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【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

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ホタルの宿る森からのメッセージ
第24回「ベケロの死~森の先住民の行く末・その5」

2015年1月29日

▼米は土だ

先住民にとって、主食はキャッサバの根茎である。森の中には、日持ちのよさから、その根茎を粉状にしたフフをもっていく。フフが少なくなれば、トラッカーである先住民も不安になりだし、村へ帰りたがる。そうなったら森での仕事は中断してしまうので、そういう事態は避けたい。したがってフフは森の調査を履行する上で重要なものだ。しかし毎日全員がフフばかり食べたらフフはあっという間に底をついてしまうので、そこで週に1~2回はごはんをたく。多くの先住民は食べた経験があるのか、あるいはすぐになじんだのか、とくに違和感もなかったようである。

スープ状の魚の料理を主食であるフフと食べる先住民©西原智昭

スープ状の魚の料理を主食であるフフと食べる先住民©西原智昭

しかし中には、「米は土みたいだ」といった先住民がいた。20年以上前のことだ。彼にとっては受けつけられなかったのである。われわれ日本人には常食であっても、彼らにとって米は日常的に食べるものではない。われわれも毎日フフを食べれば飽きてくるし、やはり米を食いたくなる。それと同じだ。食べ物である米を「土」と評するのも極端だが、そこは注意を払わなければならない。下手をすれば価値観の押しつけになりかねない。「文化植民地主義」にもなりかねない。

不思議なもので、主食の米はその後次第に先住民に人気が出てきた。むしろ毎日フフだと飽きてくるのでたまには米を作ってくれと申し出てくるまでになった。ではスパゲッティはどうであったか。

▼スパゲッティはヘビか

もちろんぼくは先住民にスパゲッティを強要した覚えはない。でもこれまでスパゲッティを食べたことのなかった多くの先住民に受け入れられた。意外であった。むしろ、これはうまい、うまい、と感嘆したものさえいた。森への食糧運搬はほとんどが徒歩であり、人が担いでいかなければいけない。したがって、重量の割には量が少ないものはあまり持ち込まない。スパゲッティもその一つだ。最大限でも週2回の夕食で作る程度であった。それでも、先住民の中には、その「スパゲッティの日」を楽しみにするものもいた。

ただひとり老人である先住民は、彼にとっては奇妙な形をしたスパゲッティを素直に受け付けなかった。「ヘビのようだ」という。すでにおいしさを知っている他の先住民が説明してもだめだった。とにかくわけがわからないから、とりあえずピリピリ(注:とうがらしのこと)をかけよう、とその老人はスパゲッティに大量のピリピリをかける。そこで思い切ってスパゲッティなるものを試食しようとするや、それがとても食べられぬ代物だと気付く。しかし、それは「ヘビのような」食べ物だからではなく、どうやらピリピリをつけすぎたようだ。辛すぎて食えないのだ。みなで、大笑いする。老人も「じゃ、またあとで食べる」と苦笑い。あとになっても、ピリピリの辛さは変わることはあるまい。20年前のこの逸話の老人もすでにこの世にいない。

▼ハチミツ採集の是非

1992年当時、ンドキの森はまだ正式に国立公園になっていなかった。ただ以前のように、調査に必要だからといっても動物の猟をすることは止めにした。暗黙の了解で、最小限の量に限り、網による川での漁猟、ココという食用の葉の採集、食用野生イモの採集、マロンボなど食用となる果実の採集、食用となる昆虫の採集、そしてハチミツ採集も認めていた。川沿いのモレンゲ(註:ヤシの樹液が自然に発酵したお酒)もときには採集していた。われわれ研究者もそうした魚や採集物の恩恵を受けていた。

ただしハチミツ採集については、むやみに木を切り倒さない、地上で取れるものか、木をのぼって取れるものに限定していた。この是非をめぐって先住民のガイドの一人がわれわれに文句をいってきたのである。ハチミツといえば、先住民の大好物だ。是が非でもとって食べたいのだ。蜂の巣が高い場所にあるその木を斧で切り倒したいというのだ。われわれは以前、キャンプ地にあった大きなモベイという木を切った。もしこのモベイが実をならせばゴリラ、チンパンジーにとって大事な食物となる。だから本来なら切ってはいけない。ただキャンプ地の安全性のためという理由で切り倒したのだ。しかし今度ハチミツのために切る木はボソと呼ばれる木で、ゴリラもチンパンジーも食用としない木だ。だから切ってもいいだろ、とそれが彼の根拠だった。

写真58:ハチミツを取るために、木に登り(左)、ハチをいぶし出すために煙をたく(右)先住民c西原智昭

ハチミツを取るために、木に登り(上)、ハチをいぶし出すために煙をたく(下)先住民©西原智昭

ハチミツを取るために、木に登り(上)、ハチをいぶし出すために煙をたく(下)先住民©西原智昭

考えてみるに何を採集してよく、してはいけないかの基準はあいまいなものだった。なぜ昆虫とココの葉や食用果実、野生イモはよいのか。なぜ陸上動物がだめで川の魚はよいのか。モレンゲはなぜとっていいのか。モレンゲこそ樹液を採ってしまえば、枯れてしまうのだ。もちろんゴリラ、チンパンジーが食用としない木だから切ってもよいという理由にはならない。規則は決めてもよいが、きちんとした説明基準を持たなければ、単なるわれわれ外国人の押しつけに過ぎなくなる。もっといえば、「森の中で、何を食べてよくて、食べるべきではないか」を決めるのは、研究者の研究遂行のためのエゴともいえなくない。

▼類人猿はわれわれと同じだ

われわれの存在で先住民の日常的な価値観がひとつ変わったことがある。従来から先住民にとっては、ゴリラ、チンパンジーは食の対象であった。森の中で会えばなんとか捕らえようとする。相手が追いかけてくれば逃げる。そうした関係であった。仮にそれら類人猿の狩猟が違法であることは知っていても、関係なかった。あくまで自分らの食用としての「肉」を供給する動物であったのだ。

しかし彼らはある時期を境に類人猿を食べなくなった。とくに教育をしたわけでもない。とくに法による取締が強化されたためでもない。彼らはわれわれと毎日森を歩く。類人猿を発見すれば、われわれは立ち止まり観察をする。このときわれわれの森のガイドである先住民もすることがないので、一緒に観察したりする。そうした観察の繰り返しが、彼らの類人猿に対する見方を変えたのだ。20年前のことだ。

もちろんわれわれは、コンゴ共和国の法律にのっとって、ゴリラ、チンパンジーは狩猟してはいけない動物種だとは教える。しかし彼らの類人猿への思いが変わっていったのは、そうした法的拘束力ではなかった。彼ら自身による類人猿の観察であったのだ。これまであくまで狩猟の対象だったので、ゴリラやチンパンジーを追跡する能力には長けていても、それらをじっくり見る機会はほとんどなかった。しかしわれわれと森を歩いているうちに、興味を持って彼らの行動などをつぶさに見るようになった。「なんだ、やつら、ほんとうに人間そっくりではないか」「あんな連中をもう食べる気にとてもなれない」そう彼らは口々にするようになったのであった(続く)。

 

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