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【NPJ通信・連載記事】音楽・女性・ジェンダー ─クラシック音楽界は超男性世界!?/小林 緑

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第37回 吉田隆子コンサートの顛末記

2013年5月6日

先立つ数回、話題にさせて頂いたコンサート 『吉田隆子の世界』 が、予定通り無事終了したことを、遅ればせながら今回ご報告したい。
4月10日、実施日の3週間ほど前にチケット完売!という嬉しい状況となり、従って当日は満席、時間配分も滞りなく進み、大成功! の結果となった。 ただ、 “完売” をお知らせせぬまま、本欄をお読みいただいている方には、チケットが入手できず、ご迷惑をおかけしたかもしれないことを、 まずはお詫びさせていただく。何しろ私個人の企画も含め、これまでに女性作曲家のコンサート・チケットが完売、などはまったく経験したことがなかったから、 どのようにそれを周知すべきか、うろうろしているうちに当日を迎えてしまったのだ…これもすべて、再放送も含めNHKのETV特集効果と、 改めて巨大メディアの効力と責任の重大さを思い知らされた次第である。

「素晴らしかった!」 「こんなコンサートは初めて」 「作品もとにかくすごい」 「本当に感動しました」…終演後の感想は、 こうした肯定的なものが圧倒的に多かったから、ともかく主催者 「女性と音楽研究フォーラム」 前代表として、また当コンサートの発案者としては、 急ぎ開催した意味もあり苦労も報われた想いだ。 しかし、事後にさまざまな機会でお会いする機会を得たコンサートの来聴者から、あらためて感想をお尋ねしたところ、いくつか思いがけなく、 また反省させられる言葉もいただいている。ここではそれについて、記してみたい。

まず、本番プログラム終了後、アンコールに入る前に、出演者に感想をひとことずつ述べていただいたのが、大変好評だったこと。 事前にその予定はなく、直前になって私から発案したのだが、その理由は、クラシックのコアなファンたちがこうした “お話入り” を嫌うのは、 音だけ・演奏だけのコンサートのほうが格式があるのだ…と勘違いしているからではないか、と私なりに感じてきたためである。 お話入りのコンサートは、ポピュラーでは常態であるし、小さな会場での室内楽、あるいは一般的でない楽器や作品を取上げる場合には、 クラシックでもときおりあることだ。私の自主企画のコンサートでは、できる限り―前回 『ポリーヌ・ヴィアルドと“ うた”』 (2012/3/24)では3時間以上の長丁場で叶わなかったけれど─―演奏者にお話を伺うことを実践してきた結果からしても、 お客様が喜んでくださるだろうことは読み込み済みだったのだ…果たして今回、「何はさておき、あれが一番よかった!」 との声もあったほどだ。 また、自身のコンサートでは毎回必ず作品解説も兼ねてさまざまな角度からお話をするチェンバロ奏者から、 「お客さんに向かって一言も発せず、ただ演奏するだけなんて失礼だ」 というファンの方もいるから、と聞かされたことも忘れられない。 経験的に、演奏者も多くは、実はおしゃべりも交えたい…という気持をお持ちなのではないか…ともかく、歌であれ、楽器であれ、音楽演奏と発話とは、 ごく自然に一体に繋がる行為として捉えられてよいと思う。

ところがその演奏者たちのお話の内容について、実は、女性差別や人権問題に積極的な活動を重ねられ、日ごろ尊敬して止まない女性Aさんから、 厳しく考え込まされるようなご意見を二つ頂いた(以下、発言された演奏者のお名前は記さないことをご了承いただきたい)。
まずは、検察の拘留に耐えて反戦・自由をテーマに掲げた吉田隆子の作品を、 「この平和な世の中で演奏できるのは有り難い」 と語られたことに対する違和感。 その根底に、いまや平和憲法も九条も風前の灯!という切迫した危うい現状認識があろう。私としてもこれには全く異論はない。 この感じを共有された方は、他にも少なからずいたのではないのではないだろうか。 もう一つは、隆子の人柄や音楽性も含め、「とてもかなわない激しい女傑、 こちら側の胆力が試されるような…でもあくまで人間として受け止めたい」 と語られたことに対して。 こうした言い方をすると、女性作曲家へのイメージがさらに偏ってしまうのでは…というのが批判の趣旨だったと思われる。 これについては、私もあれ? と一瞬いぶかりもしたのだが、終演間際の高揚した雰囲気の中で、その後、綺麗に忘れてしまっていたのだ。 いずれにしても、クラシックの演奏家たちにおいては、時局や女性問題を語る上での困難さと自らの演奏活動とを切実感を以て切り結ぶという意識が、 いかに希薄であるか、思い知らされる顛末であった。

けれども是非お断りしておきたいのは、これまでに何回かご出演願ってお人柄にも直接触れてきた今回の出演者はいずれも、 演奏技量はもちろんのこと、人間的誠実さという点でも抜群の方たちばかり。 その意味でも、今回初めて出演をお願いした若手奏者が、隆子の存在をまったく知らなかったけれども、 これを機に平和や戦争についてしっかり考えて行きたい、と “宣言” してくれたことは、まさに我が意を得たり! と嬉しくなった。

さて上記の批判的感想について、もうひとり、 発言の主と同じようなフィールドで負けず劣らずの果敢なアクティヴィスト振りを発揮している女性Bさんに意見を求めたところ、 「演奏を頼むだけでも大変なのに、その前に背景の複雑な社会問題について演奏者にいちいちレクチャーでもしなきゃならないなんて事になったら、 大変! あんな素晴らしい演奏をしてくれただけで充分と思わなきゃぁ…」 との応えが返ってきた。 実のところ、私はAさんの批判に 「ああ、やっぱり…! 音楽の専門家の間では絶対に聞かれない感想だ!」 とひどく得心が行き、 はっきり問題点を指摘していただいたことをむしろ有り難く感じていたので、Bさんの慰めにも近い反応には、いささか拍子抜けでもあった。 しかしよくよく考えてみれば、Aさんの指摘は、隆子が生きた時代とそのきな臭さ、しかもそれを踏まえてなお活動を止めなかった隆子の覚悟の程を、 どれほどきちんと受け止めて企画を立てたのか、主催者にこそ振り向けられるべきであったのではないか。 正直に言って、そうした面の備えは私たち主催者側には全く不十分だった。 コンサート実施までの雑務にすっかり忙殺され、隆子の抱える問題意識に自らを重ね合わせて考えるまでにはとても至らなかったのだ。 「女性作曲家」 という、幾重にもマイナー視されている対象を取上げるのは容易なことではないし、 生半可な気持で手出ししてはいけない…今回改めてそれを自戒の念とともに噛み締めている。

作品そのものに対する受け止め方も、賛辞ばかりでなく、実は好悪いろいろだった。 初めて聴く、名も知れぬ作曲家を否定的に捉えるのは、音楽の専門か否かを問うまでもなく、大方の人がそれにあてはまろう。 「正直言って、ええ? という感じだった」 とか、「音楽そのものに感動したわけではない」 などなど。 演奏者自身にとっても 「お客様に楽しんでもらえるというタイプの音楽ではないので…」 と、実際の音に置き換える解釈の難しさや戸惑いがあったようだ。 その解釈という点で、「はぁ…なるほどね!」 と、私にはまったく思いがけない感想が届いてきた。 ヴァイオリン・ソナタと並ぶコンサートの最大の目玉 『君死にたまふことなかれ』 をめぐるものだ。 派多野睦美さんは、与謝野晶子の深くて激しいあのメッセージを、聴き手に明確に届けるべく、かなり速いテンポでヴィブラートもつけず、 歌い上げるというよりは、まさに語るように、たたみかけるように、5節弁部を歌い通された。 私にはそれがとても新鮮で、これぞ極めつけ! と大喜びしたのだが、この曲を合唱や独唱の形でも歌い馴れている件の女性の言は、 「あの歌い方ではとてもついていけない、あの歌は、特に年寄りにとっては、ゆったりと、“允隠滅滅” とやってこそ、わかるのよ…」。

ことほど左様に、歌曲の解釈ひとつとっても音楽の捕らえ方はさまざまなのだ。 まして作品や作曲者に対する価値観や評価は、いくらでも無限に多様であってよいはずという認識を、今一度読者の皆様とも共有しておきたい。

実は、コンサートが無事終了してほっと一息ついた翌日、日仏女性学会関係者から、「ご存知でしょうけど…」 との断り書きとともに、 『ポリーヌ・ヴィアルドと同時代の女性作曲家たち』 と題するコロクが、4月20日にパリはオペラ・コミック劇場内で開催される、とのメールが届いた。 寝耳とはこのこと、噂一つ聞いていなかった私はびっくり仰天! ともかくパリに飛び、足掛け4日間の滞在から慌しく帰ってきた…というわけで、 今回、そのご報告も加えたいと当初考えていたのだが、隆子の件だけで早くもパワー切れ、次回に落ち着いてまとめてみたいと思う。どうぞ御了解下さい。

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