【NPJ通信・連載記事】音楽・女性・ジェンダー ─クラシック音楽界は超男性世界!?/小林 緑
クラシック音楽界は超男性世界!? 第43回 クラシック音楽の問題点(12) 佐村河内守事件の裏側にあるもの 谷戸基岩
「クラシック音楽の問題点」 というテーマで記しているためか、この問題についての意見を何人かの方から求められた。 私の認識としては、この事件を構成するのは ① 佐村河内守という人物の 「詐欺行為」、 ② それをセンセーショナルに報道したがために引き起こされた 「偽りの感動」、 ③ それに見事に嵌ってしまったことへの人々の 「困惑と怒り」 の3つ要素ではないか。 「報道関係者、マスコミが作品それ自体ではなくそれにまつわる物語ばかりを強調して報道していたことが問題だ」、 あるいは 「作品それ自体には罪がない」 といったコメントには私も頷く。 けれどもここには本連載でも記してきたクラシック音楽業界の根源的な問題が示されているのではないか、私はそんな風に考える。 別な見方をするなら今回の事件はとても良い様々な教訓をクラシック音楽業界全体に遺したのではないか、とも思う。 そんな訳でこれまでの連載のまとめも兼ねて記してみたい。
(1) 作品の背景に惑わされずに聴くことの重要性と問題点
今回の事件では伝・佐村河内守作品にまつわる作曲者の身体的な困難、広島の被爆二世、 東日本大震災への鎮魂といったサイド・ストーリーに多くの聴衆が敏感に反応し、感動していたふしがある。 確かに今回は結果としてそれが負の方向に作用したけれども、あらゆる作品はそれが産み出された時代、社会、作曲家の個人的な背景などを負っているのだ。 それが人々の関心を引くものであるかどうかは別問題としても。むしろクラシック音楽、 わけても19世紀以前の音楽に関してそうしたことが語られなさ過ぎるように思えてならない。 とりわけ有名作曲家のイメージを傷つけるようなものは排除したがる傾向がある。 最近では海外で社会学的な見地からクラシック音楽を研究した本が次々と出版されているし、作曲家の生涯に関する詳細な研究書も出ている。 それらはこれまで私たちが一般的に頭に描いている西洋音楽史とは異なる価値観を提示し、様々な作曲家の人物像にも大きな変化をもたらす。 とりわけ重要なのは普仏戦争におけるプロイセン(ドイツ)の勝利。 各国における音楽の振興、西洋音楽史の構築、国家と音楽との係わり合いといった様々な部分でクラシック音楽業界は多大な影響を受けることになった。
私は作品が背負っている事情(どのようなきっかけや目的で書かれたか、誰に献呈されたか、初演は誰が行ったか、 作曲家の置かれていた当時の状況、同時代の作品評価はどうか…)、あるいはその時代の政治的・社会的な背景には常に関心を持つ必要があると考える。 しかしながら同時に、コンサート・ゴーアーとして私は初めての現代作品を聴くに当たって、事前に曲目解説は一切読まないことにしている。 聴いて面白いと思ったら、興味が涌いたら、初めて読むのだ。 何故なら純粋に音楽として面白いかどうか(つまり再び聴きたいと思うかどうか)が自分にとって最も大切なのだから。 聴いてみて興味があったらその作品の持つ背景に関心を持てばいいのだ。 成立状況や背景を知らなくても、自分の気に入る作品であるかどうかを最初に仕分けなくてはいけない。 ある作品にお涙頂戴の成立事情があっても、自分の気に入らない作品であれば無視して構わないのだ。 予備知識なしにCD店の店頭で、あるいはラジオなどで聴いて 「この曲は何だろうか?」 と思えるようなものこそ、聴き手にとって本当に大切な作品なのだ。 先入観なしに心に訴えかけて来るのだから…つまり聴き手の側の音楽に対する主体性が何よりも大切なのではないか。
もうひとつ私が現代作品の背景を排除して鑑賞する理由は、私たちは20世紀以降の作品に関してはそれ以前の時代とは逆に作曲者にまつわる政治的、 社会的、個人的な状況などを熱心に話題にするからだ。ショスタコーヴィチなどはその典型だ。 そして私が疑問に思うのは、旧ソ連における音楽の弾圧を問題にするのなら、 どうしてショスタコーヴィチよりも更に酷い目にあったロースラヴェツのようなロシア・アヴァンギャルドの作曲家たちに注目しないのか、という点。 彼らは革命直後において時代の寵児としてもてはやされたものの、前衛は弾圧する方向に路線変更したソ連政府当局によりそれまでの地位を追われた。 彼らの作品の演奏は禁止され、さらに楽譜は隠匿あるいは処分された。
我が国でも太平洋戦争期の日本で特高により活動を禁止され、 不当に拘束されたために健康を害し短命に終わった吉田隆子のような作曲家の事がどうしてもっと語られないのか? 佐村河内事件では不祥事を起こしたNHKだが、ETV特集で 「吉田隆子を知っていますか~戦争、音楽、女性~」 を制作した点だけは評価できる。 もっとも籾井NHK会長、経営委員に百田、長谷川の両委員が任命されるような安倍政権下ではなかったから制作できたのかもしれないが…
(2) クラシック音楽の全体史は実質的に1920年代で終わっている
伝・佐村河内守作品の数々を聴いていると、おおよそ1920年代頃の音楽シーンに戻ったような錯覚を覚える。 そのことが現代に生きている作品という意味での現代音楽ではあっても一般の人々に十分に理解され、 破格の17万枚という売り上げ(交響曲第1番 《ヒロシマ》)を記録する結果に繋がって行ったのだ。 思えば19世紀に産業発展したクラシック音楽業界は20世紀に入り、もはや一般受けするのが困難な前衛音楽の在り方を正当化することに腐心していた。 一方ではケテルビーに代表されるようなライト・ミュージックが 「大衆に理解され易い新しいクラシック音楽の在り方」 として模索された時代でもあった。 伝・佐村河内守作品からは伝統的なものを守りつつも前衛的なものにも視線を送るといった、その当時の作曲家たちに多く見られる傾向が感じられる。
クラシック音楽の歴史を考えるに当たり、「多様化した聴衆のニーズに応えて、 既存のありとあらゆる語法をもとに銘々が個人の歴史の範疇で音楽を創造して行く」 というポスト産業発展期の音楽の在り方を、 1920年代以降に当てはめて思考していくことは出来ないのだろうか? 映画音楽、吹奏楽、合唱曲、子供のためのピアノ曲といったジャンルにまで広げてこの時代を俯瞰するなら、 20世紀のクラシック音楽界は実質的に 「何でもあり」 の時代となっていることは明らかなのだから。 いわゆる現代の 「前衛音楽」 は 「激辛料理」 と同じだと考えればいいだろう。適度な辛さはいいし、たまに激辛が食べたくなることもある。 しかしそれが一般人のスタンダードには決してなりえない。 かつての 「フリー・ジャズ」 や 「プログレッシヴ・ロック」 と同様に、前衛作品はひとつの特殊ジャンルとして扱い、 「調性のある音楽」、「歌謡的性のあるメロディを持つ作品」 も素直に受け入れる時代にはならないのであろうか? そのことを素直に認めれば、1920年代以降の今日に至るクラシック音楽は実に豊かな歴史と作品を持っていることになる。 ジャン・フランセ、ジャン=ミシェル・ダマーズ、湯山昭、ルロイ・アンダーソンといった人々が20世紀の音楽史の中で正当に評価され、 もっと演奏されるようになるのだから。
(3) クラシック音楽の神格化、大衆化路線と一般教養化
多くの人達が伝・佐村河内作品に何の疑いも持たず感動したひとつの理由はそれがクラシック音楽だからだ。 情操教育に良いはずのクラシック音楽の世界で人を欺くような行為などある筈がないという楽観的な思い込みが世間一般の聴き手にあったのではないか。 しかしクラシック音楽の作曲家たちの生涯を辿って行くと、借金を踏み倒して夜逃げした者、妻を殺害した者、 積極的に戦争を賛美し戦意高揚の作品を書いた者…などなど、人間としてちょっとどうかという者は少なくない。 そもそもクラシック音楽は特に情操教育に良いものだなどと私は思わない。 この業界に身を置いてみれば判ることだが、社会一般と同様に尊敬に値しないけれども偉そうにしている人は沢山いる。 クラシック音楽に特別な愛情は無いけれど利権に目敏いだけの人もいる。 単に業界人であることが目的、あるいは特に関心は無いけれど天下り先の仕事としてクラシック音楽に関わっているような人も少なくない。
それと同時に 「クラシック音楽というのは情操教育にはとても良いものだけれども難しいもの、判りにくいものとして敬遠される傾向がある。 だからもっと一般の人々にも身近なものにしよう」 といった考え方が正論であるかのように業界では繰り返し主張されている。 そして誰にでも分かり易い単純化されたクラシック音楽の図式が喧伝されるのだ。 しかもそうした単純な図式を理解してクラシック音楽が判ったつもりになってしまい、平気でコメントを書いたりするような人が少なくない。 その結果ますますクラシック音楽は皮相で薄っぺらなものになってしまうのだ。
少なくとも私がこの業界に入りたての1970年代半ばにはまだクラシック音楽について何かを語る・記すということは決して安易な気持ちでは出来ないことだった。 それは生半可な知識や視聴経験に基づいた発言では、まともなファンから馬鹿にされるのがオチという畏れの感覚が業界全体にはまだあった。 その原因は良くも悪くもクラシック音楽はお金と手間のかかる 「究極の趣味」 のひとつだったからだ。 しかしながら最近ではこうした 「大衆化路線」 と 「一般教養化」 のお陰か、 クラシック音楽についての有名人のお手軽な発言や記事が様々なメディアで取り上げられている。
こうした業界の認識の変化はどうしても 「地道な努力を重ねて何かを育てる」 というよりも 「人気や評価の安定している有名なものを扱う」、 「ブームに便乗する」 という路線に関係者を導きがちだ。 業界の評価が高いもの、知名度の高いアーティスト・作品、今が旬のもの… そんな中で手っ取り早くマスな成功を収めるためにはテレビのニュース・ネタになるような話題が好まれる傾向がある。 伝・佐村河内守作品はこうした価値観の単純化の中では非常に売り易い商品となったのだ。
物事を単純化してファン層を広げたいと考えたがるクラシック音楽業界。何でもセンセーショナルに報道したがるNHKをはじめとするマスコミの体質。 そして何事においても余りにも 「マスコミによって教化され易い」 日本人の特質。 そうした現実を考えると、この事件はたまたまクラシック音楽の世界で起こっただけで、今や日本中に蔓延している病のほんの一部なのではないだろうか? 私は小泉政権以降ずっと、クラシック音楽業界は日本の政治や社会の未来を預言していると思っている。 では今回の佐村河内事件は何を預言しているのか? ひょっとしてそれは福島第一原発事故の収束宣言という国家の詐欺をあざ笑うかのように被爆による大規模な健康被害、 再臨界などの収拾不可能な事態がある日露顕するのではないか…そんな悪夢を私は頭に描いてしまうのだ。
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