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【NPJ通信・連載記事】高田健の憲法問題国会ウォッチング/高田 健

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「戦争法」と「憲法第9条」が併存する矛盾は、「新9条論」
「9条の変質」で解決するのではなく、「戦争法の廃止」で

2015年12月6日

新9条論の登場

戦争法に反対する「2015年安保闘争」が60年安保闘争以来の高揚を見せ、9月19日の強行「採決」後も、運動圏は戦争法の廃止にむけて、たたかいを堅持している。この闘いを牽引し、支えてきた「戦争させない、9条壊すな!総がかり行動実行委員会」などによる「戦争法廃止の2000万署名運動」をはじめとした、「19日行動」など国会周辺でのデモ、毎月第3火曜日の「2000万人署名・全国一斉行動」、安保関連法制の違憲訴訟などの方針が提起されている。これが沖縄の辺野古新基地建設、原発再稼働、反貧困などの課題と結びついて、2016年の参議院選挙での野党共闘の推進などを射程にいれた、ねばり強い運動がすすんでいる。これを意識して、安倍政権は臨時国会も開かず、これからは「経済だ」などとうそぶいて、戦争法の議論から逃亡している(にもかかわらず、安倍は12月10日の桜井よしこらの「美しい日本の憲法をつくる国民の会」に改憲のメッセージを送っているのだが)。

戦争法をめぐって安倍政権との、このような攻防戦が展開されているさなかに一部の論者が「新9条論」を唱えるというなんとも不思議な事態が生じている。これらの論者の中には2015年安保のたたかいで、ともに戦争法案反対の運動でスクラムを組んだ良心的な人びともいるだけに、そして、この議論がこの間、それなりに戦争法案反対の論陣をはってきた「東京新聞」と「朝日新聞」を舞台に展開されたがゆえに、運動圏には一種のとまどいがある。筆者はこれらの友人たちに戦争法廃止の闘いにおいて連帯の可能性を見すえつつも、「新9条論」の誤りと、それがはたす役割を黙過することはできない(以下、敬称略)。

憲法をまもらせるための9条改憲?

10月11日の東京新聞「こちら特報部」は「平和のための新9条論」「『解釈の余地』を政権に与えない『専守防衛』明確に」という見出しをつけた大きな記事を掲げた。記事はリードで「安倍政権の暴走に憤る人たちの間からは、新9条の制定を求める声が上がり始めた。戦後日本が平和国家のあるべき姿として受け入れてきた『専守防衛の自衛隊』を明確に位置づける。解釈でも明文でも、安倍流の改憲を許さないための新九条である」とのべて、今井一(ジャーナリスト)、小林節(慶応大名誉教授)、伊勢崎賢治(東京外大教授)の3人の識者の議論を紹介した。小林はもともと9条改憲論者だが、安倍政権による集団的自衛権の解釈変更と戦争法は憲法違反で、立憲主義の破壊だとして、この間の運動に同調し、積極的な役割を果たしてきた。伊勢崎も安倍政権の戦争法には反対だとして論陣をはってきた人だ。今井は従来から憲法9条の国民投票をやるべきだとして、改憲手続き法の制定などを推進してきた人で、今回の戦争法反対運動の場にはほとんど現れていない。今井はこの問題で、公開討論会を企画するなどして、新9条論のメディアへの登場を企画した人物で、おそらく今回の議論の発信源であろうと思われる。

11月10日の朝日新聞は「『新9条』相次ぐ提案」「憲法論議に第三の視点」という見出しで、加藤典洋(文芸評論家)、伊勢崎賢治、相田和弘(映画作家)、田原総一朗(評論家)らの議論を取り上げた。加藤は陸海空戦力(!)の一部は国土防衛隊、残りは国連待機軍として交戦権を国連に委譲するという議論、相田は9条に「集団的自衛権は禁止する」を明記するという意見だ。

今井は「安倍政権の“解釈改憲”は度を超しているが、(『自衛隊合憲論』の)欺瞞性が逆手に取られた」「9条の条文と現実の乖離は、安保法の成立で極まった。立憲主義を立て直すことが先決という危機感から、解釈の余地のない『新9条論』が高まっている」と主張する。そして、9条の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては」の条文を「侵略戦争」に変える。そして、個別的自衛権と交戦権を明記し、集団的自衛権を認めないと書く。そのために専守防衛に徹する自衛隊を保持する、と書くという。そして、他国軍の基地は各議院の3分の2の賛成と住民投票の過半数が必要だなどと規定するという。

使い古されてきた新9条論

これが「新9条論」だろうか。なんと陳腐なことか。この間の改憲論争の歴史を少しでも知っている人なら、この議論は少しも新しいものではなく、自民党をはじめ、改憲論者によって使い古された「普通の国」をめざした9条改憲論であることがただちにわかる。私たちは耳にタコができるほど、この手の議論を聞いてきた。今井の議論はそれを外国軍事基地の受け入れの承認の仕方などをくっつけることで新しさを装い、目くらましようとしているだけだ。「立憲主義が破られているから立て直すことが先決だ、解釈の余地のない新9条だ」などというが、「戦争の放棄」を「侵略戦争の放棄」に変え、9条の改憲をはかる。9条を個別的自衛権と交戦権を容認した憲法に変えることは改憲派が待望してきたものであるが、だからといってこれで立憲主義がまもられると考えることはできない。いま立憲主義を破る人びとは、どのような憲法ができても、みずからに都合が悪くなれば立憲主義を破るに違いないことは明白だ。昨年来の安倍晋三政権の手口をみてきた私たちは「政権」にこんな幻想を持つことはできない。

第2次安倍政権は最初に画策した96条改憲が世論の反撃で破綻するや、集団的自衛権の政府解釈に固執する内閣法制局長官を更迭して、解釈改憲に踏み切った。かれらに「解釈の余地を与えない」「まもりやすくしてやる」ことで、憲法が守られると考えるのは「ロマンチストだなあ」(斎藤美奈子11月11日・東京新聞コラム)と皮肉られるとおりだ。今井はこの間の市民運動の高揚のらち外にいて、「もう自衛隊の存在を曖昧にすることは許されない」などと叫ぶ。この間の全国の何百万という運動は安倍政権に対し、「戦争反対」「憲法守れ」「9条守れ」「立憲主義を守れ」と突きつけてきたのだ。このことが戦争法を推進する安倍政権に反対する大きなたたかいをつくり出し、恐怖させてきた。この対立の間に新9条論という「第3の道」を提起することは、論者の意図は別として、安倍政権の改憲の動きを助けることに他ならない。

憲法の理想主義が現実の変革に果たす役割

改憲論者は従来から「現行憲法が現実と離れている」、この「乖離の解決が必要だ」と9条改憲論を主張してきた。そして憲法第9条にみられる理念は非現実的で、空想だと非難してきた。斎藤が指摘するように「つまり……『憲法を現実に近づけませんか』って話でしょう。それは保守政治家がくり返してきた論法だ」(同上)。

確かに9条に代表される日本国憲法が提示する理想は、この間、歴代政権によって実現されず、現実から遠ざかってきた。日米安保条約と安保体制しかり、自衛隊の歴史しかり、沖縄の現実しかり、だ。しかし、それでも日本は戦後70年間にわたって、海外での戦争で人を殺さず、また殺されることもなくやってきた。それはまさに憲法第9条をはじめとする平和主義とそれに依拠した民衆のたたかいが歯止めとなり、戦争のできる「普通の国」を拒否してきたからこそだった。米国や政権側の憲法を現実に近づけて改憲するという企てに抵抗してきた民衆の平和運動は、憲法の理想に現実を近づける闘いであった。米国のリチャード・アーミテージらの集団的自衛権を行使できる日本という要求に歯止めをかけてきたのが憲法9条とその理念だった。その意味で、まさに9条の理想が米国の「戦争できる国」への変質の要求を阻止してきたのだ。新9条論は現実主義の名の下に、この点でそれに屈服するものではないだろうか。

いま必要なことは、「新9条論」の提唱ではなく、戦争法の発動反対の運動であり、この運動が9条の旗を掲げて闘うことこそ重要だ。私たちは、この立場から南スーダンのPKO参加に反対し、撤退を主張するべきだし、南シナ海での日米共同軍事演習に反対すべきだ。立憲主義に根底的に反する戦争法と憲法第9条の抜き差しならない矛盾の解決は、第3の道の提起にあるのではなく、「改憲」か、戦争法の廃止によるしかない。もしも立憲主義の擁護の課題を重視したいのなら、2015年安保闘争が到達した地平に立って、広範な勢力を戦争法廃止、発動阻止の運動に再度結集し、拡大することではないだろうか。新9条論を説く皆さんがこの点での共同の立場に立ってくれることを願ってやまない。

(「私と憲法」175号所収)

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