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【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

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ホタルの宿る森からのメッセージ ~ アフリカ熱帯林・存亡との戦い 
第14回「内戦の背後にある資源の呪い、しかし国立公園は死守」その1

2014年8月15日

マルミミゾウの事故の一年後の1997年、ぼくはコンゴ共和国で内戦に遭遇した。

▼内戦勃発

1997年6月のはじめ、たまたま首都ブラザビルに出ていたぼくは、買い物のためにWCSブラザビル事務所のコンゴ人スタッフの一人と町へ出かけた。町の中心部へ到着するころ、人々の群れに出会う。まだ昼前の時間帯である。みな町の中心部から出てくるのだ。銃撃戦があった、だからもう仕事を引き上げて家へ帰るのだという。案の定目的の店はすでにシャッターが下りていた。辛うじて開店していた近くのスーパーで日用品だけ買い、われわれもWCS事務所へと急ぐ。WCSのコンゴ人職員も帰宅へ向かう。

しばらくしても銃撃戦が沈静化したという情報はない。政府軍と反政府派との間で内戦が勃発したようだ。コンゴでは独立後サスー大統領支配の共産主義国家であった。1992年民主化へ向けた大統領選挙を前にして1993年に内戦、その後民主主義政党による政権が始めて成立した。そこへこの1997年再び大統領選挙が行なわれようとしていた。サスー派が選挙前にオワンドウという町で選挙運動を実施したかった。しかし地元民は反対した。サスー派が到着するともみ合いが起こり、地元民一人が銃殺される。やがて事を知った現大統領派はすでにブラザビルに戻ったこのサスー派をつかまえるよう命ずる。そこで、戦闘は始まったのだ。戦火は徐々に拡大、寝泊りしていたWCS事務所周辺でも、ときおり銃声が聞こえるようになって来た。鎮圧のため旧宗主国のフランスから軍隊も到着したと聞く。

砲火は続く。コンゴ人のWCS職員はもう出勤してこない。事務所に一緒にいたWCSのアメリカ人研究アシスタントはアメリカ大使館などに電話する。それによると、女性や子供を先に乗せる救援機が出るとのこと。救援機に搭乗するためにパスポートをコピーする必要がありコピー機のある近隣の建物へ行ったが、コピーした後パスポートをコピー機においてきたことに気付く。銃撃戦の起こっている路上をひとり歩くのは危険だが、WCSのアメリカ人エンジニアに付き添ってもらってパスポートを無事回収する。WCS事務局の夜警の一人に再会するが、状況はよくないという。外国人は決して外出するな、と警告を受ける。フランス兵はすでに二人死んだらしい。

隣国・コンゴ民主共和国の首都キンシャサにある日本大使館から電話を受ける。キンシャサへ脱出する便に乗れるかもしれないということだ。情勢は緊迫化してくる。WCS事務所は大統領府がそう遠くないため、反政府軍による砲火の音がしばしば聞こえる。タンク砲だ。ひっきりなしにとどろく。距離も近い。地響きに似た音だ。落ち着いて仕事などできる状況ではない。かといって外にも出るのも危険だ。ただ建物の中で過ごしかない。付近の住宅はもぬけのからで、少し無気味な感じだ。だれかが家のノブを二度回すが、気味悪く無視する。WCS事務所の夜警の一人は明日11時に停戦交渉が始まるという知らせをもってくる。しばらくのち、警察長がわれわれの事務所に訪れる。「ここは大丈夫だ」といい、つかの間の安心感を得る。

しかしながら、夜になると戦火は一層激しくなり、砲撃の炸裂音とともに、赤い閃光が窓越しに見えるようになった。部屋の中の移動もできるだけ腰を低くする。窓越しに流れ弾があたるかもしれないからだ。落ち着けぬ夜、おちおち眠れる状況ではない。トイレに行くにもふつうに立つことは回避する。西洋式トイレで、かがんだまま小用を足す。夜中に爆弾が着弾して、万が一家が崩壊することに備えて、テーブルや板、イスなどを適当に組み合わせて、簡易バリケードを作る。その下にからだをすりこませて、横になる。熟睡はできないが、辛うじてそれでからだを休ませる。

▼首都脱出

朝いちばんに起きる。今日は仏軍機で脱出する日だ。パッキングをしてはやり直す。政府軍の迎えの来る前に時間があったので、パソコンの中身をすべてフロッピーに移し、パソコン本体を置いていく決意をする。これで、一応最小限の資料は確保した。あまり多くの荷物はもてないということだったので、必要最小限の荷だけをデイパックに詰める。パソコンだけでなく、分量の多い未整理のノートや調査資料もトランクの中にしまい、鍵をかけたトランクは置いていくことにした。内戦はすぐ終わるというのが一般的な見方だったので、WCS事務所にものを置いていくことにそれほど不安はなかった。

午前11時くらいに、コンゴ兵が軍用車で迎えに来る。WCSスタッフのアメリカ人二人とぼくの合計3人が乗る。仏軍の臨時基地で名前を登録し、空港へ向かう。空港へはフランス軍護衛の車に乗ったのだが、方々で銃撃戦を展開していたので、直接狙われなくても流れ弾に当たる危険性は十分にあったと思う。もちろん車の窓は防弾ガラスでできていない。窓際に座っていたぼくはできるだけ頭を車内に沈ませた。

一般に、空港は戦時下の拠点となるとは聞いていたが、やはり戦火の中心であった。空港の外から反政府軍の砲弾が赤い砲弾が飛び交ってくる。威嚇のための炸裂弾。初めは心臓が破裂するくらいの爆音におびえるが、しかし不思議なもので、やがて慣れてくるものだ。仏軍兵は空港周囲の壁越しに砲撃し、反政府軍へ攻勢をかけるのが見える。その間、ポワント・ノワール(注:コンゴ第二の都市)行き、リーブルビル(注:隣国ガボンの首都)行き、キンシャサ行きなど、救援機は何機も到着するが、われわれの名前はなぜかすべて搭乗者リストからはずされていた。

時刻は進み、あたりは暗くなる。砲弾の軌跡は、流星か花火かのようにも見える。夜の空港。ライトなしでその日の外国人救出用最終便が到着したと聞く。仏軍兵員輸送機だ。ようやくこの暗闇の中脱出できる機会が来たのだ。空港の外からは反政府軍の銃撃がある。われわれは両サイドをフランス軍兵士に護衛されながら、歩伏前進の形で飛行機の場所へ向かう。全員の搭乗が終わるや否や、飛行機はまたもライトなしで急発進・離陸したのだ。19時16分、軍用機にて、約70人の避難者を乗せて、隣国ガボンの首都リーブルビルへ向かう。内戦が始まり4日目のことだった。

“ブラザビルでの戦闘は6月5日に始まり、収まる気配もなかったため、6月9日仏軍機にてガボンに脱出しました。戦闘は7月の大統領選を前にした前哨戦のようなもので、現大統領派と旧共産主義派との対立であり、とくに街中心部からダウンタウンにかけてはひどい状況です。私のいたWCS事務所あたりも大統領府からそう遠くないため、日夜銃撃戦の音が聞こえ、タンク砲などが飛び交っていました。これまでの5~6,000人の死者は出た模様。仏軍が動員されたものの、今のところどうなるかはわかりません。すべての国際通信は遮断されており、通常の国際便も飛んでおりません。今後のことについては、共に脱出したWCSスタッフとともに様子を見た上で、ブラザビルを経由せずにボマサ(*)に戻る手立てを考えたいと思っております。ご心配なく。申し訳ありませんが両親および黒田さん、山極さん(**)にも近況をお伝えください(1997年6月11日;脱出先のリーブルビルから当時の正式の所属先であった京都大学の研究室へあてたファックス)”。

*ぼくが通常ベースにしていたコンゴ共和国北東部ヌアバレ・ンドキ国立公園近くの村。

**黒田末寿氏、山極寿一氏とも西原の指導教官であった。

しかし、この時点でも、内戦がさらに拡大していくことは予想だにしていなかった。ボマサにすぐ戻ることだけを考えていた。西原の下で研修を始めたコンゴ人若手研究者がヌアバレ・ンドキ国立公園内に取り残されていることが気がかりであったからだ。 (続く)

筆者の下で研修中のコンゴ人若手研究者。内戦が勃発したとき、このうち二人はヌアバレ・ンドキ国立公園の森の中に残されたままであった©西原智昭

筆者の下で研修中のコンゴ人若手研究者。内戦が勃発したとき、このうち二人はヌアバレ・ンドキ国立公園の森の中に残されたままであった©西原智昭

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