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【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

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ホタルの宿る森からのメッセージ
第27回「虫さん、こんにちは(その1)」

2015年3月15日

▼よくある質問

前回の一時帰国中、北海道・旭川のあるカフェに呼ばれ、トークショーさせていただいた。進行役のDJさんからあらかじめいわれていたのは、「どうして、西原さんは今のような仕事に就くことになったのですか、その話をお願いしますよ」という期待であった。

森の中の沼地への入り口©西原智昭

森の中の沼地への入り口©西原智昭

「コンゴでは何を食べているんですか」、「病気とか大丈夫ですか」、「虫とかたいへんでしょう」、「危険な目とかに会わないんですか」、さらには「日本は恋しくならないですか」などなど。どこでも頻繁に聞かれる質問が続く。

それで、トークショーでは、とっつきやすい話だと思って、さまざまな昆虫の写真を見せながら、食べられる虫など昆虫にまつわる話を始めた。そのときDJの方は、「そんなイヤな虫の話ばかりして、いやがらせじゃないの?」なんて、ジョークめいたことを言っていた。

でも、結論からいえば、「なんでもない、大丈夫ですよ、むしろ全く健康的なんです」といつも答える。実際、ぼくはもう25年以上、アフリカ中央部熱帯林地域にいる。年齢と共に、体力の衰えは感じるものも、これまでまず健康である。すでにこの連載記事で述べたような「ゾウとの事故」や、「セスナでの不時着」、「内戦時の不慮の事態」で、場合によっては死んでいたかもしれない危機はあったが、それをいったら、今の日本なんか、いつどこで人に刺されるかわからないし、突っ込んでくる車にひかれて死ぬのだから、もっと危険といえるかもしれない。それに、たとえ日常生活や移動手段は日本に比べれば不便だが、それがゆえに、自然もまだ残っており、森に行けば水も清み渡るようにきれいだ。親が子を、子が親を、10代の少年が友人を殺すこともない。自殺もまずない。どちらの方が、心が健康なのかと逆に問いたい。

しかし、こちらの生活になじむには、ある程度、「こつ」がある。

▼虫と泥による洗礼

ぼくがコンゴ共和国の熱帯林、ンドキの森へはじめて入ったのは1989年8月13日。初日はボマサ村を出発し6km徒歩の行程であった。「早く食べないと顔中たかられて食べられなくなるぞ」予定のキャンプ地に着いて遅めの昼ごはんを食べようとしたら、早速、当時の指導教官であった黒田さんに諌められる。ほんの数ミリに至らぬ小さな虫である。はじめはうっとうしいと思っていたくらいなのに、一向にぼくの周りから去らない。別段刺すわけでもない。ただ首の周り、顔の周り、はては鼻の穴の中、耳の中へと入ってくる。追い払ったり、つぶしたりすればするほど、むしろ数は増すばかりだ。たべものを口に入れようとすればうっかり口の中にも入りかねないほどの勢いだ。

文字通りハチではあっても針を持っていないこのハチは、針がないので“ハリナシバチ”と呼ばれる。うっとうしいと思うのは確かだ。しかし、それで殺す、つまりつぶすと、イヤなにおいを発し、それがさらに仲間を呼ぶ。「いい加減にしてくれ」と叫びたいところだが、いったいだれに怒るのだ?

ハチは、単に汗などの体液を吸いに来ただけなのだ。われわれが「森への侵入者」であり、むしろハリナシバチにたかられるのは、彼らの世界に入ったわれわれの方に責任があることを認識しなければならない。だから、回避する方途はない。汗をかかない、目や鼻の中の体液を乾燥させる手段もない。網付きの帽子をすっぽりかぶる手もあるが、網の目が粗く、ハリナシバチは顔の方にすりぬけてくる。第一、湿気で暑苦しくなってくるので、結局役に立たない。最善の対策は、われわれがその場を離れるか、たかられたら対抗せずにおとなしくすること。とくにつぶして殺さぬこと。そうすると、大群はやってこない。

ハリナシバチにたかられた汗だくの帽子©西原智昭

ハリナシバチにたかられた汗だくの帽子©西原智昭

ハリナシバチによる森の洗礼を受けた翌々日、ぼくは大きな沼地を歩くことになる。先を行く現地の先住民ガイドの通ったあとを忠実にたどらなければならない。うっかりそれを踏み外す。足は沈んでいく。靴はまさに泥の中にはまっていく。引き上げようにも、泥の重みで足は容易に上がらない。背中のザックの重量がさらに加担する。片足をようやく引き上げるだけでも相当のエネルギーを必要としなければならなかった。うっかりすればそのまま沈んでいってもおかしくないのだ。そうこうしているうちに、前を行くポーターはずんずんぼくとの距離を開けていく。それで必死についていこうと焦る。だからまた足元を滑らせて沼に沈む。悪循環だった。ぼくは森の道を知らないのだ。ましてや今は湿地林の中なのだ。

これが日本を出る前からきいていた「スワンプ林」(湿地林)であった。実は初日にも短い距離ではあったが沼地を踏破した。膝上まで水に浸かったが、初体験にしてはわりと平易にクリアできたなと思った。スワンプなど危惧していたほどには大したことないとたかをくくっていたところ、早速その翌日、上記のような「底なし沼」の現実を思い知らされたというわけだ。ンドキのような森を歩こうとしたらスワンプを避けて通ることはできない。それは至るところにある。そしてわれわれも沈みかねないのである。

ほぼ毎日くつやズボンはぐちゃぐちゃになる。においも泥臭くてひどい。もちろんそのまま沼地に沈んでいくわけにもいかないので、現地の人は工夫をする。もともとある木の根上や草本類の根塊を踏みながら、巧みに歩く。あるいは直径5cmくらいの木の棒を泥の中に通して、その上を細い平均台の上を歩くようにする。しかし慣れていないと、棒の上でバランスをくずし沼地にはまってしまう。ただでさえ棒の上は滑りやすい。そこでたいてい木の棒で杖を作り、バランスをとるときのために体重を支える。問題は重たい荷物を背負っているときである。まず背に荷物があること自体でバランスをとりにくくなる。さらに体重と荷物の重量で、一歩一歩進める足がより深く沈んでいく。しかし万が一ひっくり返ったり、ほんとうにずぶんとはまってしまったら、からだや衣服だけでなく、荷物もどろどろ、べちょべちょになる。

しかし、あるときから開き直る。別に沼地に落ちてドロドロになろうが、なるようにしかならないのだ。それがここだ。別に今日このあと、だれか女性とデートするわけでもない。町を歩いたり、会議に参加するわけでもない。臭いにおいを発しようが関係ないのだ、と。服が汚れれば、あとで洗えば済むだけの話。体も、川で水浴びすればそれで事は済む。

万が一沼地に浸かることを想定して、防水を配慮したザックのパッキングはいうまでもないが、ザックの重量を減らすことも重要なことである。スワンプの中をあること自体、相当の体力を消耗する作業であることもその理由の一つである。一歩一歩に力が要るし、神経も使う。もちろん森の中に食料ほか生活必需品を担ぎ込むことは不可欠である。しかし困難なスワンプ渡りがある以上、荷物は最小限にしなければならない。つまり食料も必要最小限のもののみを運び入れることがンドキでの調査の基本となる。そこをクリアしなければ、森の中で長期間滞在することはできないのだ。

それから何年もたってだいぶ慣れてきても、沼地を歩くのは厄介なことに変わりはない。雨上がりの森の地面でも事情は同様である。しかし厄介だからといって、気分を害してどうするのだ?だれに怒りを向ける?ここに足を踏み入れる決心をしたのは自分なのだ。沼地であろうが、ぬかるみであろうが、相手は所詮自然。太刀打ちできない。舌打ちしたって、しょうがないぜ。沼地という自然に対しては、「為し得ることしかできない」のだ。

▼雨は冷たい

その初めの年、ンドキの森に入ったとき、森は雨季をむかえていた。

ンドキでは沼地(スワンプ)は毎日のように歩く。雨のため水かさが増して、スワンプはいっそう歩きにくい。日々、雨で服は濡れ、スワンプ歩きでどろどろになる。雨と泥と汗にまみれる日々。まさに、『巨人の星』で「血の汗流せ、涙をふくな」といいたいところだ。それで、洗濯する。しかしただでさえ森の中は湿度が高い上に、雨が降るから乾かない。キャンプを移動するとき濡れたままの服をザックに入れて運ぶことになる。荷物はいっそう重くなる。その後の長年の経験で学んだことは、着替えは最小限しか持っていかない、丈夫で乾きやすい素材の服を持っていくことであった。

雨は森での調査や仕事にも支障をきたすことがしばしばある。どしゃぶりであればまずはまともな観察ができない。びしょぬれになる先住民のガイドにも申し訳なく思ってしまう。大雨、それは日本ではあまり体験できないまさに豪雨だ。キャンプ地でも水が流れる。テントの底が水浸しになるのを防ぐには、テントを張ったら必ず事前にその周囲にみぞを掘っておかなくてはいけない。

大雨を受け、地面の水が川のように流れる©西原智昭

大雨を受け、地面の水が川のように流れる©西原智昭

雨に濡れると冷たい。熱帯林の豪雨にあうと、文字通りずぶぬれになる。動物を追っていくと藪の中を通ることが多いので、傘はまったく役に立たない。レインコートやポンチョは必需品である。しかしそれでも中の服にしみこむほど、びっしょりになる。雨の中スワンプを長い距離歩くときなど、まさに頭から爪の先まで寒くて仕方がない。そんなときはキャンプに着いたら、火にあたり服とからだを乾かさなければならない。そういう日はもう寒くて水浴びなどする気にもなれないくらいだ。でも、まずは何かあたたかい飲み物を飲めば、一息つく。

▼日に焼けないことが意味すること

「あんまり、日に焼けていないですね」。アフリカ長期滞在から日本に一時帰国すると多くの人にこう聞かれる。アフリカというと、毎日炎天下の中歩き回っていると思っているのであろうか。大方のアフリカのイメージはそうだろうから仕方ない。しかし、熱帯林は大木の樹冠で空が覆われていて、直射日光がめったにあたらない。だから日に焼けることもあまりない。

樹冠が高く森全体を天蓋のように覆い尽くしていること-このことがンドキの森の一大特徴といっていい。ンドキの森はしばしば「最後の原生熱帯林」と称される。これまでほとんど人手が入っておらず、太古の森の姿のまま現在まで残されたこの地球上稀有な熱帯林だからである。いま世界中を見回しても、たいていの森には多かれ少なかれ人の手が入っている。森林伐採であり、鉱物採掘であり、居住区や農地、薪採集などのためである。森は残っていても狩猟によって動物がほぼ壊滅した地域もあろう。

ンドキといえども、まったく人の影響がなかったわけはない。近隣の村からは不定期ではあるにせよ、狩猟、とくに密猟のために人は入ってきていたことは確かだ。また最近の証拠ではンドキのあちらこちらでアブラヤシの種が見つかっている。これは自然種ではないので、何千年、何万年か前には、何らかの人々が森の中でンドキの森の中で定住生活していたことを物語っている。しかしながら、いずれも大規模な人の侵入というのは認められなかったといってよい。

それを阻んできたのは、スワンプがいたるところに広がっているという地理学的な条件であろう。これが人の侵入を容易にはさせなかった。結果的に、長大な年月にわたって野生生物も大きなダメージを受けず現在まで生息してきた。自然のままの森が、多種多様な動物が数多く生存することを可能にしてきたのである。いたるところで樹冠が天蓋を形成している、そのため下生えが少ない森-極相林-が形成されている。一度荒らされた森には天蓋は存在せず、下層にはやぶが密生する。そうした明るいギャップが少ないのも原生林の特徴といってよい。日に焼けないことこそ、原生林の証と言えるかもしれない。

辛うじて日の光を見る森の中©西原智昭

辛うじて日の光を見る森の中©西原智昭

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