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【NPJ通信・連載記事】音楽・女性・ジェンダー ─クラシック音楽界は超男性世界!?/小林 緑

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第41回 クラシック音楽の問題点(11)
有名名曲は資産? アルカンのコンサートを準備しながら
谷戸基岩

2014年5月6日

いま19世紀フランスの作曲家シャルル・ヴァランタン・アルカン(1813-1888)の生誕200年を記念するコンサート・シリーズの準備を進めている最終段階だ。 公演が迫りようやくコンサートのプログラムが刷り上って来た。20世紀におけるアルカンの復興運動の歴史、アルカンに関連した40年に及ぶ個人的な回想、 曲目解説、私が実際に手にしたLP、CDのディスコグラフィなども載せるうちに、A4版20ページにも及ぶ冊子になってしまった。 選曲面も含め私個人の持っているこの作曲家への愛情を思い切り込めた企画と自負している。 とはいえ個人の知識には限界があり至らぬ点も多々あるかとは思うが…。

私は40年ほど前に 「風」 という曲を聴いて衝撃を受けて 「アルカン」 という名を覚え、35年ほど前に 「波打ち際の狂女の歌」、「戦場の太鼓」、 「イソップの饗宴」 などを含むロナルド・スミスのLPを入手し、すっかり虜になってしまった。 しかし、それからアルカンのレコードを蒐集して行くうちに、私はひとつのジレンマを感じ始めた。 アルカンの作品の中でもピアニストに超絶技巧と同時に持久力を要求するような長大な作品――「大ソナタ」、「協奏曲」、「3つの大練習曲」 などに私はどうも食指が動かないのだ。むしろ短くもそこに過激な表現が凝縮されている作品に心惹かれる。 今回の3公演のうち 「ピアノ・リサイタル」 では、そうした私好みの表現性に富んだ作品ばかりを集中的に選んだ。 それが 「性格的小品の王者」 という副題を付けた所以である。 若手ピアニストたちのメカニックの向上を背景に、「究極の難曲を克服したという達成感」 を披瀝する場としてのアルカン演奏には、 背を向けるという意思表示とも言えるかもしれないが…とはいえ今回取り上げるような作品群でも尋常ではない難技巧を必要とするものも少なからずあるのだ。

個人的にはロマン派のピアノ曲で最も重要なのは 「性格的小品」 だと考えている。 「ソナタ」 とか 「変奏曲」 を中心に構築性の高い作品ではなく、「山椒は小粒でもぴりりと辛い」 を地で行くような短編にあると思う。 19世紀のピアニスト・作曲家たちは、そうした曲でお互いのアイディアやイマジネーションを競い合ったからこそ、 ロマン派のピアノ音楽はそれまでの時代以上に魅力的たりえたのではないだろうか?  今回48+1の小曲から成る 「エスキス集」 を、24曲と24+1曲に分けて 「ピアノ・コンサート」 の最初と最後に配置したのも、 この曲集にこそアルカンの魅力がコンパクトに凝縮されていると考えたからだ。 第1曲 「幻影」、第7曲 「戦慄」、第10曲 「叱責」、第11曲 「ため息」、第21曲 「死に往く者たちが汝に挨拶せん」、 第34曲 「私は下劣なる俗衆を憎む、而して之を遠ざく:口を慎め」、第45曲 「小悪魔たち」、第46曲 「初めてのラヴレター」 などなど、 タイトルからして興味をそそる曲が目白押しだ。実際に多種多様な音世界がここには展開しており、言うなればピアノ語法の百科全書である。

それにしてもアルカンはこんなにも個性的で魅力的な作曲家なのに、なぜ忘却の淵に沈んでしまったのか、 その理由を説明しなくてはという思いからコンサートを準備する間中ずっと考えていた。 ひとつの原因は、普仏戦争での敗戦を期にフランスで器楽作品の振興を目的として国民音楽協会が設立されたことにあるのではないか。 国策として音楽を振興していたドイツ(プロイセン)に負けないように、優れた器楽作品の創造をサポートすることを目的とした運動だ。 やがて第一次世界大戦での勝利によってその活動が評価されるようになった。 そして国民音楽協会の活動の中で育った作曲家たち、フォーレ、ドビュッシー、 ラヴェルらがドイツ・オーストリアを中心とした18世紀から19世紀半ばまでの大作曲家たちの時代に続く、世代の大作曲家たちに列せられるようになっていく。 そうした国民音楽協会の成功が強調して語られる中で、歴史の単純化が推し進められた。 すなわち普仏戦争以前のフランスにはまともな器楽作品が無かったかのような、誤解や偏見を招く結果となってしまったのである。 それはちょうどスペイン近代の音楽を語るときに、アルベニスやグラナドスの重要性を強調するあまり、 それ以前には評価に値するような作曲家がいなかったかのように喧伝されているのと同じような構造だ。 こうして18世紀末から19世紀半ばあたりまでに活躍したフランスの作曲家たち、メユール、ボイエルデュー、ジャダン兄弟、ボエリ、オンスロウ、ファランク、 ダヴィッド、ルフェビュール=ヴェリ、ヴィアルドそしてアルカンらの創作は、その多くが真面目に吟味されることもなく忘れ去られて行ってしまったのだ。 しかしながら幸いなことに、近年こうした作曲家たちに光が当たるようになって来た。 他社とは違った録音活動を志向する海外のマイナーレーベルが、こうした作曲家たちを積極的に取り上げるようになったからだ。

音楽史を見るときには、「○○以前には○○は無かった」 式の説明を見たら、必ず眉に唾して接した方が安全だ。 クラシック音楽においてはある種の新興宗教のように、崇拝の対象に対する信仰のあまりその他のものを否定してかかるという傾向がとても顕著だからだ。 先述のアルベニス、グラナドス以前のスペインと同様に、グリンカ以前のロシア、グリーグ以前のノルウェー、 エルガー以前のイギリスに関しても同じことが言える。 本来、私たちはしっかりと歴史におけるマッピング作業をし、実際に様々な作曲家たちの作品に接した上で、歴史を構築して行かねばいけないはずだ。 けれどもこうした単純化は、マスメディアが過剰に発達し、クラシック音楽に関する報道がその質を十分に問われることなく広まって行く中で、 大きな疑問を持たれることなく成されて行く。それはひとつの 「宗教」 の布教のような性格であろうか。 高尚な、情操教育に有益な、セレブな…そうしたイメージを形成するには、「価値観」 のコンセンサスが取れていなくてはいけない。 ポピュラー音楽のように価値観が多様であってはいけないのだ。

もうひとつ、今回色々と考えているうちに思い当たったのが、「クラシック音楽業界において 『有名名曲』 とは 『資産』 なのではないか?」 という事実。 つまり音楽家はある作品を演奏するためのノウハウを獲得するのに大変な労力と手間をかける。 そうして獲得したものは彼・彼女にとってひとつの 『資産』 なのだ。そうしたノウハウを弟子に教える教師にとってもそれは生活の糧であり、 大切な 『資産』 なのだ。さらに言えば楽譜や研究書を刊行する出版社にとっても、そうした有名名曲にまつわるものは需要があるから出版しやすい。 音楽評論家や業界人にとっても、有名名曲について豊富な知識を持っている方がそれらを活用する機会が多く、自分の商売にとって有益となる。 つまりクラシック音楽業界においては有名名曲に関して知識を増やすことが、それぞれの立場の人間にとって 『資産』 になる可能性を持っているのだ。

例えばアルカンの作品が 「有名名曲」 になるためには、その曲に関わりを持つことによって生じる 「資産価値」 を業界が認知する必要がある。 けれどもその保証も無いものに、時間と手間をかけて積極的に取り組むのは特別な愛情が無い限りはまず無理だ。 それにアルカンを資産として自分のものにするためには、音楽家たちはこの未知の作曲家の未知の作品を一から勉強しなければいけないし、 音楽教師も、音楽評論家も、業界人も同様だ。そんな面倒なこと、手間のかかることは誰も欲しないし、 むしろ変に業界の価値観に異変が起こったりすると、すでに持っている 『資産』 の価値を目減りさせる危険性もあるのだから、 新しいトレンドは無視したほうが得策と考えるのが業界としては当然なのだろう。

しかしその一方で、ピアソラ・ブームがそうであったように、 誰かが新しいレパートリーで大成功を収めるとそれを利用して真似するという、「後追いの価値観形成」 がクラシック音楽業界を支配している。 けれどもこの場合も、特別枠でピアソラという存在を認めても、 他の 「有名名曲」 の資産価値には影響を与えないという点で業界としては受け入れ易いのだろう。 ショパンやリストと同時代にパリで活躍した作曲家アルカンに 「資産価値」 を認めるのとは明らかに意味が違うのだ。

楽譜をもとに演奏することによって音楽が形成される。そうしたクラシック音楽の基本構造は急激な価値観の変化を望まないし、 決してそれを積極的に推し進めようとはしないだろう。音楽史の書き換え作業、再構築は教育、出版、興行、 マスコミなどクラシック音楽業界のあらゆる人々の 「資産」 に影響を与えるのだから。 それだけに今回のコンサートに取り組んで下さっている9人の音楽家たちの、勇気と尋常ならざる努力には心から感謝したい。

この連載で何度も記しているが、私は価値観のコンセンサスを取りたがる 「一般教養」 としてのクラシック音楽にはほとんど興味が無い。 ポピュラー音楽に対するのと同様に個人の自由な 「趣味」 としてクラシック音楽を聴いている。 どんな大先生が絶賛しようが貶そうが、それはその人の勝手と思っている。あくまでも自分の聴きたいもの、探求したいものを追求して行くだけだ。 今回のコンサートも正に 「個人の趣味」 から生まれた生誕200年記念のお祭りなのだ。
本当に間際の告知で恐縮だが、ぜひご注目いただきたい。〔2013年11月26日〕

 

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