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【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

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ホタルの宿る森からのメッセージ
第25回「ベケロの死~森の先住民の行く末・その6(完)」

2015年2月12日

▼憂慮する今の次の世代かつて、エメリという若い先住民の一人が感動的な話をしてくれた。果実や木の名は先住民の長老格であったドカンダやベレから知ることができた。そして、ゴリラの呼び方も、広域調査のときに、モイワから学んだ。そして、別の先住民バメからは、森の仕事をなめんなよ、金がかかっているんだから。木の名を知らないでは済まない、と教わったという。そして、ゴリラを呼んで近付いてきたときには逃げてはいけない、とも忠告を受けた。

しかし、先住民の森を知る年長者の多くは、すでに他界している。エメリが受けたようなトレーニングはもはや例外的で、彼らの伝統的知識や文化は所詮消えていく運命にあるのだろうか。

実際、森の歩き方、動物に出会った時の対処の仕方、植物の名前や利用法に関する知識などは、先住民のいまの若い世代の間では広く共有されていない。

森の植物の薬用利用について、長老の先住民から教わる筆者©永石文明

森の植物の薬用利用について、長老の先住民から教わる筆者©永石文明

▼近代教育の先住民への弊害

すでに述べたように、貨幣経済の流入、それに伴う町の文化の享受、さらに村への定住化などが、先住民にほぼ同時期に起こった。それらが、先住民の伝統的知識や文化の喪失に契機を与えたことは疑いない。しかし、その後の近代教育の勢いも、そうした先住民の傾向に拍車をかけたことは確かである。

「全国民が教育を受けるべきだ」「識字率を上げるべきだ」との主張のもと、またODAやNGOによる人道支援の名のもと、国際的な近代教育の流れも相まって、コンゴ共和国のどの奥地にも「学校での教育」が始まった。それは、先住民にも及んである。森の先住民の多くは当時、文字の読み書きができなかったのだ。

文字と縁のない先住民のひとり;本らしいものを読んでいるがその中の写真や絵を目で追っているだけだ©西原智昭

文字と縁のない先住民のひとり;本らしいものを読んでいるがその中の写真や絵を目で追っているだけだ©西原智昭

上記のエメリの例ではないが、森での技能や知識は教科書で教わるものではない。年長者あるいは親から学ぶ場は、教室の中ではなく森だ。しかし、近代学校教育の普及に伴い。先住民にはかつてのように森に長くいる時間が少なくなった。結果は明瞭である。森の伝統的知識や技能が若い世代に伝承されない事態が続出しているのである。文字の読み書きができ学校での成績はよくても、森の植物の名前は知らないし、動物も追いかけることができない。森も平然と歩けない。

現時点での中年代の先住民は辛うじて、親から森のことを学んだ世代である。しかし、貨幣経済や町の文化のあおりを受け、生活形態も変わってきた。それでも、森での伝統的技能や知識は失っておらず、一方で町で手に職を得ている先住民も出てきている。それも、いまや彼ら先住民の「新しい生き方」のひとつである。ちなみに、この先住民の息子は大の学校嫌いだという。でも、息子を学校に送らないと警察がうるさいんだとぼくに告げた。ただ、息子は彼と同様メカが好きらしい。また森に行くことも大好きのようだ。学校のプレッシャーから解放されて、こうした子供がのびのびと暮らせるときは来ないのであろうか。

またわれわれの現在のヌアバレ・ンドキ国立公園の研究・ツーリズムキャンプの一つでは、常に10人くらいの先住民がトラッカーとして雇われている。彼らは、一カ月ごとの交代制であり、場合によっては若い世代の先住民が送り込まれてくることもある。しかし、そこは森の現場。常に中年代以降の先住民が一人や二人一緒にいるので、若者は動物のトラッキングという仕事を通じて、森の中で年長者から森のことを学ぶことができるのである。プロジェクトの仕事場とはいえ、伝承の場が確立されている。もちろん彼ら若者は学校には行かない。

亡くなったベケロは、若い世代に伝統的知識や技能を伝えていくには、このような「森での教育の場」があるべきだと、ぼくに繰り返し強調してきた。もしそうした機会があれば、彼らの文化は継承されていくであろう。しかし、ベケロがいなくなった今、そうした強いイニシアティブを持った先住民がいない中、将来は危ぶまれる。

これは、彼らの伝統文化の話にとどまらない。われわれの現在の「野生生物保全」に関わる活動、つまり「パトロール」や「研究調査」、さらには「ツーリズム」にも計り知れないマイナスの影響が出てくる。先住民の適切な森でのガイドなしでは、こうした活動は効率よく十全に実施できない。保全どころではないのである。

ぼくがその結果、失職することを恐れているのではない。地球上のかけがえのない生物多様性豊かな熱帯林の保全が不可能になることを憂慮しているのである。手を打たなければ、そうなる日は遠くない。いまの中年代以降の先住民が生存している間に、何か行動を起こさなければならない。

▼いったい誰が「健全な心」の持ち主なのか

端から見れば、先住民の暮らしはまだ「貧しい」といった印象を受ける。現金でものを買い、町の影響を受け、教育も受けるようにはなっても、われわれの基準からみれば、物質的にも恵まれていないし、快適で便利な生活を送っているとは思えない。給料を定期的にもらう先住民がいるとはいえ、貯金はまず持っていない。生活の衛生状況もよいとは言い難い。

しかし、彼らははるかに「健全な心」を持っていると思う。これまで、多くの森の先住民の研究者が明らかにしてきたように、彼らは伝統的に「平等主義」を貫いてきた。彼らの間では、社会的な差異もなく、偉ぶる男もいない。野生動物を仕留めた男がその肉を多くありつけるということはなく、肉は社会の中で平等に分けられる。それは今でも生きている。今でこそ、給料を定期的にもらう先住民とそうでないものといったように、先住民の中でも経済的な格差が生じてきている。しかし、給料日であれば、「持てる」者は「持たざる」ものに、分かつのだ。給料のお金で酒を買い、彼らの社会の中で平等に振る舞うのだ。

さらに驚愕すべきことは、先住民には自殺がないことである。ぼくはこれまで25年以上に渡り、アフリカ中央部熱帯林にて、仕事をしてきた。先住民とも様々な場所で一緒に過ごしてきた。しかし、いまだ自殺の例を聞いたことがない。彼らも自殺のことは知っている。しかし、日本人が世界一の自殺の多い国だと彼らに説明すると、とても信じがたい様子だ。あんなに物資に恵まれ、高等教育の行き渡った、豊かな国・日本でそうしたことが起きている理由が理解できないのである。

先住民は、今日の人生を生きている。精いっぱいに。そして明日の人生を厭わない。貯蓄や物資のストックなどがなくてもいちいち心配しない。また、持ち物にこだわらない。もともと森の中で生活し、物資を多く持っていなかった人々だ。持てば持たない人に平等で分けてきたのである。だからこだわりがない。

こう書くと、「なんだ、先住民は日和見主義じゃないか」というかもしれない。でも、先住民の社会では、通り魔殺人はないし、親が子を、子が親を殺すこともない。どちらが、「健全な心」で日常を送っているか、われわれも学ぶところが多いはずである。

(この項完)

 

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