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【NPJ通信・連載記事】一水四見・歴史曼荼羅/村石恵照

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一水四見(10) 歴史は唯識的インターネットである

2014年12月27日

「バキスタン北西部のペシャワルで16日、軍系列の学校を武装集団が襲撃して銃を乱射し、軍当局者は児童や生徒ら141人を殺害」 (朝日新聞;12月17日)

ペシャワルと聞いて、1969年1月、インド、ニューデリーから印パ国境のフェロゼポールを経由してパキスタンに入国、ラホールから鉄道でペシャワルにゆき、そこからカイバル峠をバスで越えてアフガニスタン・カーブルに行ったことを思い出した。

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ペシャワルを含めて、現在はイスラム教圏となっている 中央アジアの多くの地域は、かっては仏教圏であった。大乗経典の『無量寿経』の中国語(漢訳)翻訳者に帰せられるサンガヴァルマン(3世紀)は現在のウズベキスタン共和国サマルカンド(古代名:ソグディアナ)周域の出身と推定されている。

『無量寿経』は、インドから中国を経て日本において成熟した「浄土教」の本質を説く大乗経典であり、この経典にもとづいて法然や親鸞の仏道は成立している。

『妙法蓮華経(法華経)』はクマーラジーヴァ(中国語音写;鳩摩羅什)の翻訳であるが、彼はクチャ、現在の新疆ウイグル自治区の生まれであり、彼の翻訳がなければ中国天台宗は生まれなかっただろうし、したがって最澄を宗祖とする日本天台宗も成立しえなかった。そして比叡山延暦寺の天台宗なかりせば、鎌倉仏教も生まれえなかった。

つまりサンガヴァルマンならびにクマーラジーヴァと日本の鎌倉時代の傑出した仏教者である法然、親鸞、道元、栄西、日蓮らとは、形而下的歴史をつらぬいて縁起的につながっているのである。

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ところでぺシャワルは、かって仏教地域であったガンダーラ地方・古名のプルシャプラのことで、インド仏教史最大の学僧 ヴァスバンドゥ(漢訳名:天親または世親;400頃~480頃;人寿80歳)の生まれ故郷だ。

ヴァスバンドゥは「世界とは意識である」と説く仏教的認識論の範疇である唯識学の大家であり、奈良の興福寺や京都の清水寺は伝統的には唯識学の学問寺である。

唯識学においてはアーラヤ識を設定する。アーラヤ識とは、その所在は規定されえないが、一切の「わたし」たちからなる生命意識の領域と同等の容量をもつ集合的記憶領域であり、全人類の歴史的記憶領域のことだ。

喩えて言えば、「わたし」はPC、つまり特に脳に情報処理機能をもった身体的ハードウェアに仮に一体となっている。「わたし」という独自のアドレスをもった PCが破壊されても――つまり「わたし」にかかわる身体が消滅・死亡しても、「わたし」というPCにインプットされた情報はすべてアーラヤ識に貯蔵されている。生前に露見されなかった悪事も、もちろん善事も、時々刻々アーラヤ識に記録されているというのである。

これが唯識における個生命の「わたし」の死後にまでおよぶ自己責任の考えである。

インターネットとはいい得て妙である。現在地球上の70億余の無数の「わたし」というPCが互いに見えない網の目のように

むすばれている。一つの網の目の動きが他の一切の網の目に連動していく。そのように人類は、無数の人々というPCが互いに連動している唯識的インターネットである(しかしブッダの悟りにおいては巨大なる妄想のインターネットである)。

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ところでヴァスバンドゥ は、唯識学の学僧であったと同時に、浄土宗・浄土真宗においてもっとも重要な大乗経典と見做されている『無量寿経』の基本的解説書『無量寿経論』の著者でもある。

歴史的縁起に照らしてみれば、ヴァスバンドゥがいなければ法然と親鸞の浄土仏教も生まれ得なかった。なぜならヴァスバンドゥの唯識論がなければ、死後の世界でもない実体的世界でもない、さらに観念でもない「浄土」の意味も理解できないだろうし、『無量寿経論』がなければ『無量寿経』の内容は解読できないからである。

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ペシャワルから、かってアレキサンダー大王の軍隊や玄奘三蔵が通過したカイバル峠を越えてアフガニスタンの首都カーブルの北西230kmの山岳地帯に位置するバーミヤン渓谷には5世紀~6世紀頃には高さ55m(西大仏)と38m(東大仏)の2体の大仏をはじめとする多くの巨大な磨崖仏があった。

630年に唐の玄奘三蔵がこの地を訪れたときにも依然として大仏は美しく装飾されて金色に光り輝き、僧院には数千人の僧が居住していたが、その後、イスラム教勢力がこの地にも及ぶようになり、彼らによる厳しい迫害によって次第に仏教徒の共同体は消滅していった。

インドに発祥した仏教がインドに消滅していったのには様々な理由があるが、端的には1203年、当時インドの代表的寺院であるヴィクラマシーラ寺がイスラーム勢力によって破壊されたのをもってインド仏教の消滅とみなされている。

そして2001年3月12日、イスラムの偶像崇拝禁止の規定に反しているとしてタリバンは先に述べた2体の大仏を破壊した。

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なぜ世界の仏教徒に反撃の運動が起きなかったのか。

タリバンに対して命がけで非難の行動が仏教徒内で起きなかったのはなぜか?

仏典の所々に述べられているように「仏教は創造神をも含む神(の観念)と人間知を超える道」であるから、偶像などは根本的に信仰されていないのである。

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現在、西欧を中心とする政治情念の深層に動いているのは、一神教の情念である。

一神教の特長は、絶対的な教祖(イエスキリストとムハンマド)信仰である。その教祖信仰の源泉はユダヤ教における絶対神(God)に由来する。

そして一神教の範疇にあるユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、深く政治に介入して事実上「共同体の宗教」または「組織の宗教」となっている。

日本仏教については創価学会が公明党と密接な関係にあるが、仏教史上例外的なことである。

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一神教は同時に二元論的対立を自ずからもっていて、それは「父に反抗して家をでて独立してゆく息子」の関係に喩えられるかもしれない。

ユダヤ教から神の子・イエスキリストが生まれ、歴史的に初代教会として発達したキリスト教は、やがて東方教会(ギリシャ正教)と西方教会(ローマ・カトリック教会)とに分裂し、さらにローマ・カトリックからプロテスタントが批判的に突出してきた。

ユダヤ・キリスト教を前提にして、同一のGodを信ずるイスラム教が生まれ、それはスンニ派とシーア派とに大きく分かれている。

教会・教団の分裂ということも、イエスキリストの本意はともかく、その後に成立した教会を支える教理の基本に組織論があるからだろう。

二元論と組織的宗教行動と父性原理にもとづく父と息子の相克が一神教の内部のインターネットを構成しているようにみえる。

(以上は、現代の世界の政治状況を整理する上での素人の一神教の理解であり、誤認があれば諸賢の批判を待ちたい)

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仏教の開祖・ゴータマ・ブッダは、政治権力としての王権を放棄したその求道の姿勢からして、宗教の政治権力化を排除していた。

晩年には、自分の出身部族である釈迦族7万7千人が殺害されるなどを経験していたが、各地に点在する出家のサンガ(出家組織)を組織化して闘争に立ち上がったことはない。

仏教自体に聖戦という思想が本質的にないし、仏教徒を組織化して他の宗教を積極的に改宗させるという情念自体が基本的に仏教にはない。

仏教においては、信仰の大義のために闘争し殺害するということや宗教裁判は是認されないし、殺害自体が負の縁起(悪業)としてアーラヤ識に記憶される。

一向一揆も、十字軍などとはまったく異質の歴史的活動であり異教徒撲滅の運動とはまったくことなるむしろ社会現象に過ぎない。

そしてなによりも仏教は本質的に「個の宗教」であり、宗教の名の下に慈善活動をしたり相互扶助の組織に帰属したりして生活上の安心を求めるものではない。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(『歎異抄』)と親鸞自らがいうように、徹底した「個」の宗教である。

社会的相互扶助は人間知の領域で、社会制度として工夫すべきであるというのが仏教的立場である、と自分は考えている。別の味方があるかも知れないが、一水四見である。

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141人の児童や生徒らが殺害された現場であるペシャワル、そしてインドと中央アジアにおける仏教盛衰史から一神教にまで妄想が及んでしまった。

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諸行無常の歴史に繰り返すことはないし、 生命の歴史に終わりはないだろう。歴史は常に無限の目覚めに向かって生成流転しているばかりである。

(2014/12/25 記)

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