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眞子さんが守り抜いた憲法24条

寄稿:飯室勝彦

2021年10月29日


 秋篠宮家の眞子さまが小室圭さんと結婚し「眞子さん」と呼ばれるようになった。2017年 9 月の婚約内定会見から 4 年余、ゴールまで長く異例ずくめの道のりだった。この間、圭さんの母親の金銭トラブルの報道や、一部メデイアによるバッシング、それらが影響した結婚延期、儀式や公式行事を一切行わない結婚など紆余曲折があった中で見落とされがちだったのが「憲法から問題にアプローチする」という視点だ。問われているのは、眞子さんの結婚問題だけではなく「皇族の人権」である。

◎議論を矮小化
 皇室、皇族のあり方については、政府もこれまで何度か有識者会議などで検討してきたがなかなか結論が出ない。検討対象は皇位継承権者の減少問題、皇族数の減少による公務の担い手不足の問題に矮小化され、「皇族の人権」という根本問題に踏み込んだことはない。
 二人の結婚問題はすぐれて憲法問題である。憲法24条は「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する」と定めている。小室さんと眞子さんの意思さえ堅ければ誰も結婚を阻むことはできないはずだ。しかし眞子さんが皇族 (だった) ことから激しい論議を呼ぶことになった。婚約内定後、小室さんの母親と元婚約者の金銭トラブルが報じられ、週刊誌などによる結婚への疑問を投げかける報道が続いた。米国の弁護士資格を得るために小室さんが踏み切った留学のいきさつ、母親の年金問題など、一部メディアによる根拠不明確なさまざまな“疑惑”なるものが次々報じられ、眞子さん側には「バッシング」と受け取られるものもあった。
 過熱する報道、世論に秋篠宮も「多くの人が喜んでくれる状況にない」と結婚延期を決断せざるを得なかった。

◎皇室、皇族の公共性
 皇族は公人であり、その結婚相手について議論することには一定の公共性があろう。ただし眞子さんは間もなく結婚して私人になる立場だった。その結婚相手についての公共性主張には限度がある。まして母親となれば、基本的には私人であり公共性はきわめて限られる。報道には一層の節度が求められたがタガが外れたようなメディアもあった。
 報道関係者が憲法の「婚姻の自由」条項を念頭に置いていたらもっと冷静な報道になったはずだ。
 それでも眞子さんと小室さんは初志を曲げることなく、秋篠宮にも「本人たちが本当にそういう気持ちであれば親としてはそれを尊重すべきだ」と考えさせるに至った。
 注目されるのは、皇族という微妙な立場にいながら困難に立ち向向かった眞子さんの強い意志だ。メディアはこれを「愛」や「絆」など情緒的用語を軸に報じ、人が、とりわけ眞子さんが憲法の保障する「婚姻の自由」を守り抜くことになったという視点が欠けていた。

◎問われる「皇族の人権」
 眞子さんの結婚問題を話題にするとき、どれだけの国民が皇族の婚姻の自由、その他もろもろの人権について意識しただろうか。多くの人が「皇族だから当然」と制約を暗黙のうちに当然視していたのではなかったろうか。しかし、そうだろうか ?
 私人たる一般国民が享受し得るいろいろな自由を皇族が享受できない現状は当然だろうか。
 婚姻の自由だけではない。信教の自由、職業選択の自由、移転の自由、表現の自由など、真剣な議論がないまま制約されている人権が多い。男性皇族の婚姻のように明文で規定されているものもある。そもそも憲法には皇族の人権についての規定がない。
 眞子さんの結婚問題の浮上は皇族の人権全般を考える好機だったのに議論は湧き起らなかった。結婚した日の記者会見を機に一部の新聞の社説などにそれに触れたものがあったが、人権論として本格的に考えるものはなかった。政府が動き出す気配もない。
 皇族は公人であり、どうあるべきか主権者である国民が要望、期待を抱くのは当然だが、他方で皇族も生身の人間であり人格を保有する。自由、人権がすべて否定されるのが当然とはならないだろう。公人としてどこまで人権を制約することが許されるか、どこから、あるいはどんな人権は制限が許されないのか・・・・・・眞子さんの結婚は皇族の人権について真剣に考えるべきことを示している。

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