【NPJ通信・連載記事】一水四見・歴史曼荼羅/村石恵照
一水四見 奇妙に内戦化した世界現状と「マハーバーラタ・バトルフィールド」の世界
北インドのとある場所で農耕祭が行われていた。
設けられた座席で、十歳前後の気品のある少年が多くの牛が鋤をつけて農地を耕す光景を見ていた。
少年はふと、耕作地の地面からミミズが顔を出しているのに気がついた。
そこに小鳥が飛んできて、ミミズをクチバシに挟んで空中に飛び立った。
すると今度は上空から急降下してきた猛禽が、その小鳥を襲い奪い去って行った。
農耕地ではありふれた光景である。
しかし、その光景に少年は深い悲しみを覚えて、思った、
「生けるものたちすべては、喰らい合い、殺し合いの連鎖の中に生きているのだ」と。
(『修行本起経』趣意)
以上は、ゴータマ(姓)・シッダールタ(名)の幼年期の逸話である。
その後、シッダールタは35歳にして「ブッダ(覚者)」となり、シャークヤ(釈迦)族の聖者として「釈尊」となった。
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「殺」によって維持されてる「生命の連鎖」の根源的意味の追求が、 シッダールタが、王国、王権、家族さえも放棄した彼の求道の動機の一つであった。
彼は、此岸・歴史的世界の「殺」を内在している「(六道輪廻の世界と象徴される)迷いのいのちの連鎖」を超えた生命世界を求めて覚った世界が「彼岸への道」としての仏教である。
その後、釈尊は、生命界の実相から、人間の歴史的世界の本質について覚った:「世界は燃えている」(『阿含経(「法句経」)』。
純粋に食糧獲得のための動物的生存の世界から、支配欲という人間の欲望の根源的情念を炎に喩えて、歴史的存在としての戦争する人間の実体について覚ったのだ。
釈尊は晩年、愛弟子のシャーリプトラ(舎利弗)に先立たれ、従弟のデーヴァダッタ(提婆)によってサンガ(教団)の混乱を被り、コーサラ国のヴィルーダカ王による釈迦族の中心地カピラヴァスツの攻撃を目の当たりにし、釈迦族7万7千人が殺害されるなどを経験した。
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仏教は、造物主であり罰を下す絶対的観念としてのゴッドを奉じる組織としての宗教の性格を歴史的に成立させている一神教の宗教情念とは、基本的性格を異にしている。
仏教は、基本的に自覚責任の教理であり、被造物としての人間の罪の責任の根源がーー形式論理的にはーー造物主にあることにより赦しが成立している一神教とはーーどちらに優劣があるということではなくーー精神的価値観の範疇を異にしている。
そして、諸行無常の縁起を説く仏教に終末論はないし、原罪の思想もない。
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人間存在の「殺」の問題は、ブッダの生れたインドの精神世界であるヒンズー教の重要なテーマの一つでもある。
そのヒンズー教の豊穣な情念世界を描いているのが『マハーバーラタ(偉大なバラタ族)』である。
本書は、戦争を主要なテーマとした18巻からなる世界最大の叙事詩であるが、その分量は、「バイブル(旧約聖書・新約聖書)」の約3倍だ。
そこで展開される戦闘は、18日間続く同族同士の戦闘である。
『マハーバーラタ』において暗示される戦争の普遍的動機は、異なった宗教や民族や種族間の戦闘ではなく、釈尊が直感したように、歴史的存在としての人間の存続そのものに内在する「殺と悪」の問題に関わっている。
悪とは、自らの殺害行為に対する反省・悔悟があってこそ成立する、人間を人間たらしめる倫理基準の根拠である。
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複雑きわまりない構成の『マハーバーラタ』であるが、人間の生存に関わる「殺と悪」のテーマが凝集された部分が第6巻に収められた『バガヴァッド・ギーター(神の歌)』である(原型成立;紀元前2 C. )。
これは、インド人の知識人ならすべて熟知しているであろう、ヒンズー教徒にとっての「新約聖書」ともいうべき18章からなる作品である。
ちなみに「18」は、いわば聖数であり、阿弥陀仏の本願は第18願であり、その本願の極意を述べる『歎異抄』も18章に整理されている。
『歎異抄』第13章で親鸞は「殺と悪」の問題を語る。
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『バガヴァッド・ギーター(神の歌)』の説く「殺と悪」からの救済とははなにか。
『マハーバーラタ』は、概略すれば親族関係にあるクル家の100王子とパーンドゥ家の5王子を中心とする物語である。
『バガヴァッド・ギーター』におけるクライマックスは、クリシュナを御者とする二輪馬車に乗ったパーンドゥ家の第三王子・アルジュナの開戦前の場面である。
アルジュナが平原の戦場においてかなたの敵の陣営をながめると、そこにはかっての友人・知人たちの顔が見えるではないか。
そこで、アルジュナは戦士としてはゆるされえない戦闘することに躊躇する。
殺す相手は、かっての自分の仲間たちではないか。
殺すことへの躊躇と、しかも同族の知友たちを殺さなければならないことへの逡巡と怯懦。
そして人を殺すことの罪意識の芽生え。
しかし「殺さなければ殺される」。
しかも殺されるのは自分だけではなく自分の味方も殺されるのだ。
そこで、ヴィシュヌ神の化身である御者のクリシュナが多頭、多腕を持つ神の形をあらわして、アルジュナに、戦士としての義務に忠実であれ、「戦え」と励ます。
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『バガヴァッド・ギーター』は、マハトマ・ガンジーも熟読し、インド2代大統領・哲人政治家・ラダクリシュナンによるサンスクリット原典の詳細な解説と英訳もある。
現在の第18代インド首相、ヒンズー教徒のナレンドラ・D.モディ氏も、当然本書を熟読していることと推察される。
インドの指導者たちはすべて、『バガヴァッド・ギーター』の教示する「殺と悪」に直面した場合の決断については躊躇しない、十二分な宗教的覚悟をしているだろう。
1974年5月18日、インド政府は、原爆を保有する核先進国の反対を押し切ってインド初の原爆実験に成功した。
しかし、そのコードネームは「Smiling Buddha(ほほえむブッダ)」である。
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1945年7月16日、午前5時過ぎに、アメリカ政府は史上初の原爆実験をおこなった。
1965年、NBCは、オッペンハイマーが、原爆が爆発し世界破滅の光景であるかのような巨大な火の玉を目の当たりにした時の心境を語る様子を放映している。
顔面に疲労困憊の表情をたたえたオッペンハイマーは、時に涙を流して当時の心境を語る:
「(その時)何人かは笑った、何人かは泣き出した、ほとんどの人たちは沈黙していました。わたしはヒンズー教聖典の『バガヴァッド・ギーター』の文を思い出しました。ヴィシュヌ神が強い印象を与えるために多数の腕をもった形をとって、王子アルジュナに自分の義務を果たすように説得しているのです。ヴィシュヌ神は言います「我は死の神なり、世界の破壊者なり」と。当時、みんなは、なんらかの点で、そんな風に思っていたでしょう・・・」。
典型的にユダヤ系のオッペンハイマーは、なぜユダヤ教のゴッドに祈らずに、ヒンズー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』を思い出したのか。
彼は、「死の神、世界の破壊者」に自己を同定した戦士アルジュナに、自らの心身をゆだねることで、ユダヤ教では満たされない救済を期待したのだろうか。
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釈尊の教説の精髄ともいうべき『法句経』とヒンズー教の極意を説く『バガヴァッド・ギーター』を読み比べてみればーー文献の構成は全く異なるがーーあきらかに後者は、人類の歴史における戦闘を是認する情念にもとづいていると言わざるをえない。
戦場における明らかな敵に対して、軍隊組織に所属する兵士が殺害行為を躊躇することは、通常困難である。
しかし、『バガヴァッド・ギーター』は戦場という極限状況を設定して、人類の生存に内在する「殺と悪」の行動規範の機微について語っているのであろう。
一方、釈尊は「殺の連鎖によって維持されている生命界」にあって、戦闘の覚悟よりさらに困難なメッセージを説く:
「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。」(『法句経(1-5)』中村元・訳)。
ここで、「怨みに報いるに怨みを以てする」ことの極限的行為は戦闘であり殺人行為のことである。
そして、「怨みを捨てる」永遠の真理を受け入れることは、戦闘の覚悟とは次元を異にするもっとも困難な覚悟に違いない。
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先日、『バガヴァッド・ギーター』の現代版ともいうべきピーター・ブルック演出の最新作『 バトルフィールド(戦場)』を観た(新国立劇場;11月25日~29日)。
まさに現在の世界状況を反映しているかのようなタイミングでの上演である。
現在は、これまでの世界史の諸段階でおこなわれてきた様々の形態の戦争や闘争が世界各地で同時進行している「バトルフィールド」の状況だ。
戦場での地上戦、アフリカの部族間の殺戮、都市でハンドガンの打ち合い、航空母艦からの砲撃、ドローンによる空中からの爆撃。
特に、様々な形態のテロ攻撃による都市の戦場化は深刻である。
そしてIS/ISISなど様々な武装組織が、欧米を越えて、アジアのタイにまて浸透し始めているいるとの情報もつたえられている( Reuters in Bangkok;Friday 4 December 2015)。
しかし第二次世界大戦のような状況とは異なる。
改めて考えれば奇妙な世界だ。
70億人の世界の人々の圧倒的多数は、料理番組やお笑い番組の合間に、ついでにテロの銃撃場面や難民の姿をテレビやパソコンの画面上で観ているだけだ。
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宗教の定義は様々であるが、人間の生命欲に内在する根源的闘争性にかかわる「殺と悪」の解釈をもとに定義することもできる。
宗教的にみれば、イスラエル(ユダヤ教)、英米独仏(キリスト教)、そしてイスラム教圏の国々の指導者らはーー個人的所感は措いてーー歴史的事実として、基本的に一神教世界の戦闘是認の情念に生きているのだろう。
西欧の「人権」先進国を中心とする軍産複合体の活動も、ますます活発である。
文化のレヴェルでは、とくに英米の映画産業においても、魅力的な戦争映画が次々に制作されている。
戦争の悲劇、その後のしばしの安らぎと歓喜の反復に二千年来泥んできた西欧史である。
特に近代西欧社会には、生の退屈を嫌い、常に刺激をもとめるエリートによる政治・経済の文化が深く定着してしまっているように見える。
しかし、洋の東西を問わず、犠牲者たちは、つねに弱い者たちである。
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では、中国はどうか。
中国は、秦始皇帝以来、権力闘争の革命による漸進的社会進歩を是認している政治世界であるから西欧と同様に、歴史的存在としての人間の闘争を是認する現世主義の世界である。
しかし、 中国の政治イデオロギーには、一神教的な宗教性のないことが西欧やイスラム諸国と異なっているが、一般的に宗教的攻勢に対して脆弱性と過敏性があることも確かだ。
では、伝統的に「非一神教の文化・脱革命の思想をもつ日本」の指導者たちは、人間の「殺と悪」について、どのように考えるべきなのか。
日本の中世においては「アマテラス」が(仏教に伴って伝えられたインド神話の)魔王と密約を交わして日本を支配するあらたな神話が展開した(『太平記』)。
しかし『バガヴァッド・ギーター』のようなインパクトを日本の指導者らに与えたわけではない。
世界政治史が覇権文明に染まりきっている中でーー確かに国連の常任理事国(アメリカ・イギリス・中国・ロシア・フランス)は最強力の殺傷能力のある核兵器を保有しているがーー日本の指導者が「殺と悪」の覚悟を決める基準はなんだろうか。
それは、世界の善良な人々の永遠の指標である「非覇権の和の文化国家」の堅持である。
そうでなければ、世界文明史における日本の伝統を存続させる意義はない。
これは国民全員の意識の問題である。
しかし、釈尊の精神を根底におく、宗教的イデオロギーを相対化した「和」の精神の堅持のためには――矛盾した言い方になるが――特に政治の中枢にある者は、人間の生きる意味における「殺と悪」の自覚が必要である。
(2015/12/05:記)
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