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【NPJ通信・連載記事】音楽・女性・ジェンダー ─クラシック音楽界は超男性世界!?/小林 緑

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音楽・女性・ジェンダー ─ クラシック音楽界は超男性世界!?
第47回 敗戦69年目の8月に思い返す家族の戦時体験

2014年8月27日

はじめに

8月15日という日を迎えるのに、今年ほどさまざまに思い煩うのも、72歳にして初めてだ。けれどこれは今、この国に住まう老若男女、だれもが濃淡の違いこそあれ、共有している感覚ではなかろうか。

そこに8・9長崎平和祈念式典における被爆者代表の『平和への誓い』。思わずテレビに向かって涙とともに拍手してしまった。直後に登壇、コピペの空疎な駄弁を弄した安倍首相が、8・15敗戦当日にも、戦没者慰霊として、「不戦」を語らず、「平和」を強調したという。安倍のいう「平和」が「積極的平和主義」なるまやかしであるのは、知れ渡ったこと…加えて侵略戦争への反省とアジアの国々へのお詫びもない。中国侵略も、朝鮮植民地支配も、なかったことにしたいのか?秘密保護法施行の前触れか?最高権力者を僭称する人間の驕り高ぶりに、怒りで頭もくらくらしてしまう。

安倍反対集会で長崎の『平和の誓い』全文を聴く!

鬱積したストレスを少しでも解消したく、思い切って8月17日には日比谷公会堂での集会『改憲・戦争・原発・首切りの安倍をともに倒そう!』に出かけた。ほぼ満席の会堂を埋めたのは、おそらく労働組合、教員組合系の方々であったろうが、いずれとも縁のない私は全くのひとりぼっち…だが参加して本当によかった!

あの長崎で『平和の誓い』を読まれたご本人、城臺美彌子さんが登壇され、事前の打ち合わせで削除を余儀なくされた『誓い』のオリジナルの部分を補ってお話しされたからだ。

テレビで全国に届いたあの胸のすく一節「集団的自衛権の行使容認は、憲法を踏みにじる暴挙です」も、眼前にアベをはじめとする政治家の顔を見て、咄嗟にアドリブで加えたとのこと。

割愛された部分もこの上ない説得力に満ちている。いわく「武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると、戦争が戦争を呼びます。歴史が証明しているではありませんか」、「福島には…未だに故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや避難を余儀なくされている方が大勢おられます…このような中で、原発再稼働、原発輸出をおこなっていいのでしょうか…早急に廃炉を検討してください」等々。最後を「長崎市民のみなさん、いいえ、世界中のみなさん」と呼びかけ、「被爆の実相を語り継ぎ、日本の真の平和を求めてともに歩きましょう」と結ばれたのは、最高にかっこうよかった!!

荻野富士夫さんと小樽商科大学と父

当日のもう一つの収穫は、荻野富士夫さんの『蟹工船』と小林多喜二に関する講演を聞けたこと。本連載で何度もご紹介した女性作曲家、吉田隆子をめぐるNHKのETV特集(2012年9月放映)にて、背景となる治安維持法や特高警察などの実態について解説されていたのがこの荻野さんだった。吉田隆子の生涯についてまったく表面的な事柄しか把握しておらず、こうした分野の研究者が存在することすら知らなかった私としては、その荻野さんのお話しぶりにライヴで接し、隆子がさらに身近に感じられるようになったのに加え、彼女が「小林多喜二追悼の歌」(1933)を作曲したことの意味も、一層よく認識できた。

しかも荻野さんが教えていらっしゃる小樽商科大学は、実は私の父の出身校だ。関西生まれの関西育ちである父が、なぜ小樽商大に…?子供心にも不思議だったが、何しろ父と私たち5人の子供との関係は、おそらく今の親子間ではとても考えられないようなよそよそしさ、父の個人史も家庭環境もほとんど何も知らされぬまま、今日に至ってしまった。

1971年に69歳で亡くなったが、1902年生まれだから、父も当然あの戦争に出征していたはずだけれど、体調不良とかで徴兵をまぬかれたらしい。祖父、つまり父の父が朝鮮総督府の役人であったことのほかは、父にまつわる情報は持ち合わせない。

戦時中はその父がひとり東京に居残り、長女は集団疎開、母は4人の子供とともに関西の親戚先を転々としつつ疎開生活に耐えたようだ。福島の集団疎開に送られた長姉を数年前、自治体が主催する「集団疎開の回顧展」に誘ったところ、「絶対いや!」とすさまじい拒絶反応。彼女は子供たちのなかでただ一人、戦争の悲惨さを実体験していたためらしい…

一方1942年生まれ、末っ子の私もまちがいなく「戦中派」ながら、戦争にまつわる悲惨な記憶は全くない。ただ、敗戦後疎開を引き上げ東京に戻ったところ、父の頭髪が真っ白に変わっていたこと、その父が社宅の庭に一人で掘った大きな防空壕があったこと、押入れの隅には避難用の鉄兜や防空頭巾があったことなどもうろ覚えに思い出される。

クラシック音楽狂だった父

証券会社勤めが嫌でたまらなかった父は、実は“狂”の字がつくほどのクラシック好きで、若いころからレコードを買い集め、自宅でその鑑賞会など開いていたらしい。専門教育とは無縁のどこまでも素人だ。それなのに結婚後妻子を抱えながらも、声楽やクラリネットやヴァイオリンにまで手を出し、無謀にも音楽への転身を夢想していたトンデモ親父だったが、子供5人に有無を言わせず音楽の練習を強いたおかげをもって、私もその道で何とか自立することができた。

ちなみにたった一枚手元に残っている7人家族全員の写真には、アプライトのピアノと譜面台まで組み合わせてある。ところが専門の写真家に依頼したとしか思えない撮影の日にちを改めて見直して驚いた。なんと1949年1月なのだ…つまり敗戦後わずか3年半である。

こんな些事をわざわざ書き添えるのは、あの福島原発事故も今や発生後3年半、にもかかわらず復興など程遠く、まずます過酷な汚染状況が進行しているからだ。人災にほかならぬあの事故は、第二の敗戦と称されることもしばしばだが、現実は戦災をしのぐ地獄というべきだろう。それに引き換え放射能禍がなかった分、敗戦後同じ3年半で一介のサラリーマンでさえ家族写真をプロの写真家に頼むまでに生活再建も出来たのだ…このことをどうしても強調したいのである。

それにつけても思うままにならない時には、容赦なく鉄拳をふるった父に対しては恐怖心しか持てなかったけれど、今では感謝あるのみ。極め付けは4人の娘全員を呼びつけて ― たぶん私が中学卒業のころだった ― 「男に食わせてもらうために教育したんやない!絶対に結婚なんかするな」と、どやしつけた父を思い出すたび、真っ先にこのことが浮かんでくる。ひどく跳躍するが、父のこの一件を思うにつけ、世界中の女子が等しく教育を受けられるよう、改めて祈らずにいられない。

98歳の母が呟く戦中・戦後

とはいえ、母の側よりすれば、頑固一徹、DVもどきの父と添い遂げる苦労は並大抵ではなかった。父より14歳年下の母もしかし、音楽の趣味と教育の意義だけは共有できたものらしく、子供5人にも分け隔てなく接してくれたと思う。しかしそれはひとまず措いて、ここではもっぱら、為政者が戦争への道を突き進もうと画策、加えて戦時体験者が希少になりつつあるこの国の現状に鑑みて、母の口から洩れ伝わる戦後の窮乏生活の一端を書き留めておこうと思う。

この3年来、ケアハウス暮らしの母は98歳。父と同じく関西生まれ、高等教育とは無縁の育ち、会社勤めも経験したらしいが、19歳で父と結婚後の8年間に5児を生んだというエネルギーの持ち主だ。男の子は一人だけ、その兄も一応ピアニストの仲間入りをしていたが、30年ほど前に46歳で亡くなった。残る娘4人はみな後期高齢者に類するが、何とか老老介護をこなしている。当の母もいまだ裸眼で大きな文字は読めるし髪もふさふさ、食欲にムラはあるものの点滴ではなく口から直接食べられているのも有難い。

週一ペースで娘4人、順次見舞っているが、認知症の一種らしく、時系列が全く乱れたまま、ぼつぼつ話す。ほとんど耳が聞こえないわが身を呪い、スタッフへの不満など悪口雑言を吐くが、しばしば繰り返すのが「だからマッカーサーに馬鹿にされるんや」。見舞った私が帰宅しようとする際には涙も浮かべて「心配や…大丈夫?兵隊が隠れとるから…気いつけてね」。具体的にはこうした言葉がどんな場面に当てはまるのか、確かめられないが、何やら恐ろしい経験のトラウマがあるのではなかろうか。

だがもはや戦後とはいえぬほど年を経てからも、戦後の厳しい暮らしのさまは、折に触れ聞かされた。関西での疎開を切り上げ子供4人とともに窓からやっとの思いで乗り込んだ引揚げ列車の中、埋め尽くした復員兵たちのし尿と汗による?すさまじい悪臭…その彼らに向かって「このたびはおつとめご苦労さまでございました。子供4人連れですが、どうぞよろしくお願いいたします」と機先を制して挨拶すると、その甲斐あってか、兵隊たちがポケットから飴を出して子供たちに分けてくれたり、トイレにも頭上の手渡しで運んでくれたりしたとか…

東京に戻るや食糧確保の難題が待ち受けていた。天沼の社宅から田無の農家まで歩いて日参。お金もなく、大抵は着物などと物々交換だったらしい。ある時には、畑にたわわになったナスが目につき、空腹のあまり思わずひとつにかぶりついたところ、そのなんと甘くておいしかったこと!自分でも見様見真似、社宅の庭でかぼちゃを毎年50個ばかり収穫。ガスや水道はなく、ごはんを炊くにもまず薪割りと井戸汲みから。配給の日には子供5人も割れ茶碗をもって配給所までついていき、こぼれた米粒を拾う。実はこれが私自身の一番鮮明な戦争にからむ記憶なのだが、それが半分は遊び感覚、おなかが空いて辛かったという実感もない。そのころの食卓には乏しい主食におかずといってもトマトやかぼちゃや大根、せいぜいが大豆と昆布の煮物など…だがいずれもおそらく農薬など無縁な食材ばかり、以前本稿第40回で触れた「伝統食の復権」の教えがしっかり生かされている食生活だ。現在の高齢者の元気の素はここにあり…と確信する。

お手本にしたい母の反権力

しかし日常の苦労話よりも驚かされるのは、母が「軍国少女」どころか「皇室なんか要らん!宮城遥拝なんて阿呆らし、いっつもそっぽ向いてやった」と誇らしげに語っていたこと。子供さえいなければ、さっさと離婚して政治家になりたかった…とも。ケアハウスでもテレビに向かって「下らん!嘘ばっかり言うて」とつぶやく。この反骨精神はいったいどこから?…弟妹にも皆先立たれてしまった母、このあたりを探るすべがないのはいかにも残念だ。それだけになお、母のこの生きざまを反面教師に、城臺美彌子さんが体現された真実の人間力を秘めた女性を掬い上げる仕事に、最後までかかわっていかねば、と自らに言い聞かせている次第である。

ご報告が遅れたが、去る6月21日、流山市男女共同参画の主催によるコンサート『ヴァイオリンとハープとピアノの競演』は無事終了。満席のお客様を前に期待通り、実力派女性3人が見事な演奏で6人の女性作曲家を紹介してくれた。主催者曰く、「これ以上に男女共同参画にふさわしいイヴェントはなかった」!準備不測の拙いトークを悔やんでいた私には大きな力と慰めになった。

ついでながら私の自主企画による次のコンサートは、2015年1月9日(金)夜、津田ホールにて開催予定。次回の本稿で詳細をお伝えできると思いますので、今からお心に留め置きいただけますよう、よろしくお願いいたします。

 

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