【NPJ通信・連載記事】一水四見・歴史曼荼羅/村石恵照
反・嫌中感情と北朝鮮ミサイルに翻弄された「小人島の豆人間」(1)
現在、日本は、反・嫌中感情と北朝鮮ミサイル問題に翻弄されつつも、大激動の世界覇権史においては “泰平の眠り” の中にある。
外部に中国と北朝鮮という仮想敵国が具体的に想定されたごとき
状況の中で、安倍政権は九条の改変を中心とした憲法改正の実行を鮮明に打ち出してきた。
しかし、単純に考えてみれば奇妙なことだ。
いったい中国はどの国にとって、どのような意味においての敵国なのか。
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すこし古いところから歴史をかいつまんで回顧してみたい。
1853年6月3日、アメリカ東インド艦隊司令官海軍代将ペリーが軍艦4隻を引き連れて浦賀に来航しアメリカの対日砲艦外交は始まり、日本の “泰平の眠り”は覚まされた。
その88年後1941年12月8日(米国時間7日)、アメリカは日本を真珠湾攻撃に引き入れて日米が開戦した。
1943年11月27日、「ローズベルト大統領、蒋介石総統及びチャーチル総理大臣」は「カイロ宣言」に署名し、
「日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還する」ことが決められ、
「日本国の無条件降伏をもたらすのに必要な重大で長期間の行動を続行する」声明を発した。
1945年3月10日、アメリカ軍は東京大空襲を行った。
同年4月30日、枢軸国ドイツのヒトラーは自殺、5月8日、連合国にソ連が加わってドイツ指導者は無条件降伏。
同年7月26日、ドイツ・ポツダムで「ポツダム宣言」公布(以下、当該「宣言」)。
「吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及グレート・ブリテン国総理大臣」が、
「日本国に対し、今次の戦争を終結するの機会を与ふることに意見を一致」、
「日本国に対し最終的打撃を加ふるの態勢整へたり。」
そして、
「ドイツ国の無益且無意義なる抵抗の結果は、日本国国民に対する先例を極めて明白に示すものなり。」
しかし、日本軍は、ドイツの先例に従わなかった。
「吾等の軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避且完全なる壊滅を意味すべく、
又同様必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし。」
ポツダム宣言は言葉どおり実行された。
白人ドイツと黄色人種日本にかかわる人種差別論云々があるが、 日本軍部の「無益且無意義なる抵抗」の結果、契約厳守のアングロサクソンの言語空間において「ポツダム宣言」の文言どおり、アメリカはドイツには投下し得なかった原爆を日本に投下。
1945年8月6日広島へ、8月9日長崎への原爆投下で「日本国本土の完全なる破壊」の意図は実践された。
同年8月15日、天皇は「玉音」の肉声をもって全国民に戦争終結の詔書を放送。
同年9月2日、東京湾上の軍艦ミズリー号で日本が降伏文書に調印。
アメリカ合衆国、イギリス、フランス、オランダ、中華民国、カナダ、ソビエト連邦、オーストラリア、ニュージーランドが日本の降伏を受け入れた。
同年9月11日、ヒトラーの例に遅ればせながら倣った東条英機は拳銃で自殺を試みたが未遂。
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東条英機についての評価は、様々である。
彼のどの年代のどのような状況に対しての評価なのか。
東条英機と面識がある人の意見だと言っても、東条の人物の一面に対する感想であれば、よいとも悪いとも言えない。
「一水四見」で、様々な人が、それぞれの知見と人生観で語っているから、人物評のいずれが正しいかわからない。
しかし、 当時の戦争史に素人の管見であるが 、東条の行動と意図について基本的な疑問は残る。
真珠湾攻撃当時の状況についての経緯にも疑問があるが、それは措いておく。
なぜ東条英機は玉音の前に大日本帝国の軍部の最高責任者として戦争終結をしなかったのか。
「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」の戦陣訓の著者だから死のうと考えたのか。
酷な言い方だが、それならアメリカ兵に自宅を取り囲まれている状況下で、なぜ不徹底なやり方の自殺を試みたのか。
自殺など試みずに、敗戦に至るまでの歴史を大局的に総括して、
基本的なことを日本国民に説明すべきではなかったのか。
大日本帝国による大東亜戦争/太平洋戦争の意図を改めて日本国民に説明し、
自衛戦争であったのかアジア開放の戦争であったのか、
アジア各地で犠牲になった無辜の民に哀悼の意を表してから、
敗戦の経過と責任を日本国民に簡潔に説明してから、
堂々と占領軍の法廷に立つべきではなかったのか。
因に敗戦の責任をとって自決した高級軍人(少将以上)は陸海空合わせて35名。痛ましい記録だが、その一部の方々をご冥福を念じつつ以下列記する。
阿南惟幾陸軍大将(最後の陸軍大臣)8月15日、日本刀で割腹自決。
大西瀧治郎・海軍中将(海軍特攻の父)8月16日、日本刀で腹を十文字に切って割腹自決。
寺本熊市陸軍中将(陸軍航空本部長)8月15日、日本刀で腹を十文字に切った後拳銃を口にくわえて発射し自決。
田中静壱陸軍大将(憲兵司令官、第21方面軍司令官兼東部軍管区司令などを歴任)8月24日拳銃自決。
本庄繁陸軍大将(枢密院顧問、関東軍司令官を歴任)11月20日、割腹自決。
杉山元陸軍元帥(陸軍大臣・参謀総長歴任)9月12日拳銃自決(胸に四発)。妻は夫の死亡を確認後、正装し仏壇の前で青酸カリを飲み短刀で胸を突いて自決。
親泊朝省・陸軍大佐(第三十八師団作戦主任参謀) 9月3日拳銃自決。夫人、長男、長女も殉死。
国定謙男・海軍少佐(軍令部参謀) 8月22日拳銃自決、満32歳。夫人と長男、長女も殉死。
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1853年6月3日、当時日本人の “泰平の眠り” を覚ました4隻の軍艦によるアメリカの砲艦外交の成果は、92年後の1945年に一応の達成をみた。
「玉音」がなければ、東条英機の「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」を強いられた日本人と「日本国本土の完全なる破壊」はさらに進行していただろう。
私は、巣鴨プリズンにおける東条英機の教誨師の花山信勝師にもお会いし、ご子息の一人とも時々合う機会があった。
仏教学者であり仏教僧侶の花山師だから、著作では死者に対して厳しい評価ができにくい。
本では書けない東条英機についての本音を花山師から詳しくお伺いしておくべきだったと悔やまれる。
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周知のことだが、 A級戦犯は1946年4月29日(昭和天皇の誕生日)に起訴された。
彼らの処刑日は1948年12月23日(今上天皇の誕生日)午前零時だった。
「入口の扉が開いた。将校が先導し、そのあとを花山とアメリカ人教戒師が並び、
土肥原、松井、東条、武藤、とつづいた。
そしてその後ろにさらに数人の将校がつづいた。
「南無阿弥陀仏」と花山が唱えると、四人は唱和した。
花山は空を見た。
星が無数に散っている夜で、それはいかにも彼らの葬送にふさわしく思えた。・・・
(保阪正康『東条英機と天皇の時代(下)』)
死は、様々な不条理と差別に生きる人類に与えられた極限的平等である。
だから私には、彼らの歴史的評価は措いて怨親平等の仏教の立場から、東条英機ら戦争にかかわったすべての死者たちを批判する資格はない。
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