【NPJ通信・連載記事】一水四見・歴史曼荼羅/村石恵照
一水四見 ――グダニスクからみえる日本の風景・「脆弱なる花盛り」(2)――
ショーペンハウアーは ニーチェに「神は死んだ」と言わしめたが、彼一人がニーチェに言わしめた訳ではない。
ショーペンハウアーに関わる以下の論述は、『虚無の信仰 西欧はなぜ仏教を怖れたか』(ロジェ=ポル・ドロワ;島田裕巳・田桐正彦・訳)を参照。
本書は、仏教の導入にかかわる近代西欧知識人の反応ー魅了・戸惑い・拒絶ーについてのすぐれた学術書であり、スリリングな読書を楽しむことができると思う。
また、「仏陀がいなければ私はキリスト教徒ではなかった」(『世界内政のニュース』ウルリッヒ・ベック著・川端健嗣+ステファン・メルテンヌ訳)では、キリスト教社会である西欧やドイツが、いまだに他者から学ぶことができないこと、つまり自己を相対的に客観視することができていないことを指摘している。
このことは「歴史認識」で腰の据わらない日本人たち――錯覚の愛国者、保守を名のる人々、それを批判する人々たち――には、それぞれに奇異に聞こえるかもしれないが、西欧の情念の深いところにある巨大なる自我意識の問題に触れている。
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さて、ショーペンハウアーが仏教知識を得ることができたのは、サンスクリット語、パーリ語、チベット語などに秀でた英独仏の文献学者たちのお陰である。
ショーペンハウアーもニーチェも、フランスの天才的東洋学者ウージェーヌ・ビュルヌフの、タイトルは控えめだが実質的には大著『インド仏教史入門』(1844年)などによって仏教思想にふれていった。
しかし西欧にインド思想と仏教が伝えられた歴史的状況は、皮肉なことに16世紀後半からはじまったイエズス会を中心とする仏教国におけるキリスト教の布教活動と、英独仏を中心とする西欧による東洋の植民地化の結果である。
因に、西欧の植民地主義者らが産業的な後進国である被植民地を侵略し属領化させた方策は、「分断統治」の基本政策にもとづいて、キリスト教化、強力な銃器の使用、現地の言語と習俗の調査、地理と資源の探索、現地エリート層に支配者の言語を習得させるなどの教育による現地人の間接支配であった。
さらに日米戦争後は、日本にエネルギー源で自立させない状況を維持すること、そして「自由」というソフトパワーであるが、この伝統はマッカーサーによる日本統治にも連綿と引継がれていた。
おそらく現在までも続いているだろう。
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あえてショーペンハウアーに代表される当時のドイツ哲学を総括すれば、「有」の情念に圧倒的な信頼を寄せるヨーロッパ人において、彼らの自我を崩壊させる「縁起の空」は理解しがたいものであった。
しかしショーペンハウアーは、「有」の形而上学を土台とした西欧思想に、名状し難い精神の行き詰まりを敏感に感じてインド思想と仏教を探求したのだが、彼は仏教の本質にどこまで迫っていたのか。
彼は、仏教「を」学んだのではなく、仏教「で」学んで、彼自身の『意志と表象としての世界』という哲学的文学を創作したのではなかったのか。
ショーペンハウアーが「ユダヤの悪臭」に触れ、「いつかはヨーロッパがユダヤの神話から浄化される日がくると期待してよい」と語るとき――それが語られた一定の文脈を考慮しなければならないとしても――彼は人種・カーストにもとづく差別への徹底的批判をしたゴータマ・ブッダが言及した「苦」と「空」の了解の外に立っていたといってよい。
なぜなら仏教は、語られた言葉(聖典)より、語る主体を第一義的に問題とするからである。
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グダニスクは、近代におけるドイツとポーランドの触媒点であり、同市の近郊・ヴェステルプラッテは は第二次世界大戦の発火点である。
1939年9月1日、友好訪問を名目に港内に停泊していたドイツ海軍がヴェステルプラッテに駐屯していたポーランド守備隊を急襲した。
開戦直前に、ドイツはソ連と相互不可侵条約を結んでいた。
英仏両国はドイツに宣戦布告していたが、実際には動かなかった。
ダンツィヒは7日間で制圧された。
ナチス・ドイツによるポーランドの支配がはじまった。
ポーランドは1952年に独立した。
ドイツ語名のダンツィヒは159年ぶりに再び古来のグダニスクとなった。
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グダニスクの興亡史に触発されてヨーロッパ人ということを考える時、
二千年来戦争に泥んだ人々を思う時、
EU成立の過程をとおして当初の理念を思い出す時、
今日、イギリス人、フランス人、ドイツ人たちは、ほんとうに和解しているのだろうか。
アジア人たちが、ほんとうに理解しあっているわけではないが、それでも特に西欧のヨーロッパ人たちの人間関係とは、どこか違う。
それはなにか?
異端審問、魔女狩り、十字軍に代表される政治・軍事・宗教が渾然と一体化した西欧という歴史体制の根底にあるものを見つめる時、
欧州大戦(第一次大戦)と本格的な世界戦争としての第二次世界大戦を振り返る時、
西欧には、退屈を嫌い、悲劇の後の悦楽を求める情念が泥んでしまっているように感じられるのは、平穏な生活に満足しがちな極東の「わたし」の妄想だろうか。
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第二次世界大戦後、第三世界における旧植民地時代の諸問題を放置したまま、世界は自由主義経済・資本主義圏と計画経済・共産主義圏の二大陣営の「対立という安定」の時代を迎えたが、ポーランドが自由主義圏に入るにいたったのは、グダニスク造船所に勤務していたワレサの「連帯」運動の成果である。
そして現在、世界政治の最も重要人物の一人である現ドイツ首相のアンゲラ・メルケルは?
アンゲラはハンブルグ生まれだが、アンゲラの祖父(ポーランド人)の妻はグダニスク出身のカシューブ人、アンゲラの母もグダニスク出身の政治家の娘だ。
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グダニスクは、ノーベル賞作家ギュンター・グラス の出身地である。
「ダンツィヒ三部作」の一つ「ブリキの太鼓」が有名だ。
彼の母はカシューブ人である。
因に前ポーランド首相で現EU大統領ドナルド・トゥスクもカシューブ人の血を引いている。
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コペルニクス、キューリー、ローザルクセンブルグなど、ポーランドの思想家、科学者は多いが、今日の日本を考える上で重要な人物は、ドイツ出身のキッシンジャーと並ぶポーランド出身の戦略家・政治学者ブレジンスキーだ。
彼は1971年、世界第二の経済大国になったばかりの日本に半年間在住した後に「脆弱なる花盛り」として日本の政治・戦略的未熟を指摘した (『ひよわな花・日本』;The Fragile Blossom: Crisis and Change in Japan、1972)。
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アメリカに身を置きつつも、ヨーロッパとロシアを熟知して、常に世界史的展望をしているブレジンスキーの大局的洞察に深い注意をよせないままに、日本の政治情念は弛緩した状況を示して今日に至っているようだ。
彼の指摘する「ひよわさ」の根拠は、
1. 日本の日本の地政学的な位置
2. (領土を含む)直接統制下にある物的資産の不足
3. 真の内的自信の欠如
である。
1.と2.については、事実だから仕方が無いが、問題は3.の「内的自信の欠如」である。
『ひよわな花・日本』の後、日本人は「内的自信の欠如」を深く自覚しないままに、 エズラ・ヴォーゲルの「ジャパン・アズ・ナンバーワン」( 1979)に浮かれてしまった。
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問題は、 戦後の日本の人文科学系の知識人の思考と行動だ。
総じて彼らに明治維新までの日本の伝統についての親和と理解が不足していることと、内向き・国内向けで世界史的視座が欠けていることだ。
さらに文部省が文部科学省となり、人文科学・教養科目を無駄と考える様な政策が問題であるし、総じて、大学知識人たちは諸学の基礎としての「教養」の意義を深く考えてこなかった。
問題の淵源は明治維新の神仏分離、一神教的政治理念の導入に遡るだろう。
それが「真の内的自信の欠如」の原因ではないのか。
結果は、大学教育で、戦争の実体を深く学ばない、物事を歴史的に深く考えない多くの与野党の政治家たちが育てられてしまった。
諸外国とは異なる「ふるさと」を慕う自然の情をもっている日本人に、「愛国心」を人為的に「教育」するというような政治家たちを育ててしまった。
「脆弱なる花盛り」は、今日も日本の光景であろうか。
一切は縁起的に連動しているのだから、なんだか、世界全体が「脆弱なる花盛り」のように見えてくる。
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世界を――いまだに「有」の上にさらなる「有」を強化してゆくことに疑いをもたない覇権思想に泥んだ政治家・経済学者・戦略家たちと大企業を中心としたプレイヤーたちのチェスボードとしてはならない。
それぞれの地域の伝統を尊重した、健全な生活感覚に根ざした一般市民たちの、国境と国籍を超えた民間友好を基礎とした連帯が、ますます要請される時代である。(了)
(2015/08/20 記)
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