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【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

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第85回「マスメディアが目指すのは“事実”よりも“新奇・好奇”なもの~アフリカ熱帯林におけるマスメディアとの体験より(2)」

2017年9月2日

※本稿は、“100万人のフィールドワーカーシリーズ第6巻『マスメディアとフィールドワーカー』椎野若菜・福井幸太郎編 古今書院”に掲載された記事『マスメディアが目指すのは「事実」よりも「新奇・好奇」なもの~アフリカ熱帯林におけるマスメディアとの体験より』より転載し、執筆者が一部加筆・修正したものです。

 

             写真329:撮影隊のカメラマン©西原智昭

▼フィールドの現場からみたメディアのもつ課題(続)

(3)メディアは編集時に事実をオブラートする
 仮に現地での撮影が、自然や野生生物に大きなインパクトも与えずに順調にいったとしても、それを編集して番組を作ることはまた別問題だ。たとえば、こうしたテレビ番組を通じて、日本の象牙利用はアフリカ中央部熱帯林に生息するマルミミゾウの生息数に影響を与えているかもしれない、というメッセージをぼくは伝えたいと思っていた。象牙の需要は、密猟というゾウへの違法行為を加速化するからだ。とりわけ日本には他の象牙利用国にはない、マルミミゾウの象牙(しかもそれを業界では「ハード材」と称し他の象牙素材と区別している)に特化した需要があるユニークな国であるからだ。インタビューも受けてきちんとぼくの表現で画面に流れる予定であった。しかし「西原君、日本ではまじめな放送は流しにくいんだよ。茶の間で見ている人たちはまじめな場面が出てくるとすぐにチャンネルをひねっちゃうんだ」と撮影隊のディレクターにいわれる。案の定、ぼくのインタビューは番組では全面的にカットされた。「ドキュメンタリーははやらない」「まじめな番組は見ない」とメディア側はいうが、視聴者からみたらほんとうにそうなのであろうか?

 編集時の問題点はさらに多岐にわたる。まったく異なる状況で撮影したのにそれをつなぎ合わせる、都合のよいように撮影した順序を入れ替える(たとえば、最終日の撮影したものをあたかも初日の映像であるかのように見せる)、まだ科学的にも答えがはっきりとしていない問いについても強引に回答を引っ張り出してこようとする、そうしたナレーションにおける説明の仕方に慎重さを欠く、番組に出てくる地元アフリカの人への配慮が足りない、などなど。挙げれば切りがない。番組製作者にとって重要なことは、その番組が大衆に受けるかどうかであるにすぎないように思えてしまう。その目的のためには、少々の不条理があっても突き進めてしまうのをぼくは目の当たりにしてきた。

 ある番組の編集時に携わったとき、ぼくは奇妙な現象に出会った。撮影中にはたいてい現地の人へのインタビューがある。現地語のわかるぼくには編集時にその翻訳を任せられた。しかし実際の番組になると、インタビューはある場面では現地語をそのまま流し日本語の内容はサブタイトルで見ることができるのに、中にはインタビューの音声に日本語をかぶせてしまう。よくよく分析してみると、前者ではインタビュー時の実際の言葉と日本語とが確かに一致しているのだが、後者の場合にはそうではないことがあった。視聴者にもともとの言葉を聞かせずに、編集上都合のよいように、そのインタビューの内容がすり替えられていたのである。無論、もとの音声が聞こえなければ視聴者はそれには気付かないであろう。しかし気付かないからといって、してよいことではない。事実を後回しするあるいは隠ぺいすることは、メディアの使命ではないはずだ。

 別の番組では「監修」の依頼が来た。ぼくがこちらアフリカで関わっている対象の一つであるマルミミゾウに関する番組だ。送られてきた映像をもとに、細かくコメントを入れた。しかし、実際に放映されたものは、そのコメントがほとんど生かされていなかっただけでなく、一部事実関係と異なる内容の番組なのに、ぼくの名が監修者として表示された。まったく遺憾であった。関係するプロデューサーに直接コンタクトを取ったが、謝罪する一方で、「この番組は再放送しないので容赦してくれ」とのことであった。何のための監修依頼だったのか理解に苦しむ。

(4)テレビで重要なのは視聴率のみなのか
 番組にとっては視聴率が最大の関心事であるようだ。だから、上記のような尋常とは思えない「番組の作り方」があると思われる。タレントを連れて世界の果てに行ったり、深刻な内容でなく面白おかしい内容に仕上げるのも当然であろう。そして視聴者を番組の最後まで見続けてもらうために、まじめなドキュメンタリーよりも、エンターテインメント的な番組が多数になるのである。最近はクイズ形式も多くなった。これも、番組の最後まで質問の答えを明かさずにおくことで、視聴者にチャンネルを変えさせない手法なのであろう。しかし、野生生物に関することでは、まだまだ科学的にもわからないことが多く、質問に対する答えも明確でないことは多々ある。そのとき、ある番組では、その答えがまだ仮説の段階であっても断定的に答えとして出してしまう弊害もある。また高い視聴率の獲得は、放映局内での昇進とも絡んでいるらしい。その場合、その番組を見る視聴者は二次的なものなのである。

(5)日本のメディアが欧米に学ぶべきこと
 テレビ撮影隊の欧米と日本との違いを見ると、さらに課題は浮き彫りになる。最大の違いは資金であろう。自然ものや野生生物を扱う欧米の多くのメディアは豊富な資金を持っているようである。それにより、事前調査も充実しているし、現地での撮影期間も長く、撮影機材・方法も多岐にわたる。それにより、自信を持って、大がかりなドキュメンタリー番組を制作する。日本のおおかたの撮影隊は、事前調査が不足している上に、現地での時間が短い。したがって、現地での強引な撮影も厭わないし、編集時に事実ではない内容が流れたりする傾向がある。

 資金の豊富さの違いは致し方ないにしても、撮影時あるいは編集時の態度は改善できるであろうと期待する。たとえ短い撮影期間でも、丁寧に事実を拾っていく姿勢は可能であろうし、そのときに撮影対象にできなかったものは情報を収集し、次回の撮影の企画に回すような意欲も必要であろう。実際、欧米のメディアは同じチームが繰り返し同じ現地を尋ねる。あるときは撮影対象を変え、あるときは同じ撮影対象の時間的変化を追う。ぼくは一度コンゴ共和国の現地に来たことのある日本の放送局に以前とは違うアングルで撮影できますよ、と何度か推奨してきたが、「そこは一度行ったことがあるから」というのがお決まりの回答で、二度同じ場所に来ることはない。あくまで、「初めての場所」あるいは「初めての対象」が日本のメディアにとっては最大の関心事らしい。

(6)ネット情報は信頼しかねる
 インターネットもメディアの一つではあるが、情報の由来が不明であることが多々ある。それゆえ、その情報の信ぴょう性を確信できないケースも少なくない。あるいは、ネット利用者の「勝手な」判断で、そうした情報を「組み合わせたり」「本来とは異なる文脈で使用したり」できるリスクがある。

 これまたぼくの経験であるが、偶然一時帰国の時に、「ガボン沖合でクジラとカバの撮影をしたいので、是非コーディネートをお願いしたい」という依頼が来た。ガボンの海岸部の国立公園管理にも5年以上携わってきた経験があり現地の事情を知る者として、その依頼を引き受けることも可能ではあった。ただ、そのとき放送局ですでに容認されたという企画書をみたときのショックは隠せなかった。

 ガボンの大西洋岸では確かに季節によってはザトウクジラが回遊する。また、それとは別の時期にはカバも海に入る。しかし、カバはクジラがいるような遠い沖合に出ることはなく、せいぜい海岸から数十メートル程度しか入らない。それなのに、この企画書では「あるネットの情報からとった」という写真を出し、「クジラとカバが同じ場所で一緒に泳いでいる」と強調してあったのだ。そんな事実は全くない。そしてどこから仕入れたかわからないような写真をじっくり見ると、クジラは確かに映っているが、その横には、別のクジラのヒレしか映っていない。カバの姿はどこにもないのに、写真の中で、クジラの尾ヒレを指して「これがカバ!」と矢印を入れているのであった。なんの根拠もないネット情報を番組企画者は引っ張り出し、その企画案がなんの確認ないまま会議で通ってしまうという問題の多い放送局のあり方が垣間見えた経験であった。もちろん、撮影のコーディネートは引き受けなかった。

▼それでもテレビは計り知れない影響を与え得る

 個人的な体験である。ぼくが少年の頃から、もっとも興味を抱いていたもののひとつは「宇宙」であった。テレビなどメディアから大きな影響を受けたことは確かだと思う。ぼくと同年代の方はお察しがつくであろうが、1970年代後半はいろいろな意味で、アポロの月面着陸以降の「人類の宇宙進出の未来」がクローズアップされた時代だ。テレビのドキュメンタリー番組では、宇宙と地球を往復できるという画期的な「スペースシャトル」時代の開闢を謳い、映画では「スター・ウォーズ」が始まり、テレビ・アニメでは宇宙を舞台にした「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」の隆盛期であった。

 天体望遠鏡を持っていたぼくは、そうしたテレビを中心としたメディアに刺激されるように、高校以降は友人と徹夜で月食を観察しに行ったりもした。それで、大学も「天文学」を専攻できるところを目指すようになった。ただ、純粋に天文学を勉強することに関心があったというよりは、この不可思議な人間、そしてまた人間の住む地球を、宇宙という外から眺め、あるいは遭遇するかもしれない宇宙人とコンタクトすることができれば、人類とは何か、人間の謎といったものに、「地球外側からの視点で」アプローチできるのではないかといったような、いまから思えばあまりにも単純で子供じみた考えを持っていたのだ。

 結局、浪人時代を経て、入学した大学では、天文学を勉強するより、浪人時代以来お世話になった予備校の講師から刺激される形で、人類の起源や進化、人類の本質を知るための「人類学」という分野に関心を持つに至り、書籍を読みながら、その学問分野に関心が移っていった。人類を理解するには宇宙に行かずとも、宇宙を認識する人類こそ、最も不可思議な人類をこそ研究すべきだと思うに至ったのだ。これが、「人類学」を専攻するようになった最初の出発点となる契機であった。思うに、世界に住むいろいろな民族や、地球上の野生生物を紹介したいくつかのテレビ番組から幼いころ強い印象を受けたのを覚えている。そうした「未知の世界」を知ることで、その生物や人間の多様性に驚きながら、その中で、いかに自分がちっぽけで、取るに足らぬ存在であることを思い知らされた。それも、最終的に「人類学」のフィールド・ワーカーを志した自分へとつながっていると思う。

 映像メディアがいま抱える課題は、そうした宇宙や自然、野生生物や民族を紹介するようなドキュメンタリー番組がほとんどなくなり、視聴者ではなくメディア側の好奇心が前面に出るようなエンターテインメントやクイズ形式に終始しているような傾向であろう。

▼日本のメディアに望むこと

 メディアは大衆の好みをフォローしているというが、大衆にはメディアの思惑とは別の嗜好もあると思う。むしろ、メディアが大衆を操作しているように伺える。メディアがいうように、ほんとうに日本の視聴者は純粋で淡々としたドキュメンタリーを望んではいないのであろうか。それとも多少事実とは異なっていても、面白おかしい筋のある番組の方が好まれるのであろうか。撮影・編集の現場を知っているだけに、よほどしっかりした監修者やアドバイザーが不在であれば、必ずしも事実に即していない内容の番組が多いのではないかと容易に想像できる。メディアは視聴率を優先しすぎるために、本来報道されるべき事実関係が揺らぎ、しかもその結果、テレビを見る大衆は操作されているという結果になる。そうした番組が毎日何本も制作されているという現実、そしてそれを視聴している一般の日本人、それがわれわれの日常であること。それを考えるといささか奇妙な感じに陥るのはぼくだけでないと信じたい。

 ぼく自身もこれまで多くの日本のメディアとアフリカ現地にて関わってきたが、昨今はいかなる取材要求に対しても慎重な対応を心掛けている。こちらが受け入れる条件は、ぼく自身の都合を十全に配慮することはいうまでもないが、真摯でこちらの意向や発信したいメッセージと合致するような内容である企画であること、そして番組作成までの編集時には最後までぼくにも関わらせていただくということだ。編集時に必要なアフリカからの渡航費用や日本での滞在費を用意していただくことももちろんである。そうした条件ではじめて、翻訳だけでなく、事実関係に基づいた番組の監修に責任を持つことができる。

 すでに述べたように、情報源の不明なネット情報のコピー・ペーストで企画書を作る、あるいは、事前調査不足でこれまでに通念や先入観のみで番組を作ろうとするメディアのあり方には、機会のあるごとに警告を発していきたい。また必要であれば、メディア業界に関わる方々に確固たる情報提供を惜しまない分、こちらから取材や編集に向けて十全な指南を供与できればと思う。報道は事実関係に基づいた適切なものであってほしいからである。そして、メディアが大衆を一方的に操作すべきでなく、メディアは大衆の求める物を適確に判断しながら情報を提供していくように心がけてほしい。

 アフリカは日本から遠い地であるゆえ、アフリカの野生生物の状況や先住民のあり方に関する様々な事実関係が、多くの日本人に知らされぬまま時が過ぎていく事態だけは免れたい。そのためにも、まずメディアは、是非とも、現場を知る「フィールド・ワーカー」に耳を傾けるべきである。

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