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【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

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ホタルの宿る森からのメッセージ
第41回 森の中で生きるということ(その6)~タフさ

2015年10月15日

▼タフであること

森の中での苦しい行軍はこれまで幾度となく経験してきた。

森を歩くときは時には強行軍である©西原恵美子

森を歩くときは時には強行軍である©西原恵美子

たとえば20年前の経験談。今にも前を歩くコンゴ人共同研究者に音を上げたくなるくらいだった。のどはかわき、荷は肩にのしかかり、足は重たい。しかしとにかく歩くしかない。ここでへたったら、水もない場所で野宿するしかない。やっとの思いで、古いキャンプ地に着く。しかし、なんとその近くに水場がない。ヤレヤレだ。腰の右側がギクリとくる。だが、もうひとふんばりして前へ進まなければ水場のあるキャンプ地にたどりつかない。

ほうほうの体で、やっと目的地に着く。水場は少し遠いが仕方ない。とにかく疲れた。しかし、まだ水は飲めない。ゾウのフン尿のニオイのする川の水をそのまま飲めば下痢をするかもしれないので、火を起こして、水が沸騰するのを待つしかない。

座ると、汗だくのからだにツェツェバエが襲ってくる。テントを立てるが、前夜ハエの生んだ卵の臭いにおいをテントのフライから除去しなければならない。ポーターやガイドとして一緒に歩いてくれた森の先住民がキャンプ地作りを急ぐ。テントを立てる場所の草を刈り、薪を探し、火を起こす。ンドキには樹液が飲料水がわりになるつる性植物がある。うれしいことに、そうしたつる性植物の樹液をもってきてくれた。少し喉が潤う。そして、沸騰した湯で、甘いコーヒーを飲む。ほっと一息だ。

まさに、体力と気力勝負だといえる。

▼病気と無縁の日々

25年の間、それ以外目立った病気もしてこなかったし、日本に帰国後も発症したことはない。

あるキャンプ地での話。夜中にトイレで起きる。いつものように小便に立つ。小便の途中に息苦しくなる。軽いめまいが始まる。もう少しで小便は終わる…ここで意識は途切れた。気が付いた。目が開いている。目に映ったあたりの風景は、黒い樹冠と青黒い空、左手が上下に動いて腹を軽く叩いている。ん?何だ?どこだ?ぼくは何しているのだ?

ぼくは森に寝ていると気付く。なぜだ?そうか、小便の最中にめまいがしてそのまま倒れてしまったのか。起き上がる。片方のサンダルが少し遠くにある。懐中電灯は草の中だ。背中はぬれている。雨に湿った地面の上に横になっていたからだ。おそらく小便が終わってズボンのチャックを閉めた直後に、バタンと倒れたのだろう。サンダルと懐中電灯の散乱の仕方からすると、並みの倒れ方ではなかったのかもしれない。

おそらく貧血か。小さいころに一度経験したのは覚えている。しかしこうしたことはこの後にも先にもなかった。この一度きりである。

こうした例外的な事例のほかは、もちろんまったく病気にならなかったわけではない。何回か高熱が出た。しかし、症状からマラリアであるとは思われない。いずれの場合も、極度の肉体的疲労に、過度の精神的疲労が重なったときだった。

ただ腰とひざはひどく痛めたことがある。

これはザックを背負っての長距離移動のときだった。もちろん一時的なことではあったが、まさにぎっくり腰だったのだろう。同じぎっくり腰は、後年、空港で重たい荷物を引き揚げようとしたときにもなった。そのあと、飛行機の狭い席の中で、痛みに我慢しながら、長時間飛行に耐えた。

膝が強烈に傷んだこともある。いつも左膝だ。しばらく続いた痛みも和らぎ、森を歩いても平気であった。しかし次に長距離を歩いたときそれは再発した。いまも爆弾を抱えた状態だといっていいのかもしれない。そのときは、一晩休んでも痛みは引かなかった。特に、倒木を乗り越えて歩くとき、痛みはひどかった。誰かを、何かを呪いたくなる。左足は大学の体育会での運動中、酷使したのは確かだ。そのツケが回ってきたのかもしれない。

しかしそれ以外とくに大きな怪我もせずに今日まで来ている。そして、今でもまだまだ長距離を歩ける体力は持ち合わせていると確信する。

▼体育会での経験談義といま

1986年の春、ぼくが4回生で、体育会ソフトボール部での現役最後のシーズンであったとき、入替戦で念願の一部再昇格を果たした。その瞬間の歓喜は今でも鮮明に覚えている。京都大学としては、1983年ぼくが入部したときの春のリーグで初めて二部へ降格して以来の快挙だった。K監督のもと、ぼくの後輩を中心としたチームでの勝利であった。勝利後のミーティングで各選手の評価を述べたあと、監督は「西原、冬場のトレーニングから皆を厳しく引っ張ってくれてありがとう。皆で拍手を!」という。投手として万年控えであったぼく自身は試合で直接大きな貢献したわけではないが、試合後のミーティングでそうぼくを評してくれた監督の言葉は生涯忘れない。

ぼくは1983年に大学に入学するや否や、是非とも体育会に入りたいと思った。小さいころから好きであった野球やソフトボールは小中高でも遊び程度にしかできなかった。そのかわり、友人の誘いなどで中学ではハンドボール部、高校では卓球部を経験した。大学では、むしろ武道でもやり、心身を鍛えようかとも考えた。しかし、野球・ソフトボールへの夢は捨てきれず、とはいえクラブとしての経験はないので、硬式野球は無理かなと思う中、体育会紹介のブックレットの中に、男子ソフトボール部を発見した。しかも練習は朝練のみ、午後は自由という時間配分も魅力的だった。ソフトボールなら、かなり小さいころから親しんできた。ピッチャーやショートを主にやってきた。これなら、ぼくにでもできるのでは、と思い、入部を決心する。

入学直後、早速大学のグラウンドを訪れ、練習中のソフトボール部を見学、その日のうちに当時のキャプテンの方に入部を申し込んだ。ぼくの学年ではぼくが入部一番乗りであったため、歓待された。ただ、それまで得意だった持久走を除けば、本格的に運動をやったことはなかったので、まずは基礎体力作り、筋力トレーニングなどに励む毎日が続いた。ポジションは投手を目指したが、体が硬いのと、筋力不足で、実践で役に立つほどにはならなかった。しかし、トレーニングだけはだれにも負けず履行した。シーズンオフである冬も、雪が降ろうが降るまいが、毎日のように近くの大文字山を走って上り下りした。時にはそれを一日に二往復も実行した。

体育会ソフトボール時代の仲間たちと;中央の背番号16が筆者©西原智昭

体育会ソフトボール時代の仲間たちと;中央の背番号16が筆者©西原智昭

朝練とはいえ、通常練習の終わるのは一コマ目の授業の終わるころ。それで、そのあと大抵他の部員と共に、学食に食事に行く。それでなおもタフなら、午後の授業に出ることもあったが、そうでない日も多く、夕方には自主トレで打撃の素振りや筋トレをした。学部の4年はそうして過ぎていったのであった。まるで、大学での勉強とは無関係な、まさにソフトボール漬けの毎日であった。技術的なところはともかく、基本的な体力ができあがったのは間違いないと思う。

4年間学業を怠っていたそのツケもあり2年の留年を経て、大学院の試験にようやく合格した。通常われわれの部では大学院に入った修士課程一年の誰かがチームの監督を務めることになっていた。大学院入学が決まった秋、OBとして久々に練習に行くと、大学院生のOBの中では次期監督候補がいないと聞く。奇妙なことに、修士課程に入るぼくの名前が候補者として挙がった。ぼくはすぐに断った。まず選手として活躍したわけでもなく、技術的な指導が十全にできるとは思えない。それにチームという組織のトップになって人を管理・指導する経験もない。何より、修士課程から人類学の研究のために多くの時間京都を離れる可能性が高いため、物理的に監督業はできないであろうと説明する。

ところが、修士課程に入った研究室では、ぼくのフィールド研究の場所がアフリカと決まった。出発は夏以降であり、もし監督をやるとなると春のリーグと夏の試合の一部は引き受けられそうである。しかし自分の適性を自分自身で懐疑する日々は続く。そうしたある日、M後輩が「西原さん、監督をやらないなんて情けないですよ。技術よりも、チームを厳しく引っ張ることです。それは西原さんにしかできない」。Mが言っていたのは、まさにK監督の評価と同じものであった。結果的に、Mに叱咤される形で、道はイバラであると承知の上、監督を引き受けることにした。

ぼくにとって、それは新しい挑戦であり、大袈裟ではなく、人生の大転換でもあった。

試行錯誤で始まった監督業の初期は、選手からもあまり信頼を得ていなかったのであろう。春のリーグ前の練習試合の結果も惨めなものであったし、新規なアイデアから創出した守備陣コンバート案も功を奏しなかった。幸いリーグ戦は4回生を中心とした選手の活躍でこそ入替戦まで進んだが、一部への再昇格は果たせなかった。

ただ春季リーグ後の新人の入部後、上級生・下級生を問わず、経験は浅くても覇気のある選手を積極的に使う方針を採用した。チームの活性化には、意気のいい若者の台頭が必須である。先輩格である試合経験者の存在も重要だが、ともするとチーム全体が停滞しかねない。新人でも試合に出られるという例を作れば、若い世代も奮起できるし、先輩格の尻にも火が付くはずだ。そう確信していた。

この方針にチームの中の上級生格からは猛烈な反発はあったが無視した。ところが、その年のある夏の日、コーチをしていたO後輩からぼくの下宿に葉書が届いた(当時は携帯電話もなくメールもなかった)。「西原さん、若者を選手として起用するという監督の方針がやっと理解できるようになりました」と。チームの浮沈は技術的なことだけではない。チーム全体の活気、覇気、そしてスピリット次第でもあるのだ。

監督初年度である1989年以降、日本とアフリカを往復する生活が始まる。日本に帰るたびごとに、監督を依頼された。半シーズンの時もあったし、フルシーズン関わったこともあった。それは1996年まで都合7年続いた。念願の一部復活は果たせなかったが、この断続的な長期政権で、ぼく自身多くを学ぶことができた。何より、「一徹・飛雄馬」という関係であったT後輩をはじめ、数多くの素晴らしい後輩諸氏と巡り合えた。今ではなかなか彼らに会う機会もないが、彼らは今でも生涯の宝物である。

1997年以降は、現在お世話になっている国際NGO・WCSのもと、基本的にアフリカをベースとする日々が今日まで続いている。大学院時代は、アフリカ中央部熱帯林地域で野生ゴリラの生態学的研究に従事したが、現在の仕事の内容は、自分自身で何か研究をするというよりは、国立公園管理、研究調査のサポート、野生生物保全事業、環境アセスメント、エコツーリズム、コンゴ人への研修、地元民への環境教育など多岐にわたっている。

体育会ソフトボール部での経験は今の仕事の多方面で貢献している。

まずはアフリカでの仕事の基本は体力。選手時代の特に冬場の走り込みと筋トレによる持久力は今でも持続しているタフさの源である。また現役時代の主務の役目は、今の諸々のコーディネート的な仕事への契機となった。監督業の経験の中で今の仕事に生きているのは、プロジェクトの全般的な組織運営だけでなく、現地スタッフの「適材適所」「若者抜擢」方針、さらに瞬時の合理的判断・評価の実践などである。監督業として、次の新しい展開のために一球ごとサインを送るという試合中の瞬時の集中と決断の積み重ねが、失敗を恐れないチャレンジ精神というタフさをも培ったのかもしれない。理屈ではなく実践のみだ。また、それぞれ役目や能力の違うそれぞれの選手との直接の対等の会話は、今の現地スタッフとの日常的なコミュニケーションにも生きていると確信している。

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