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【NPJ通信・連載記事】エッセイ風ドキュメント 新しい日本の“かたち”を求めて/石井 清司

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エッセイ風ドキュメント 新しい日本のかたちを求めて 再開①
「1945年3月10日 米軍機の東京爆撃」- 与えられた貧者への道 -

2014年7月7日

人はいちどは「自分は誰か」と考えることがあるにちがいない。文学の原点もそこにある。日々を生きるなかで、ふと浮かぶ「自分」への質問である。

かつて放送界の友人が「お前はただの現在にすぎない」という好著をあらわしたことがあった。

自分という「お前」のひとつの手掛かりは、人間としての内実とは別の角度、出生のルーツを探ること。

しかし、他の人たちはいざ知らず、雑草のような私「お前」に大したルーツなど期待できない。

それでも少し面白半分に一度「自分探し」をやってみた。

その起点はあの1945年(昭和20年)3月10日夜半の、米29爆撃機大編隊による東京大空襲だった。

あの夜、東京の京浜地帯の一郭、大森町(現大田区)4丁目166番地の小さな自宅に住んでいたわが石井一家、父母と兄と弟2人の6人は、遠い大森海岸方向の夜空いっぱいに、町が米29爆撃機の焼夷弾の雨に焼かれて炎上し、赤く染まっているのを背景に、家の前の道を遠い炎上とは反対の方向に逃れようとひしめき走っている人の波のなかへ、いっしょに逃げようととび込もうとしていた。

毎夜、持って逃げ出せるようにランドセルに教科書や文具をいっぱいに詰めて枕元に置くのが子どもたちへの母の命令だった。

その夜、B29の爆撃でそれぞれにそれを背負って子どもたちは家族いっしょに逃げる道の群衆のなかにとびこんだ。

人の波にもまれ、家族6人は幸いに離ればなれにならなかった。

空からのB29群の爆弾の雨は、逃げる前方、横、所かまわず降り、それらの降下火炎に次第に囲まれ、人の群れは逃げる方向を失い、目につく広場のいくつもの防空壕のひとつへ飛びこんで火を逃れた。

人々がそれぞれ囲んでくる火災からどう逃れたかはわからない。

わが一家は目の前の広場の防空壕へとびこんだ。なかには人がもういっぱいだった。

火災と火の粉が壕とその周辺へ降りそそいでくる。

前に立つおとなの隙間から、明るくなった空を赤い小さな火の玉の群がパラパラと落ちてきて枯木の群の枝々でそれぞれにはずんでいるのが見えた。

壕の入口に壕内の人を守ろうと仁王立ちに立っている何人かのおとなたちは、近くの備えつけの防火用水槽の水をかぶっている鉄カブトを頭からかぶり、火の粉の熱さを防いでいる。眼が煙りで痛い。

どれだけ時間が経ったかわからない。

壕のひとつは直撃を受け、死者が出たという。

夜が明け、人たちは申し合わせたように歩き出した。ただそれに付いていく。

電柱がみな倒れ、太い電線の束が目の前、周辺に迷路のようにたわわ垂れめぐっている。それをまたぎまたぎしていく列だった。

いつか列は鉄道大森駅近くの大森第一小学校の大講堂へたどりついていた。

校内は罹災者の群れでいっぱいだった。

どれほど時間が経ったか。

ずいぶん時間は経ったのだろう。

ただそこに座りこみ、先のことなど考えようもない。

そこへとつぜん、日頃親しくしていた自宅の前の大きな庭を持つ萩原という家のおばさんが姿を現した。地域の人の避難場所がその小学校の大講堂だと尋ね尋ねしてたどり当てたにちがいない。

手には白い握り飯の包みを持っていた。

この危機のさなかに差し入れを持ってきた。自分の一家もおなじように爆弾炎上にさらされた筈なのに、隣の子らの一家の口に入るものをと、とっさに差し入れの準備をしてきたのだ。日ごろのその周到さ。

すべて町は焼けただれたなかで、とっさにそれを思いつき行動してくれた。

いまもそれを鮮明に思い出す。

その家のあるじは、政府軍需省の課長だった。

その家の前の門前には、日頃黒塗りの車の迎えがきていた。

知的で聡明な一家だった。故に戦火の日のために、広い庭か地下かに米などを埋めて危機に備えていたのだろう。あの夜半の爆撃、炎上のあと、それを掘り出し、庭で炊いてにぎりめしをつくり、日頃親しかった前隣りの子どもら石井一家がたどりついているだろう大森第一小学校の大講堂を尋ね当てにぎりめしを持って駆けつけてくれたのだろう。

自分たちはともかくまず隣人の食を考え、子どもたちにそれを届けてくれた。そういう人たちがいた。

以後の経由はほとんど記憶にない。

自宅ともども東京の町は焼失し、一家は地方へつてを頼ってやみくもに向かうしか道はなかった。連絡網手段など無く、とにかく先方の都合にかまわず一家6人はとびこんでいった。

地方への列車は起点の上野駅を東京戦火の3月10日のあとすぐに走り始めたのだろう。政府の緊急救済措置だったかも知れない。

一家が地方への列車の有料切符を入手できたとも思えない。金など持って逃げたのだろうか。あとでわかるが、列車の行き先は東京から遙かな福井駅だった。

わがルーツ探しの手掛かりの始まりがこの福井市だった。列車は人の群れで、途中ながい清水トンネルのなかは汽車の煤煙が窓からむせかえるほど入りこみ、人たちの顔はみな黒くすす顔だった。何日間その列車に乗っていたか憶えていない。

福井市内のその家へとび込み、一家6人は片隅に居座った。

そこは母が子ども時代すごした生家早乙女という名の家だった。そこには、のちにわが戦後生活に介在してくる母の母、祖母がいた。

まず、福井市内の小学校へ入校し、東京からの被災者児童へ、その女教師は習字用の硯をくれた。うれしい心遣いだった。「東京から敵と戦わないで逃げてきた一家」と卑怯者扱いだった。

逃げたのではない。火災に追われ、いる場が失くなっただけだったのだ。以後ずっとまつわりくつ日本独特のいじめ、疎外、差別のはじまりで、子ども心に刻みこまれた閉鎖的日本の初体験だった。

その痛みの味はあらかじめ人間の基盤をすべて戦火で失った、ながい貧者の道を往く、間もなく9歳になる少年の初体験だった。

(続く)

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