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【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

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ホタルの宿る森からのメッセージ
第42回「現在に至るまでの最大の三恩師」

2015年10月29日

▼ミカエル登場

ミカエル。ぼくがその名をきいたのは、1989年調査を開始してまもなくであった。「すぐ隣の森でトモ(注:筆者は現地で、智昭を略してその前半分のみで、トモと呼ばれている)と同じような仕事をしている白人がずっと前からいる」、ぼくと一緒に森で仕事をしていた調査アシスタントである先住民の一人がぼくにそういったのだ。隣の森、とはいっても、20kmくらい離れた陸続きの隣国中央アフリカ共和国の森である。ぼくはちょうどキャンプで果実の種子を調べていたところだった。ミカエルという男もどうやらゴリラの糞を分析しているらしい。とすると、ぼくの研究上のライバルかもしれない。しかもぼくより長年携わっているようだ。ぼくはそんなアメリカ人の存在をいささかいぶかしくも思った。

しかし、この人が、その何年かのちぼくのボスとなるに至ったマイク・フェイだったのである。ぼくの人生の行く手を大きく変えた人物である。ミカエルとういうのは、マイクのフランス語読みなのだ。

マイク・フェイ(右)と筆者(左)。2003年当時©西原智昭

マイク・フェイ(右)と筆者(左)。2003年当時©西原智昭

▼実物のフェイ

その数年後、うわさに聞いていた男、マイク・フェイにはじめて出会う。彼をリーダーとするWCSがボマサ村近くに基地を作り始め、コンゴ共和国の森林省とともに、ンドキの森を国立公園化しようとしているところであった。ぼくは森から出てきたばかりで汗だくであったが、マイクはそんなこととはつゆ知らず、のんびりと川で釣りを楽しんでいたようだ。白人ってこんなものか、とつい先入観で思ってしまう。

そこへ登場したマイク・フェイ実物。もう暗がりで顔はよく見えない。しかもメガネがサングラス状になっていて、目も直接みえない。相手もぼくの名前を聞いていたようだ。初対面の挨拶を交わす。翌日も彼と話す機会はあった。不慣れな英語もあいまって、緊張する。マイクの第一印象は、「こいつ、やり手の男だな」というものだった。

2回目に会ったのは、その数カ月後、森の中だった。マイクはぼくのキャンプ地を通過したのだ。なんの予告もなしに彼のチームがぼくのキャンプ地を通過しようとしたので、ぼくは文句を言おうとした。しかしそれが果たせなかった。何かこの男には惹かれるところがある。何だろう?

13ヶ月にわたる森の中での調査が終わり、マイクと会ったのはボマサのWCS基地であった。なにかこの男には、プロの仕事家としての魅力がある、そう感じないではいられなかった。ぼくの実践会話の英語は下手なはずなのに、彼の英語はひじょうによくわかるのも不思議であった。

▼フェイの生き方

マイクに接触していくうちにこの男のことを知っていくだけでなく、ぼくはどんどん感化されていった。白・黒がはっきりしている、方針がクリアである、そして何よりすごいのはマルチタイプの人間なのだ。2輪車はもちろん、どんなタイプの4輪車は運転できるし飛行機も操縦できる。もちろんメカも知っている。現地の役人と交渉するのにも長けているし、現地の森の先住民たちとも問題なく仕事をこなしている。ぼくにとっては「スーパーマン」的存在であった。酒や女におぼれることはなく、現世的なことにこだわらない。そして、プロジェクトのリーダーとして、真摯に仕事をやらない人はたとえ白人であってもどんどん首を切っていく、逆に信頼のおける人間には次々と仕事を任せていく。そして何よりも森をこよなく愛している。

マイクもはじめはぼくを単なる「一日本人研究者」くらいにしか思っていなかっただろう。ぼくがそののち「これからも保護に関わる形で研究やコンゴ人のための研修プログラム(連載記事第14回、第15回などを参照)を続けていきたい、大学の研究室に託されたその資金の管理などが、日本人研究者であるぼく一人では容易でないので、是非いっしょに働きたい」旨のアプローチを繰り返したのは確かだ。WCSにぼくが入る枠などないのに、部分的にサポートしてくれるようになった。具体的には、WCSに、その研修プログラムの資金管理などを委託し、またぼくはWCSのボマサ基地やブラザビル事務所、WCSの交通手段などを自由に出入り、利用できるようになった。森の中でも、ぼく自身の調査だけでなく、WCSがサポートしていた対密猟者対策のパトロールも積極的に参加した。かくて、京都大学に籍を置きながらWCSの(無給の)協力者のような立場になった。

“Life is short”(人生は短い)。これがマイクの口癖であった。「だから、大学のようなところで身を縛られる暇はない」ともいう。「現場で勝負をしろ」ということだ。まったくその通りだと思う。

そして森から出てくるぼくを見かけるたびにいつも、“You are still alive”(まだ生きていたか)と声をかける。マイク自身もよく知っている、森の中での調査やパトロールの困難さといつもそれを乗り越えてくることへのねぎらいの意味とまだ「生きている」ことへの皮肉が込められているような、彼独特のことばだ。

▼「保全」開眼へのことば

マイク・フェイの存在なしにはぼくの「保全への道」はあり得なかったであろう。実際、ぼくが「純粋に」研究者だったころは、何も「保全」についてはわかっていなかったし、だれからも教わったことはなかった。大学でも大学院でも習った記憶はない。

「世界の中で象牙の最大消費国は、日本である。君は日本人なのだから、ゾウの密猟を引き起こしている原因となっている象牙の取引の問題や日本での象牙商品の流通などについて、日本人としてもっと敏感になるべきだ」

マイクはぼくにこう語った。1997年1月のことだ。それまで、森林に棲むマルミミゾウのことにそれほど関心はなかった。一方、日本では象牙製の印鑑などに象牙が使われていることは何となく知ってはいたものの、それがアフリカのゾウの密猟と関連しているなどとはつゆに思ったことはなかった。しかも、のちに、日本の象牙需要には、マルミミゾウの象牙に強い嗜好があることを学ぶことになったが、当時はそれすらいささかも知る由がなかった。

長期にアフリカ熱帯林に携わっている唯一の日本人として、ゾウのことについて何とかしなくてはなるまい。このアフリカ熱帯林で起こっている現実は、遠く離れた日本とは決して無関係ではなかったといえる。多くの日本人研究者と同様、これまで研究中心に考えていた自分、保全の概念にすら疎かった自分に、ぼくが日本人であるがゆえに、恥ずかしい気持ちを禁じえなかった。

このマイクのことばが、「保全」の道への契機となったことは確かである。マイクこそが、ぼくの「生き方」への転機を開いてくれた人物であり、尊敬するに値する最大の師の一人である。

▼面白さはころがっている

写真160:1989年当時の今後共和国の首都ブラザビルにて(黒田氏:中央、筆者:左)©西原智昭

1989年当時のコンゴ共和国の首都ブラザビルにて(黒田氏:中央、筆者:左)©西原智昭

ぼくがはじめてコンゴ共和国の森へ調査に渡った1989年、指導教官として短期来られたのが黒田末壽氏。黒田さんは森を歩いていても、何も教えてくれない。黒田さん本人が森を歩くことに没頭し楽しんでいるように見える。とても毎日生き生きしている。ぼくはその背中をいくたびか見た。それに比べて、ぼくはただ森を歩き、機械的にデータを集めているようだった。決められたルートを歩き、ゴリラのフンを集め、それを洗い、ゴリラの食痕を観察し、ゴリラの食内容物を調べているに過ぎなかった。黒田さんは、類人猿の研究とはおよそ直接関わりそうにない、昆虫や植物をひとつひとつ丹念に見ている。それが、論文になろうがなるまいが構わない風に見える。そして研究ガイドである森の先住民たちと何やら楽しそうに会話し、納得し、メモしていく。その姿が不思議でもあり、うらやましくもあった。尊敬の念すらいだいた。そこには、フィールド・ワーカーとしての神髄があったのであろう。

そのときの黒田さんの目の輝きやからだの軽やかさをぼくは決して忘れていない。それはのちのち、ぼくに強烈に役立つに至ったようだ。気付いた時には、黒田さんのように森を歩いていたのだ。「面白いことはいくらでも転がっている」「引っかかったことは忘れない」、黒田さんはいつもそう呟いていた。

▼こやし

黒田さんは森のことだけではない。「森の先住民などを対象とした文化人類学的な調査もひとつやってみろ。人と付き合うこと、人のことを知ること、それは人類進化(人類学)を知る上で必ずこやしになる!」という。なるほどと思う。ゴリラなどを対象とした純粋な霊長類学だけでなく、人類学も視野に入れろと忠告する。否、われわれのやろうとしていた研究が人類学の一部なのは確かだ。その文脈で、われわれの研究室は、ヒトもサルも研究対象であった。だから何でも吸収し、情報を収集する。黒田さんは、そうしたことがこれから人類学をやっていく上で、かならず「こやし」になるという。それは、現地の人と付き合うことに始まる。まさに日常的な事柄なのだ。

さらに、日本人研究者チームの中で不愉快な思いをしたことも、「こやし」にせよ、という。ぼくはチームの中で最年少、研究ガイドである先住民の給料計算をしたり、彼らへのタバコ配分など雑用を一手に引き受けていた。それが苦痛ではあったし、その作業を理解しない他の研究者に対する不平もあった。しかし黒田さんは、「そうだな、君の感覚は正常かもしれない。そういうことのわかる人間は少ない。しかし、そこで短気になってはいけない。それも含め、すべて人類学の“こやし”にするべきだ」ともいう。

人類学をやろうとしているこの日常の自分も忘れてはいけない。まぎれもなく、人類の一員なのだ。黒田さんはそういうことをいいたかったのかもしれない。

そして、ぼくは自分の研究対象であるゴリラに限らず、多方面にアンテナを張るよう、最大限、心と目を開く努力を重ねてきた。

▼存在が権力

ぼくはそれでも毎日、ふつうの気持ちで村人や研究のガイドである森の先住民と付き合ってきた。日本にいるときと変わることのない平常な西原として。西原の一部を京都においてくることもなかった。平静の自分を100%出して、現地の日常とタックルする日々。中には、日本に何かの思いを残して、アフリカにいる自分が100%に見えない人も結構いたようであったが。

研究者であれ、保全家であれ、度の食であれ、白人による権力による見せしめ。アフリカにおける白人の存在はそのようになる。それは、回りの日本人を見ているだけでも、経験の少ない当時のぼくですら理解できた。「白人の存在自体が権力なのだということを忘れてはいけない」という黒田さんのことばは強烈な印象を持ってぼくのこころに焼きついている。ぼく自身がどうあがいても、拭い去ることができないアプリオリな上下関係。白人と黒人という関係。なにをいっても、調査という大義名分があっても、われわれのほうが物を持っているし、お金を持っている。いかに「友達だ」と主張しても、われわれとアフリカ人の間の「持つ者」「持たざる者」という関係は明瞭である。ある意味では土地の人の生活を握った存在となっている。「存在自体が権力なのだ」ということをまずしっかり自覚していくことが、何をするにも、第一歩なのだ、ということだ。

アフリカでの仕事はきっと多くの問題にぶち当たるであろう。それをいったん、突き詰めて考えなくてはいけない。壁にぶつかるしかない。しかしそこには矛盾、欺瞞があるはずだ。アフリカに行き始めた25年前の当初、黒田さんに感化されるように、そうしたことにぼくはうすうすと気付き始めていたのである。

▼帰る存在

調査を開始した当初、調査キャンプ地には黒田さんがいて、ぼくがいる。それに加え、森のガイドとしての森の先住民が常時数人いる。それだけの人数の食糧を確保しながら、調査を継続しておくのは厄介であった。そこにさらにもしコンゴ人研究者が加わるとなると、食糧の問題はさらに大変になる。ぼくははじめ、なぜ黒田さんがコンゴ人との共同研究が必要不可欠だといっているのか全く理解できなかった。しかし黒田さんはコンゴ人研究者の存在の煩わしさはあるかもしれないとしても、もっと心を肝要にして、目を開けという。

黒田さんの真意は「われわれがいずれ現地を去る存在だ」ということをまず認識しなければならないということであった。今はいい。われわれがいて、調査も進む。しかしこの森に居続けるわけではない。コンゴ共和国に永住するわけではない。いずれ離れるときが来る。そのときだれが継続するのか。否、この森はコンゴ共和国の熱帯林だ。われわれは日本人であり、よそものだ。コンゴ人こそ自分の国の自然を理解すべく調査を率先すべき存在だ。しかしコンゴ人にとっての、現実的な財政難、調査装備の不備、研究分野での不十分な経験。それをわれわれができる限りサポートする、そこで共同研究という形をとるべきだ、というのが黒田さんの発想だった。

もっともなことだ。そしてそうした人材がコンゴに少ないのであれば、若手研究者をトレーニングする場も作っていかなければならない。それがのちのち、黒田さんが細々と開始し、ぼくが実践的に受け継いでいくことになった「コンゴ人のための研修プログラム」へと発展していった。こうして、ぼくは「なぜ異邦の日本人であるぼくがアフリカの地で研究しているのか」ということを、自問自答しながら現地に関わるようになったのである。

「面白いことはいっぱい転がっている」、「何でもこやしにしろ」、「存在が権力だ」、そして「帰る存在だ」など、アフリカでの自分のあり方、立場などを、当所の目的である研究調査のこと以上に、多岐にわたる示唆を残してくれた黒田氏。ぼくにとって、最大の師の一人に挙げることができる。

▼O講師による道しるべ

ぼくが大学在籍中に人類学に強い関心を抱くようになり、大学院でもその道を選択するにいたった経緯はこれまでの連載記事の中でも説明してきた。しかし、大学に入る前に、直接的に「人類学への道しるべ」を具体的に示してくれたのは、浪人時代の予備校の講師O氏であった。

O氏は英語担当であったが、英語を予備校生に教える以上に、世界の情勢、様々な思想、多角的なものの見方などについて、随時教授して下さった。残念ながら、ぼくはそれまでの学校教育でそうしたことを学んだ記憶はなかったし、浪人生として「大学入学試験に受かる」という偏狭な目的しか持ち合わせていなかった。

そうした中、O氏の講義からは多大な刺激を受けることになった。氏は、「これからの学問は、脳医学と精神医学、そして人類学」だと予言した。人類が人類のことをわかるのに、いちばん近い位置にある学問がその三つだという。そのことばを聞いたのは30年以上前となるが、そのときにぼくははじめて、人類を研究上の直接の対象とし人類について探索する「人類学」の存在を知り、浪人の身でありながら「人類学」に関わる書籍を、丹念に読み始めたのである。ぼくに「人間への関心が強い」と素朴な思いがあったときに、人類学はなにかヒントを与えてくれるのではないかと感じたからだ。

O氏は、ぼくの人生の中で、360度の大きな視野を切り開いてくれた最大の師の一人である。大学時代、院生時代に数度お会いして以来、もう25年以上お会いしていない。

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