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【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

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第68回「アフリカの野生生物の利用(最終回)
    ~野生生物は資源なのか」

2016年11月29日

<この記事は、よこはまの動物園機関誌ZooよこはまNo. 95 P. 16-17(2015年12月)に掲載された拙記事「アフリカの野生生物の利用とその行方3 野生生物利用と人間の文化のあり方」より転載一部加筆修正」>

▼“すばらしい”動物だから守るのか

 昨今しきりとアフリカゾウが絶滅に向かっている、という言説が目立つ。しかし、アフリカには草原地帯に生息するサバンナゾウと、熱帯林地域に生息するマルミミゾウがいる上、地域により、頭数の状況は異なってくる。まずは、「ゾウを守る側」も「象牙を利用する側」も、そこを一緒くたにしてはいけない。そしてより重要なことは、日本が従来重宝してきたのは、マルミミゾウ由来の象牙であり、それは日本の象牙業界では「ハード材」として他の素材と区別されていたものである(連載記事第63回参照)。

 ところが、そのマルミミゾウは、象牙目的の密猟による頭数の減少や、すでに述べてきた熱帯材目的の森林伐採(連載記事第55回)などによるその生息地の縮小で、今や絶滅の危機に瀕している。日本の「ハード材」伝統利用を述べるのであれば、マルミミゾウの生息危機についても説明が必要となる。ところが、上記のシンポジウム(連載記事第67回)では、象牙の伝統「利用」のみが強調され、マルミミゾウの象牙利用、その生態学的意義、生存危機などに関する言及は一つもなかった。むしろ、「ハード材」の象牙を持たないサバンナゾウの事例のみが取り扱われていた。それでは、情報に正確さが欠けるだけでなく理解に混乱を招くだけで、これは、象牙を「生物資源」の一部としかとらえていない人々が、その辺の議論を故意に曖昧にして論じようとしているとも考えられなくもない。

 その一方で、ぼくの個人的見解では、「ゾウを守る」側の主張にも課題は多々見られる。上記同様、だいたいサバンナゾウが論じられ、従来日本の象牙関係者が関わってきたマルミミゾウの詳細は述べられない。そこで、「日本人も象牙を使うのだから、消費者としての責任をもたなければならない」と単純に主張されても、実際その責任を感じる日本人がいったいどれだけいるのであろうかと疑念が生じる。説明不足のメッセージが一方向の主張にとどまってしまい、メッセージがメッセージとならないまま埋没してしまう。残念ながら、日本の多くの保護NGOはそうした「自己満足的な」歴史を繰り返してきただけで、効果的なゾウの保全には役に立たず、過剰な象牙利用や野生ゾウの密猟の実情はほとんど変わっていないのが現実だ。

 しかも、確たる証拠も示さずに、「日本の象牙需要があるので、野生のゾウは密猟されている」という言動が多い。明確な根拠なしに、象牙関係者・利用者全体がまるで敵視され罪人扱いされている風潮もある。象牙を利用してきた伝統文化への配慮は、そこには微塵も感じられない。さらには、野生のゾウの魅力のみをしきりに語り、「こんなにすばらしい動物なのだから、象牙を使わずに、ゾウを守りましょう」と大抵締めくくられている。論理の飛躍も甚だしいと思うだけでなく、「利用派」と「保護派」の溝を広げるばかりであると思われる。実際、歴史はそれを物語っている。

 現在のグローバルな世界の中で、われわれは、地球の財産である野生生物のあり方、生物多様性保全とは一体何なのか、そして人類が築いてきた伝統や文化は本当は何なのか、何をもって「伝統」あるいは「文化」と称することができるのか、または真に尊重すべきものは何なのか。そうした自然と文化の両面を、バランスを取りながら熟考し、その上で、野生生物の利用をこれからどうしていくべきなのかということを、「利用側」も、「保護派」も、対立の垣根を取り払い、同じテーブルで議論しなければならない。そうでなければ、お互いの主張はいつまでも平行線で、解決の糸口はなく、気付いたら、たとえばマルミミゾウは絶滅していたという事態になりかねないであろう。

 また、われわれはもっと根源的な問題「人口増加」に対する具体的処置を考えなければいけない。人口が増えれば、経済成長の緩まぬアジアではさらに象牙の需要は高まる可能性がある。アフリカでは経済的貧困層が増え、ゾウを密猟し象牙を売買でもしなければ生活できない人々が増えてきている。また、人口増加に伴い、人間の居住区や農地開発の必要上、野生ゾウの生息域は狭まるばかりである。なぜか、たいていの保全論者はこの根本的な論点を強調していない。人間の居住区とゾウの生息域を仕切る柵などの物理的な障壁を作るというのは、小手先の解決策でしかないとぼくは考える。否、人間とゾウとの共存など、ただの綺麗ごとの言葉遊びで、砂上の楼閣でしかなくなる日は遠くないと思わざるを得ないのだ。

 
▼惑星の怒り

 何十本という巨木の倒壊。何百本もの折れた大枝・小枝。森はあたかも壊滅したかのごとくぼくの目に映った。ぼくがヌアバレ・ンドキの森に来て以来20年以上、いかなる季節であっても、見たことがない光景であった。それは森の廃墟であった。

 その日、強風を伴う大雨が降ってきた。夜中の嵐。熱帯林で典型的なものである。何も格別な心配はしていなかった。同日午後、さらに激しい嵐に見舞われる。すさまじい風の豪音。突発的な滝のような雨。この種の雨なら珍しくはない。大雨季なら普通のことである。しかしときに暦の上では小雨季であった。

 そのとき森の中にいたジョキンという名の先住民のガイドとぼくは半日と満たない間に訪れた2度の烈火のごとき降雨に違和感を感じないではいられなかった。ジョキンは荒れ狂う風をにらみつけるように、顔に突き刺さるように降る雨もものともせず、天を仰ぐ。いきり立った風雨による倒木ないし枝の落下の心配があるからだ。空を凝視しては安全を確かめ、早足でより安全な場所まですばやく移動する。近くでは大枝が地上に落ち、また、大木が根元から折れんばかりの音が響いてくる。そうこうしているうちに、風もおさまり雨も小止みになっていた。

 3度目の嵐はそれから12時間もたたない夜半すぎに到来した。そしてそのときの風雨こそ森を完膚なきまでに破壊したのである。

 いつもの通り、近づいてくる嵐の音でぼくは目を覚ました。キャンプのスタッフたちはすでにテントの外に出ている様子が聞こえる。まさか24時間のうちに3回目の暴風雨がくるとはぼくも思いもよらなかった。しかし普段通りテントの中にとどまり嵐が去るのを待っていた。

 あと数10cmで死す。そう表現しても、決して大げさではない。木が折れ、倒れてくる音は耳にしなかったと思う。空中を荒れ狂う風の音とテントをたたきつける雨の音で、聞こえなかったにちがいない。しかし気付いたときには、空中からやってきた大きな枝部分らしいものが、ぼくのテントの1/3をつぶしフライ部分が身体の一部にほぼ接触していた。

 降りしきる夜の豪雨の中、テントの外から懐中電灯を向けぼくの安否を尋ねるキャンプ・スタッフ。ぼくはもう少しで、あと数10cmのずれで、大木がテントとぼく自身もろともを潰していたという一大事になっていたかもしれないことに戦慄を覚えながらも、ぼくは生きている、どこも怪我をしていない旨を伝える。「早くこっちに出て来い」という彼らのことばに促され、さっと荷物をまとめ雨の中、テントの外に出る。テントの中は折からの豪雨で、水浸しになりつつあったのだ。

 24時間以内に最大級規模の大嵐が3度も起こったという事実もさることながら、それによる森自体への影響も並大抵のものではなかった。ふつう森の中のキャンプ地はこうした倒木の心配があまりなさそうな場所が慎重に選ばれる。もちろんそうあってもまったく危険がなくなるわけでない。とはいえキャンプに大木が倒れることはまずない。今回約10mの高さでぷっつりと折れた20m級の中木も、まさかそう簡単に倒れようとはいったいだれが予期し得たであろうか。3連続の猛威を振るった風雨は、もともと折れかかっていた木や枝だけではなく、少なくともバランスが悪かった木々をも根こそぎ倒したのである。

 風雨の力で倒れた木々がそれらに隣接する木々をもなぎ倒したのはいうまでもない。森のカタストロフ。天からの猛威が天の産物である熱帯林をかつてないほどの壊滅に導いた。伐採業という人為的行為による森林開発ではない。自然が自然自らにダメージを与えたのである。

 翌朝その森を歩いてみる。痛ましいくらいにいたるところで森が開けていた。倒木のためである。森は全体的には結実シーズンに向かうところであった。倒木は木の死を意味する。結実を待っていた木は、倒れてしまえばもはや永遠に実をならすことはできない。この大量自然倒木によって、いったいどれほどの潜在的な果実が消失していったのであろうか。

 結実に関していえば、多大な影響を与えたのは倒木だけではなかった。たて続けに起こった激しい雨と猛々しい風は、木そのものは倒さなかったにせよ、樹冠に咲いていた花、樹冠で熟れるのを待っていた未熟果の多くを、くまなく地面に降り落としてしまった。これは今年成熟果を森に提供するはずだった機会を奪取してしまったことを意味する。その結果、果実を期待していた動物はかなり憂き目を見る可能性が大きい。植物側にしても、熟す前に落下してしまったこと、本来なら動物に種子を飲み込まれ、種子散布をしてもらう機会を大幅に失したこと、すなわち近い将来を担う次世代の再生に、少なからぬネガティブな影響を受けたことになる。

 これは森の自殺行為なのだろうか、とも思えてしまった。ンドキ周辺で見聞きしてきたここ何年かの気象変動も気になってくる。たとえば雨季に通常以上の雨が降り、サンガ川が異常に増水、浸水するはずのないボマサ村がほぼ全面的に浸水すること。逆に、乾季にはからからに乾ききり、サンガ川に尋常でないほどの広さに砂地が現れだしていること。

 これらはなにか地球規模の恐ろしいカタストロフの予兆なのかもしれない。惑星が何かに対して、怒りはじめたのかもしれない。自然のシナリオの崩壊を予言する自然自身への警告の序章として。人間が、生物界のものを単なる「経済資源」として大量搾取してきたつけが回ってきているのかもしれない。現実にそれは世界各地で起こりつつある。人間に対する惑星の怒りとして。

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