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【NPJ通信・連載記事】憲法9条と日本の安全を考える/井上 正信

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陸自派遣部隊南スーダン撤収決定の「怪」

2017年3月31日

1 安倍首相は3月10日、国家安全保障会議の議を経て、同日南スーダンから陸自部隊を5月末までに撤収すると発表しました。同時刻に森友学園理事長が大阪で記者会見を行っていた最中のことです。
  その撤収理由は、同日発表された「活動終了に関する基本的な考え方」によると、
 ・南スーダンの国作りは新たな段階に入りつつある
 ・南スーダン政府が3月中に国民対話を開始する旨発表
 ・自衛隊の活動に一定の区切りがついた
としています。同日官房長官は記者会見で、治安悪化は理由ではないと、あたかもPKO参加5原則が維持されている中での撤収判断であると説明しました。
稲田防衛大臣は、昨年9月ころから撤収を含む検討を始めていたと説明しました。

2 私はこれらの説明を聞いて、日報隠し問題と同様に、本当の理由を国民から隠そうとしていると考えました。今回の撤収表明にはあまりにも唐突で不自然さがつきまとっているからです。そこでイラク派遣陸自部隊の撤収の経過と当時の新聞報道を調べて、今回の撤収決定を検証してみました。

3 イラク派遣陸自の活動全体については、全面開示された陸上自衛隊幕僚監部が作成した
イラク復興支援活動行動史」に詳しく記述されています。
に詳しく記述されています。
 イラク陸自撤収決定は2006年6月20日です。部隊の第一波の撤収は7月11日で最後の部隊が撤収したのは7月16日という短期間です。撤収発表から1ヶ月にも満たない期間です。
 当時の新聞がイラクからの陸自撤収を報道するようになった時期は、案外早くて2005年11月からです。11月11日付朝日新聞がトップで「来年前半から撤収を開始、9月までに撤収完了を検討、小泉首相の意向」と報道しました。小泉首相はかねてから、自分が派遣を決定したのだから、自分の任期中に撤収させると述べていたそうです。小泉首相は2006年9月に退任します。
それ以降具体的な撤収開始時期、完了時期を含む新聞報道が2006年6月まで続きます。これらの報道は政府関係者からの情報を含むもので、その後の実際の撤収活動を重ねると、かなり正確な報道でした。
 南スーダンからの撤収報道は、3月10日安倍首相が発表するまで一度もありませんでした。これだけの重大な政府決定ですから、通常ならかなり前から準備を始めているはずで、それらの動きの中から情報がマスコミへ流れて報道になるはずです。
 イラクからの撤収に際しては、既に2006年2月には準備が始まっていました。撤収の準備要員が2月4日にサマーワへ派遣されています。4月10日には撤収部隊の先遣チーム18名が派遣され、4月10日から撤収発表の6月20日までには、サマーワの陸自宿営地からクゥエートへ、車両27両、コンテナ110個が輸送されています。撤収発表までには撤収作業はかなり進んでいたのです。ですから、撤収発表から1ヶ月に満たない期間に撤収が完了しました。

4 なぜこのように迅速に撤収しなければならなかったのでしょうか。「イラク行動史」が教訓として記述している中に、「国際貢献において、陸上自衛隊が復興支援を担うことには、撤収機会の喪失という危険性を伴う」「陸上自衛隊が保有する能力を駆使して行う復旧は、被災直後、停・終戦直後の応急復旧段階においてその効果を発揮する」「隊員の士気の低下防止が必要」との記述があります。一般的に軍隊が撤収するときが一番危険といわれています。士気の低下とその動きを察知した「敵」の動きがあるからです。

5 イラク派遣陸自部隊は、早くから撤収の機会を捜していました(出口戦略です)。2005年8月から派遣された第7次群から撤収に向けた備品の整理、宿営地のスリム化に取り組んでいます。実際に撤収判断で大きな契機となったのは、2006年6月19日イラク首相が、サマーワを含むムサンナ県の治安維持権限が7月より多国籍軍からイラク治安部隊へ委譲されると発表したことです。これにより、サマーワの治安を維持していた英・豪軍が撤収することになったのです。自衛隊部隊の安全を守ってくれていた英・豪軍がいなくなるため、6月20日の撤収決定になりました。
 撤収する陸自部隊の安全を確保するため、一つの仕掛けを作りました。3月からサマーワでODAを活用した大形発電施設建設作業が開始されたのです。陸自部隊は、サマーワ市民から感謝されながら撤収するという絵が描けるからです。

6 イラクの経験とは異なり、南スーダンでは内戦が日を追う毎に深刻になり、南スーダンの国家としての存立基盤すら危うくなっています。とても新たな国作りの段階などではありません。内戦が続いている以上国民対話も出来ません。私も数日おきにUNMISSのHPで最新の南スーダン情勢、UNMISSのニュース、安保理と国連の動きをフォローしていますので、南スーダンの内戦とそれに伴う破局的人道被害の実態や、国連、安保理、アフリカ連合など国際社会が繰り返し南スーダン政府、反政府勢力を非難し、停戦を呼びかけて2015年8月の停戦合意の履行を求めても全く功を奏していないことが分かっています。
 南スーダンPKOへ派遣された陸自部隊の出口戦略を立てられる状況ではないことは明らかでした。

7 防衛大臣は昨年9月ころから撤収を含む検討をしていたと発言しましたが、そのような形跡は現時点では窺えません。唯一それらしいと思われるものが、新任務を付与した新しい実施計画(2016年11月15日付)です。この中で、参加5原則が満たされている場合でも、安全を確保しつつ有意義な活動を実施することが困難と認められる場合には撤収するとしています。
 しかし、撤収決定の理由付けはこれとは異なります。安全を確保しつつ有意義な活動が出来ないのではなく、活動が一区切りついたと説明しているからです。新しい実施計画で撤収のことに言及した本当の理由は、新任務を付与したことに対する世論の反対、懸念が強いため、それへの言い訳です。

8 何よりも、撤収決定の発表から撤収まで2ヶ月以上期間があるという不自然さです。撤収発表をする前に、南スーダン政府、国連、UNMISS等との調整が不可欠です。政府は柴山内閣補佐官3月9、10日ジュバへ派遣して、キール大統領の理解を得たとして、撤収を発表しました。撤収発表に併せるようにしたドタバタの根回しです。
 2ヶ月以上の期間を置いたのは、それまでの間にイラクからの撤収の時のような予めの準備がほとんど出来ていなかったからと思われます。イラクからの陸自部隊の撤収では、撤収発表までに大方の準備は、密かにその2ヶ月以上前から進められていたのです。撤収の動きが表面化しないように、2006年2月4日に撤収部隊の基幹となる要員を派遣する際に、撤収準備ではなくイラク派遣第8次群の物品管理検査要員の名目で派遣しているのです。4月10日に派遣された撤収支援隊先遣チームは、第5次業務支援隊の交代要員の名目で派遣しているのです。
 南スーダンでも、撤収する際にはかなり前から隠密に準備行動をしなければ、短期間の撤収による部隊の安全を図ることは困難です。

9 結局撤収の政治判断が先にあったのです。ではその政治判断はどんなものであったのか。重要なきっかけは、破棄したと嘘をついて日報を隠して公表を妨害したことが明らかとなったでしょう。このことにより、ジュバでの戦闘の様子とその中での自衛隊の部隊の置かれた状況が国民の前に明らかになったのです。その結果、政府がこれまでジュバは安全だ、自衛隊員が戦闘に巻き込まれることはない、参加5原則は維持されている、戦闘は発生していないなどとごまかして安保法制で改正された新任務を付与したという「嘘」がばれてしまったからです。
 もう一つは、南スーダンPKOへの陸自派遣と、特に新任務の付与は、参加5原則に反し、憲法第9条にも反する武力行使になり得る活動であり、陸自の活動と憲法第9条との矛盾が極限まで拡大してしまったことです。その結果、派遣自衛隊員に不測の事態でも発生すれば、安倍内閣は崩壊することを恐れたからでしょう。それだけではなく、安保法制が違憲であることを国民が理解することを恐れたのでしょう。

10 今回の撤収決定についての政府の説明を文字通り受け止める向きは少ないでしょう。あまりにも不自然で唐突の決定だからです。撤収決定により、森友問題や日報隠し問題で大きく傷ついた安倍内閣の威信を取り戻す窮余の策=追い詰められた撤収判断であったと私は考えます。しかしこの政治判断は、窮地に陥った安倍内閣の威信を取り戻そうとする、極めて「自己中」的な決定であり、その反面で、ジュバの自衛隊員を2ヶ月以上にわたり危険な状況に置くことになるでしょう。安倍首相も稲田防衛大臣も、我が身の保身のために自衛隊員を危険にさらしているのです。

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