫は、世界の行き来が難しくなったこの期間に、ロシアにいる両親を続けて亡くしていた。 N は「今年は間違いなく私たちにとってつらい年です」とメールに綴っていた。心配していたが、キャンプ経験のない N たちは、私たちのキャンプに興味津々で、赤ワインの大瓶とたくさんの差し入れを携えてやってきた。カヌー、カヤック、泳ぎ、釣り、バーベキュー、マシュマロ・ローストと一通り体験し、午後 9 時過ぎに漆黒の闇が訪れると、ビーチへ出て満天の星空を観察。星が見え過ぎて圧倒されるが、大きく輝く北斗七星とカシオペアだけは、私にも見分けがついた。 N の子どもは宇宙が大好きで、キャンプ場にも何と小型のドローンを抱えて来て、昼は私たちのキャンプサイトを上空から撮影していたが、夜は地球の周りを回っている国際宇宙ステーション ( I S S) が何分後に上空を通過するかを、携帯電話で調べて教えてくれる。飛行機よりは小さくて、流れ星よりははっきりしている I S Sの灯を、みんなで目で追う。

 前夜、夜の湖を見ようと、懐中電灯の灯りを頼りに一人で同じ場所に来たら、水がバシャバシャはねる音がしていた。真っ黒な湖に、誰かが繰り返し浜から走って来ては、水の中に大音響とともに倒れ込んでいるのだ。その若者らしき人は、水に倒れ込む度に、「Oh, this is life. This is life ! 」 (おお、これが人生だ。これが人生だ ! ) と、水の中にいるもう一人に向かってか、言葉をもらしていた。湖畔の森の上には大きな月が出て、水面に月光の道をつくっていた。空気は涼しく、水はあたたかい。確かに、いま人生を謳歌しなかったら、いつするのだろう。けれど私は、多くの人が囚われの生活で、目には見えない傷をそれぞれに負ったことを感じる。

ポグ・レイクに咲いていた小さな睡蓮にカヌーで接近。午前中だけ花開く

 
 午前中にだけ花開く、白い睡蓮の間をぬって進むカヌー・ピクニックも成就した。カヌーから釣り糸を垂れたら、水中の倒木に釣り針が引っかかって、擬似餌と針の両方を失った私の子どもは、釣り場を提案した私を恨んでいたが、釣りが得意で気前のよい N の夫からたくさんの針をもらって、すっかり機嫌が直った。家族以外の人が子どもにかかわってくれるのは、本当にありがたい。 N 一家と再会を約して別れ、私たちはキャンプを畳んで、トロントの北にある街サドベリーへ車を走らせる。

 アルゴンキンを西に抜け、ヒューロン湖の東側を占めるジョージア湾に出て、湾岸沿いを北上する。と言っても、ヒューロン湖は高速道路からはまったく見えず、青い湖を見る期待とは裏腹に、サドベリーに近づくにつれ、赤い巨岩が道路の両側に出現する。サドベリーはニッケルや銅などの鉱山に囲まれ、採掘拠点として発達した街だ。鉱業が下火になった今、ダウンタウンはシャッターの閉まった店が多く、がらんとしている。私はかつて暮らした北九州を思い出す。北九州は人がさばけていて暮らしやすかったから、サドベリーも暮らしやすいのかもしれない。コロナで休業していた科学博物館は、まだ週末しか営業を再開していないので、残念ながらビジネス・ホテルで 1 泊して通過する。翌朝、ヒューロン湖の北岸を一路西へ走り、次の街スー・サン・マリーに入る。

イタリア移民の多い街スー・サン・マリーでテイクアウトし、公園のベンチで広げたランチ。中央が名物のパンゼロッティ

 
 スー・サン・マリー出身の友だちが薦めてくれたイタリアン・レストランを見つけて、車に乗ったまま遅めのランチを注文し、テイクアウトの料理を受け取る。この街はイタリア移民が多いそうで、確かにイタリア料理のファミリー・レストランが幹線通り沿いに目立つ。友だちが私の子どもに「絶対食べなくてはいけない」と言ったのは「パンゼロッティ」。丸いピザを半分に折って、油で揚げたもの。あつあつのパンゼロッティを、対岸にアメリカ・ミシガン州が見える川のほとりの公園で、切って食べる。味はピザ以外の何物でもないが、クラストの方は、私が昔、給食でよく食べた揚げパンのような食感で、甘くはないが、親しみやすい。14歳になって、いつも何か食べたいウチの子は特に喜んで、これが旅のハイライトだったと言っている (早すぎる ! ) 。

 ここからは、スペリオル湖沿岸に入る。今回の旅行計画を出発前に知人たちに話すと、何人もが「スペリオル湖はまるで海だよ ! 」と言った。このお昼を食べた公園で言葉を交わした地元の人も、同じことを私たちに力説し、湖だけでなく、スペリオル湖沿岸の地形すべてがいかに特別かを、ほとばしるように語った。

スペリオル湖の景勝地として知られるオールド・ウーマンズ・ベイ。奥の半島がおばあさんの横顔に見えることから名付けられたという。右下が筆者親子

 
 その晩、私たちはスー・サン・マリーの北、スペリオル湖に面したパン・ケーキ・ベイ州立公園のキャンプ場に着いた。パン・ケーキを半分に切ったような半月型の長い白浜に打ち寄せる波の大きさは、まさに海だった ! 同じ五大湖なのに、オンタリオ湖ともまったく違う壮大さ。オンタリオ湖も対岸が見えないほど大きいが、ここは盛り上がった水平線のせいだろうか、透き通って荒い波が、もっと遥からやってくるのが感じられる。白浜を見下ろす森には夕陽が迫っていた。足の先を水につけると、ドキッとするほど冷たい。それでも私は泳いだ。湖も、波も、浜も、空も、視界が続く限り果てしなく、その中に身を投じたいという衝動には抵抗できなかった。

 実際、私たちが旅したスペリオル湖沿岸の起伏に富んだ風景は、輝く湖だけでなく、深い緑の森も、赤い崖も、切り立った峡谷も、縦横に露出した地層も、点在する島々も半島も、すべて見たことのないスケールだった。新しい風景に出合う度、私は息を飲み、「わあっ」と声を上げ、続けて「やんばるみたい」「釧路湿原と似てる」「高千穂峡のよう」「松島や」などと、かつて感銘を受けた景勝地の名を口走ったが、そのどれもがまったく比喩として追いつかなかった。途中から、何かに例えるのはやめにした。例えを受け付けない自然の固有さと、まったく新しいものを限られた体験の枠内に押し込めて理解しようとする自分のバカバカしさに気づいたのだ。スペリオル湖沿岸を走る片側 1 車線のトランス・カナダ・ハイウェイは、ジェットコースターのように上下しながら、手つかずの自然の中をぬっていく。ハンドルを切る度に視界に飛び込んでくる、私の語彙を軽々と超えた絶景を、時に車を止めて、目に焼きつけ、胸に吸い込んだ。

 だから、700キロ先の次の目的地サンダー・ベイまでは、一気呵成に走り抜けるのではなく、この特別な時間を味わいながら、途中で 1 泊することにした。その場所はまさに、広大な北米大陸で人々がよく使う表現「in the middle of nowhere」 (周りに何にもないところ) が当てはまった。集落もない、ハイウェイ沿いに建っている質素なコテージ。が、近くには、ジャックフィッシュ湖という鬱蒼とした沼があった。この名前を聞いて、子どもは釣りがしたくてたまらなくなったので、獣道のような道路を下って、小さな渚を見つけた。

 子どもが釣竿を持って岩場を探しに行くと、夕暮れの渚に、ちょうど 1 艘のモーターボートが戻ってきた。ボートを陸に上げ、ピックアップ・トラックにつなげようとしていた二人組に、私は「子どもが釣りに来たんですが、この辺りは釣りにいい場所ですか ? 」と話しかけた。すると、ボートの淵に座っていた初老の男性が面をあげて、「魚は好きかい ? 」と聞く。私がイエスと答えると、ニヤッと笑って、釣り上げたばかりとおぼしき60-70センチもある 2 匹の魚を持ち上げて見せた。「わー、すごいですね。何の魚ですか ? 」と聞くと、「パイク」と言う。カワカマスの一種らしい。頭の真ん中が馬のように平らで、沼の主にふさわしい、結構獰猛な顔をしている。

 彼は「魚は料理できる ? 」と私たちに聞くので、これもイエスと答えると、「じゃあ、お子さんが何も釣れなかったときのために、 1 匹持っていくといい」と言う。びっくりして、「いえいえ、そんな貴重なものを」と辞退すると、「自分はここによく来るし、毎日釣れるわけじゃないけど、また釣れるからいいんだ」と言い、空きっ腹の私たちはありがたく頂くことにした。

 この釣り人ロイドは、男同士で話したかったのか、私のつれあいを相手に、釣り以外のことも語り始めた。自分は78歳で、ずっと木こりだった。退職して 8 年、近くの村スクライバーに住んでいる。大きな街に住んで、家でテレビばかり見るような生活はしたくない。 (テレビによく出てくる) トゥルードー (首相) は嫌いだ。俺たちのことをバカだと思っていやがる・・・・・・。

ロイドが釣り上げたパイクのムニエル。肉厚で食べ応えがあった

 
 ロイドとその娘さんらしきスーは、いろいろ会話した後、私たちが泊まるコテージのオーナー、ブレンダによろしく、と言って去っていった。ブレンダは、私が釣り場を尋ねたときに、あまり魚を歓迎する風ではなかったので、つれあいがその場でパイクのウロコを取り、頭を落として三枚におろした。私たちはコテージの小さなキッチンにおろした魚を持ち帰り、肉厚な白身のフィレ 2 枚は塩胡椒して、フライパンでムニエルにし、中落ちはパスタ・ソースに入れた (こういう突発状況に、キャンプ用品一式を携えていると強い) 。パイクは小骨が二股に分かれて鋭かったが、それさえ気を付ければ、臭みもほとんどなく、力強いおいしさだった。子どもが釣りをしに行っただけで (本人は何の収穫も得られなかったのに) 、家族 3 人が食べ切れないほどの豪華新鮮晩ごはんにありついてしまった。

 ロイドの私たちへの親切さには感謝するのみだが、静謐そのものに見えた老人が多くを語る姿に、私はどことなく、誰もが他者との接触を求めていることを感じた。この旅で私が話し掛けた、偶然すれ違った人々との多くの会話が、一言二言では終わらず、出会った場所についての感想や、自分の暮らしや、子どもや孫の学校のことや、異常な隔離生活を続けることへのやるせなさや、互いの健康を気遣う方向へと延長していったのは、やはり緊急事態によって他者との交流を絶たれたことへの反動と、こうして他者と何か話すことで社会を直に感じて安堵を覚えるからだと、私には思えた。

 他人だからこそ、話そうと思うことがあるし、話すことができる。自分がどこの誰で、どんな人間か、それを語る相手がいてこそ、自分が誰なのかがわかる。家族が一緒にいられることは幸せだし、友人に会える喜びに勝るものはない。けれど、私たちは意識しているよりもずっと、見知らぬ他者との関係を必要としている。

 そして他者は常に、知らない世界への扉でもある。実際、ある場所で居合わせた人から、私たちはロイドの暮らす村スクライバーに、第二次世界大戦中、日系カナダ人の強制収容所があったことを教わる。偶然の出会いから、私たちは帰り道、スクライバーに立ち寄ることになる。けれど、それは 4 日後のまだ予期せぬ未来。話は順を追って進めよう。 (この項、次回へ続く)

 
 

【プロフィール】
小笠原みどり (おがさわら・みどり)
ジャーナリスト、社会学者、元朝日新聞記者。
アメリカの世界監視網を内部告発したエドワード・
スノーデンに2016年5月、日本人ジャーナリストと
して初の単独インタビュー。
18年、カナダ・クイーンズ大学大学院で監視研究
により社会学博士号を取得。
新著に『スノーデン ・ファイル徹底検証 日本はアメリカの世界監視システムにどう加担してきたか』(毎日新聞出版)。
 
 
 
 
 

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