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【NPJ通信・連載記事】エッセイ風ドキュメント 新しい日本の“かたち”を求めて/石井 清司

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エッセイ風ドキュメント 新しい日本のかたちを求めて 再開②
「米機の東京爆撃は、少年に観察と内省を教えた」
 - 町は歴史の前で立っていた -

2014年7月20日

1945年3月10日夜半の、米29機編隊による東京(大森町含む)空襲、爆撃、街ともども自宅のすべてを焼失という出来事は、これからという8歳の少年を突然襲ったものとしては、少年のそれからの人生をゼロからの出発とさせた意味で大きな衝撃だった。

米軍は3月10日の東京爆撃を周到な計画のもとで準備したという。

自我形成をこれからとする少年を、歴史が捕らえた場面だった。

焼け出されたのち命からがら母方の母(少年には祖母)を頼って遙か福井市へ逃げた石井一家6人に、明日など無かった。

50歳代の父は重い痔疾で、先方に迷惑をかけまいと痔疾特有のながく苦しい用便用に押し入れの下段の中に砂を入れた浅い箱を置き、時間をかけて父はうなりながらたえだえに用を足していた。

15歳の長兄は、父に栄養をつけさせねばと、近くの大きな幅の川で大きな鮒(ふな)を一匹釣ってきた。

3月も半ば、転入した福井市の小学校一年生の授業はもう殆ど無い。

焼失した東京・大森第三小学校一年生のときの学校の記憶も殆ど無い。だから生涯その時期の学友は無く彼らの行方も知らない。また、以後、大森の小学校や自宅跡を訪ねていない。米機の東京爆撃のあのとき(3月10日)以前の記憶も時間も少年は殆ど喪失して無い。

確か大森第三小学校の児童たちは、予測される米機の空爆を逃れて近隣県の寺や農家などへ引率されて学童疎開をしていた。だから、みなは寺などその疎開先での、強いられた厳しいが一面楽しい共同生活の思い出を共有し生涯の記憶としただろう。

少年の場合は都合でその学童疎開には参加できず、結果、大森の米機の爆撃ですべてを失い、学友たちとの思い出は無い。

爆撃を受けた1945年3月10日以前の、大森の自宅周辺の光景の記憶は、わずかにはある。

そのひとつは、兵隊たちと町の人が共同で行っていた町の家々の一方的な強制倒壊の光景だ。

米機の爆撃で「密集」していた町の家々の類焼を防ごうと、軍が一方的に家々を指定し、その木造の家に四方から縄を掛けよってたかって集団で倒し潰してしまう、その家々の家族の一生を左右する残酷な命令だった。

指定の家々を強引に倒壊して町の随所に間引きしたように人口の空白地をつくり延焼を防ごうという、軍による強引で浅知恵の「火の用心」計画だった。

突然家の倒壊を指定された一家は、みな強引に放り出されそれぞれいずこへか去っていった。行く当ても無かったろう。加重の戦中苦だった。突然、退去を強制された彼ら一家のその後の人生には、戦場で全滅を命じられた兵隊たちのそれに共通するものがあったろう。強制された、人生の限りない変更だったのだから。そのときの子どもたちのそれ以後の一生は、強制された条件の変更だったから、それぞれ努力したにしても想像を絶した人生になったにちがいない。8歳の少年が大森で米機の爆撃で、ある夜以来すべてをゼロにされてからの人生を何とか生きていま晩年に達したことを思うと、日本兵により突然家を破壊、追放されたあと、少年少女たちがどう生きたか、その心と姿その一生を思うと胸が痛い。

彼らはそのひたむきな人生の晩節、かつての少年がこの一文を書いているように「あのとき、軍の強制」で人生を変えさせられた一家と自分の一生をどう振り返っただろうか。

表現や考察のそろりとした機会も無く、強制された人生のあの日について押し黙ったままあるい運の悪さとして胸に抱えて終えていっただろうか。

そんな押し黙った人生の記憶を秘した「あのとき」の子どもたちは、わずかの期間だったにしても、どれほどいただろうか。歌手美輪明宏が「ヨイトマケの唄」を歌う。

「あのとき」、指定した他人の家々を、強制的に倒壊するために、その家の柱に四方からながく太い縄を何本も掛け、いっせいに合図で引っぱり合い、その家は周辺に凄いほこりを巻き上げて崩れ落ちた。その倒壊作業に参加した町の人たちは、地下足袋や女はもんぺ姿で動員された人たちだった。見知らぬ一家をとんでもない人生と生活に追い立てたのはおなじ町の人たちだった。命令されたとはいえ、その家々の死刑執行人役を担ったことには違いない。あの戦争のご時世の空気には、その人たちの悲惨を演出した側に立ったのだということなどに自分の胸を痛める余裕さえ無かったにちがいない。明日はわが身なのだった。

町は総出で敵来襲に備えて防空演習がくり返されていた。

家々の屋根に、地上から竹はしごを掛け、男女何人もがはしごの途中に片足をからませてとりつき、水の入ったばけつを上下へ手送りする練習だった。屋根に上が燃え上がっているとの想定で、屋根の上でばけつの水を次々と撒(ま)くという町内会の演習だった。

昼夜なく、敵機来襲の警戒警報や空襲警報のサイレンが町に鳴り響き、町内の肩から水筒を掛けた大人たちがメガホンを口にその警報を大声で叫んでまわった。

わが家は道路に面したわずかな庭の隙間に数人が入れる小さな防空壕を掘りサイレンのたびにそこに入って隠れた。

間もなく3月10日に町は空襲で全焼し、少年一家も路頭に迷い、ただひとつの地方にある家、母方の母(少年には祖母)を頼って遙か福井市へ東京から逃れていった。

それらの外側のつよい刺戟によって少年ははじめて自分のことを見つめる自我のゼロ点とでもいうところに立った。

考えることも知らない小さな存在に、歴史の方が襲いかかってきた図だった。

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