【NPJ通信・連載記事】エッセイ風ドキュメント 新しい日本の“かたち”を求めて/石井 清司
エッセイ風ドキュメント 再開第7回日本はどんな国だったか「飢えの一九四五年八月十五日」 子どもたちの必死の楽園
降伏前日本は戦争一色で、国は人々の生活のなかで金属類など戦争に生かせそうな品々は、すべて自発的に提出(それを「供出」といい、このことばは国民のなかに行きわたった)させた。
人々は家のなかにある金属類を、家の奥に隠れているものも引っぱり出して競って供出した。その心掛けがお国への愛国心のしるしだとされた。
金属供出は何度もあり、生活必需品の鉄製品は家から消え、代わりは陶製や木製のものになった。陶製の水筒、ボタン、キセル、おろし金、湯たんぽ、釜と何でも陶器のものでやった。
食べるものも米は代用食品になり、配給される量は少なくなり、かたい玄米のなかにいもやカボチャを混ぜ、次第にイモの量が増えて米と逆転していった。(日本降伏後は更にひどくなり、あちこちの野草をとってきて食べた)。
一九四五年八月十五日の日本降伏直後から代用食はずっとつづき、海の中や岩場の海草を集めて麺にした代用食「海草麺」が生まれた。代用汁麺だが文句をいう者などいなかった。
1コ五円のコロッケを買いひとつを兄弟で分けて食べた。煎りピーナツを一合買ってきて家族みなで食べた。馬のえさというスカンポという野草を煮て食べた。鉄道線路脇のさび茶けた小石積みの間から出ている草の芽をつんでゆでて食べた。鉄道線路の下の小川周辺には七草が生えそれを食べた。どぶ川のへりにエビガニが水から這い上がってくるのを手製のカギ針付きのヒモでつり上げ、どぶ川を往復するとバケツ半分ほど獲れ、丸ゆですると赤くなり、その尻尾の黒い筋を抜くと肉片が食べられた。尻尾だけなので量は少なかったが子どもたちのおやつになった。
カエルもつかまえ、ゆでてその太ももだけはむくと食べられた。春や秋に近所の家の垣根に小さな赤い実が成りこっそりとって食べた。毎日米なしの代用食では子どもは腹がすき、外でとれる食べられるものはみな食べた。たまに砂糖キビのはしくれが手に入り、子らはその外側の竹のような皮を上手に剥き、交代でその節と節の間から見える白い味をチューチュー力いっぱい吸いつくした。子らには甘くこたえられないおやつだった。
外ではさまざまな色の大小の蝶が飛び交い、彩やかな色のトンボがつがいになったまま飛び犬もあちこちで交尾していた。
一本だけ椎の木があり、よじ昇ると椎の実が採れむいて食べた。どんぐりの実は外皮をよくむかないと渋かった。椎の木の上方から地表に作った巣穴へ、黒い蟻がながい列を作り一日中行き来していた。その近くに穴がありそっと掘って引き上げると少し透明な薄い袋が破れずに地上の穴までたぐって採れ、そのそこに黒く少しこわい土ぐもがひそんでいて地表へころがすと逃げ足はのろかった。
親の眼から離れ、子どもには空腹の日々のなかにそれでも自分の世界があった。
そんな環境のなかからのちに文筆を業とする私きよしの感性が育っていったのも自然だった。
たまごをひとつ割り、弟と分けてしょう油でおかずにした。兄の私は先に弟のごはん茶わんにそれを分けて半分かけてやった。半分のはずがたまごの白味ばかりがどろどろと流れ出た。それに黒いしょう油が混ざりおかずになった。
これは飢えてずるくなった私の知恵で、生たまごははしでつつかずまぜないで流し出すとどろりとした白味だけのあじけない部分だけが先に流れ出る。
あとの黄色くおいしい栄養の実が残り自分のものになった。親切そうに弟にそんなひどい仕打ちをしていた私を母は知らない。
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