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【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

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ホタルの宿る森からのメッセージ
第21回 ベケロの死~森の先住民の行く末 その2

2014年12月17日

▼過信が森の中で迷わせる

富士の裾野にある「樹海の森」ではないけれども、コンゴ盆地の熱帯林も知らなければ簡単に迷うところであろう。通常は、マルミミゾウが何世代もかけて作ったゾウのけもの道「ゾウ道」に沿って歩く。けっこう歩きやすく、「なんだ、ジャングルなのに意外に簡単に歩けるではないか」と感じる人は少なくない。ところが、ゾウ道は一見まっすぐ通っているかのように見えるが、必ずしもそうでなかったりするし、いくらでも「ゾウ道の分かれ道」が前方に待ち受けている。たとえコンパスとGPS、地図を持っていても、かなり注意深く行動していないと、本来行くべきではないゾウ道に入ってしまうことは多々ある。それくらい、恐ろしいのである。

沼地の中のゾウ道を歩く先住民©西原智昭

沼地の中のゾウ道を歩く先住民©西原智昭

ぼく自身の周りでも、何度か森の中で迷った例を見てきた。原因は「過信」だ、一例は、25年前森に入った初期のころである。調査隊の一員としてチームにいたある村のバンツーの男が、「ちょっと森に行ってくる」と言ったきり、その晩キャンプに戻ってこなかった。翌朝、チームの中の森の先住民らとともに、必死にその男を森の中に捜しに行った。特に痕跡もない中、見つからず、キャンプに戻ったところ、その男もすでにキャンプに戻っていた。男の言い分は、「森を歩いているうちに暗くなり、仕方なく木に寄りかかって明るくなるのを待った」と。もちろん水や食料、火種なしである。しかし暗くなる前にキャンプへ戻る森の道を探したはずで、結局迷ったしまったことは事実だ。

二回目は15年前、白人の例である。あるプロのカメラマンとそのアシスタントがわかりやすいゾウ道だと確信して、ずんずん森の奥まで歩いてしまい、途中でゾウ道の分かれ道で、本来行くべきではない方角へ行ってしまったのだ。「ゾウ道だから安心だ」という錯覚が原因である。二人とも、もちろん水・食料・火種なしで、森の中で一晩過ごしたのである。ただ幸いだったのは、翌朝落ち着いて自分の時計がコンパス機能を持っていたのを思い出して、「この方角に行けば本来のゾウ道に出るはずだ」と歩き出したことだ。その結果、その通り元の道に戻れて無事キャンプ地に帰り着き、事なきを得た。

▼森の中で迷わないということ

無論、事前に地図で入念に調べ、GPSとコンパスに熟練していれば、理論的には迷わない。さらに、森を歩きながら要所適所に、テーピングなどでマーキングをしておけばさらに安心である。特にゾウ道の分かれ道ではそれは肝要である。しかし、最大の安全策は、森をよく知る森の先住民と共に歩くことである。過信して一人で歩いてはいけない。これは、単に森の中で迷う危険性をなくすだけでなく、もし森の中でマルミミゾウやヘビに出くわしたときの対処にも重要なことである。

彼らは決して迷わない。彼らの知る森の中であれば、それが数10㎞続くゾウ道であっても、それぞれのゾウ道がどこにつながっているか、訳もなく知っている。仮に、彼らにとってなじみのない森であっても、キャンプを出発し、森を散々に歩いた後であっても、夕方には同じキャンプに無事戻る。もちろん、彼らには地図はないし、地図を読む教育も受けていない。コンパスやGPSなど理解していないばかりか、携帯すらしていない。

ぼくが長年彼らと森での生活を共にして、この能力が不思議で仕方がなかった。「なぜ、迷わずに森を歩けるのか!」と。いろいろな先住民と一緒に仕事をした。その何人かに同じような質問を何度もした。なにかぼくらでもわかりそうな秘訣があるのか?たとえば太陽の方角とか、風向きとか…。しかし、彼らは曇りの日でも雨の日でも迷わない。確実に「森の中の道」を知っている。

優れた全体のイメージの把握力とその記憶力-それがどうも秘訣のようだ。多くの先住民は、歩いているときに、前方の木の感じや枝の張り方、そうした複合の「全体イメージ」を頭の中に入れておくのだと。その光景は仮に歩いている方向が逆向きであっても思い出せるように、イメージをつかんでおくというのだ。ぼくらからすれば、似たような光景の広がる熱帯林の中でありながら、彼らは注意深く細かい情報をセットとして脳裏に焼き付けて、しかもその記憶を長時間(場合によっては何年間も)保持できているということらしい。

森の中の一風景;先住民はそれぞれの場所のイメージをセットとして記憶する©西原智昭

森の中の一風景;先住民はそれぞれの場所のイメージをセットとして記憶する©西原智昭

ぼくらには、いくら長年かけて修行しようと思っても、到底追いつくことのできない素晴らしい能力である。ぼくらが高等教育を受けて、いかに数学や物理、森林生態学ができても、あるいはコンパスやGPS、地図にいかに熟練していても、この先住民の能力には及ばないのである。

▼先住民から学んだこと

先住民から教わったことは、こうした「森の歩き方」だけではない。

すでにこの連載記事で書かせていただいたが、ぼく自身生物学や熱帯林のことが詳しくて、コンゴ共和国のンドキの森に来たわけではなかった。あくまで、人類学的な背景で、人類に最も近い動物種の一つであるゴリラを研究の対象にしたという事情であった。動物の研究だけでなく、植物や生態のことなどもちっとも理解していなかったし、初期のころは、そうしたことはむしろうっとうしいなと思っていたくらいだ。

「森での先生」は疑いもなく、彼ら森の先住民であった。たとえば、樹木や草本の名前を現地語で教わる。ある植物と別の植物は同じ「仲間」だよ、とも教わる。それは彼らの生活の知恵としての植物分類ではあるが、のち、正式にその植物の学名を知り分類していく作業の時にどれだけ基礎的な知識になったか計り知れない。似て非なる樹木を見ても、その樹皮の匂いや感じ、樹液を教えてくれ、その一つ一つの植物の特徴も教わった。彼らの知識やその体系は、決して科学的なものではないが、初心者であるぼくのようなものが教わるには多いに助かるものであったことは確かだ。

植物だけではない。昆虫の名前も現地語ではあったが、数多く教わった。面白いのは、アリやシロアリはそれぞれの異なる種に別々の名前を付けていたが、チョウやバッタ、カマキリなどはぼくらのように種ごとには名前を付けておらず、「チョウ」、「バッタ」、あるいは「カマキリ」といったひとくくりの単語しかなかったことだ。やはり、これは、彼らにとってアリやシロアリは日常の生活で極めて身近であるから細かく名前を付けたということであろうか。または、日本人みたいに、チョウやカマキリのそれぞれの異なる種類に風情を感じるような人たちではないのかもしれない。

▼森での生活方法

当然長年先住民と森の中で暮していれば、火の起こし方や焚火に適した薪の選別の仕方、料理の仕方や自然界のものの使い方も自然に教わった。たとえば彼らが日常生活でよく食にする干し魚の料理法。何もない場所で、特定の植物の葉をとってきて、包みあるいは風呂敷代わりに使うこと。その同じ葉は家の屋根代わりに使え、雨をしのぐことができること。トイレットペーパーなどない場所で、大便をした後にどの葉っぱがおしりふきに適しているかなどといったけっこう切実な知識。この大きな果実の種子が乾いて、中をくりぬけば、立派なコップ代わりになる、熱い鍋を火の場所から離すために、どのように鍋を持つかなどなど、あげたらきりがない。

クズウコン科の葉を採集し、簡易家屋の屋根用につくろう先住民©西原智昭

クズウコン科の葉を採集し、簡易家屋の屋根用につくろう先住民©西原智昭

当り前である。彼らには基本的にわれわれが持っているような物資や道具にはなじみがなかった。ずっと森の中で生活していたわけだから、その熱帯林という自然環境の中で使えるものを、知恵を出して使ってきたのである。彼らにとっては当然のものが、それまで物資豊かで便利で快適な生活を送ってきたぼくには、新鮮でもあったし、いかに何もない場所でぼく自身がなにもできないかという無力ささえも痛感した。

しかし、いまやこうした先住民の伝統的技能や知識、文化全体が大きく変容しつつある。それはいかなる要因で起こってきたのか、その結果どういう結末になるのか… (続く)

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