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統計から消える “人間”

寄稿:飯室勝彦

2021年5月19日


 人の生と死、どちらにもドラマがある。統計に目を奪われるとそれらは消え、見逃されがちだ。政府の新型コロナウイルス対策にはそうした視点が欠けている。

◎コロナ対策と竹ヤリ訓練
 5 月11日の朝刊に見開きで掲載された出版社、宝島社の広告が波紋を呼んでいる。朝日、読売、日経に載った。戦時中「銃後の国民」に強いられた竹ヤリ訓練をする少女たちの厳しい表情とウイルス像を大きくあしらい、大きな字で「ワクチンもない。クスリもない。竹ヤリで戦えというのか。このままじゃ、政治に殺される。」とあった。
 その下には少し小さな字で「私たちは騙されている。(中略)いつまで自粛をすればいいのか。我慢大会はもう終わりにしてほしい。」「無理を強いるだけで、なにひとつ変わらないではないか。今こそ、怒りの声をあげるべきだ。」などとあった。

 政府のコロナ対策は後手続きで迷走し、国民に自粛を求めるばかり、収束のめどが立たない。そう考える、多くの国民の不安、怒りを代弁してくれていると共感した人は多かったのではないだろうか。自粛頼りを竹ヤリ作戦になぞらえた広告は多くの人の実感にぴったりだったはずだ。

◎強権容認の恐れも
 無論異論はある。とくに重要なのは広告の文面を延長してゆくと私権の強力な制限を容認することにつながりかねない点だ。「都市封鎖を可能にせよ」「そのために政府にもっと強い権限を」となる危険性をはらんでいる。

 しかしちまたで論議されている広告批判には同意できかねるものもある。欧米各国に比べると感染も死亡者数も少ないことや高齢者のワクチン接種が進んでいること、健康保険制度の整備などを過度に強調していることなどだ。

 いまや感染者は70万人に迫り、死者も 1、1500人を超えた。戦乱状態と同じような数の死亡者や重症者の情報が「統計」として処理されている。それぞれの数字の陰にあるドラマは捨象され人の死が数字として独り歩きしている。個々の事情が切り捨てられて論じられる社会は異常だ。
 国家としてのコロナとの戦いは個人の戦いの集積であることを忘れてはならない。統計だけでは正しい像は浮かんでこない。

◎高齢者に酷な早い者勝ち
 便利で効率的なインターネットはパソコン操作が苦手な高齢者にも早い者勝ちを強いる。子供や孫に頼れなければPCと長時間にらめっこして悪戦苦闘するしかない。それでも予約サイトはすぐ満杯だ。ワクチン接種率が70%だ80%だと言っても、パソコンが操作できなければ 0 %に等しい。だが接種担当の河野太郎行政改革相は「あせらず、落ち着いてなどと苦笑いするだけで老人の焦り、不安に寄り添おうとしない。

 保険の制度が普及していると言っても、その陰には、ベッドがあいていなかったため高度な医療を受けられなかった重症者や、入院先が見つからず医療の世話になることさえできずに自宅で亡くなった人の無念もある。

◎それでも五輪なのか
 感染者は地方にも広がり、変異したウイルスは感染力が強まり、若年層も重症化する・・・・・・ 情況は厳しくなるばかりなのに、菅義偉首相も小池百合子東京都知事も東京五輪の中止を提議しようとしない。菅首相がここでも頼るのは統計、「緊急事態宣言などで人流が減りコロナ対策は成功している」だ。

 しかし「復興五輪」「コロナに打ち克った証」という、これまで掲げてきた理念は既に虚しいものとなった。「安全、安心」も国内外からの参加選手や役員の信頼を得るに至っておらず、海外選手団の事前合宿、ホストタウン住民との交流会などが次々キャンセルされている。

 菅首相は、コロナ対策への不信で急落した支持率が五輪の成功で急回復することを期待し、小池知事は五輪中止で自らの政治的立場が弱まることを恐れているとの観測がある。自己の政治的目的のために国民を道連れにすることはとうてい許されない。

 開会式まで 2 ヶ月、そもそも招致決定の際のスピーチ、「おもてなし」で話題になった東京五輪だが、現状では数万人に上ると想定されるオリパラ関係者をもてなす余裕はないはずだ。

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