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【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

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ホタルの宿る森からのメッセージ ~ アフリカ熱帯林・存亡との戦い 
第15回「内戦の背後にある資源の呪い、しかし国立公園は死守」その2

2014年8月29日

内戦から隣国に脱出したものの、ぼくの最大の憂慮すべき事は森の中に残してきた二人のコンゴ人若手研究者のことであった。

▼ボマサへの思い

一人はジョマンボであった。責任感の強い彼らは森におり調査を続けているに違いない。特にジョマンボはすでに3年以上研究の研修を継続していたし、1996年にはイギリスでの国際会議に出席し自己の研究内容を英語で口頭発表するほどに成長していた有望株であったのだ。しかし、彼らもきっと森の中でラジオ等により内戦のことを知り、首都にいる家族の安否を気遣い、あるいは一刻も早く首都へ戻りたいと思っているかもしれないという彼らの心境が気になっていたのである。直接彼らと連絡をとる手段はない。ぼくの避難先であるガボン共和国首都リーブルビルの無線機とコンゴ共和国ヌアバレ・ンドキ国立公園基地ボマサの無線機でメッセージを間接的に送りまた受け取るだけである。

森で野生生物の調査研修中の若手コンゴ人ジョマンボと筆者 ©西原智昭

森で野生生物の調査研修中の若手コンゴ人ジョマンボと筆者 ©西原智昭

内戦は深刻化し、「ブラザビルは廃墟の町。WCSプロジェクト閉鎖の可能性もあり」と聞く。しかし何としてもボマサへ戻らなくてはいけない。ぼくがそのために画策していたのは、民間機でリーブルビルから隣国カメルーンへ飛び、そこから伐採会社の小型機にてボマサ近くの伐採会社の基地まで飛ぶことであった。可能性は二つあった。コンゴ共和国北東部の伐採会社の基地か、カメルーン東南部にある別の伐採会社の基地かである。いずれにせよ、そこまでたどり着けば、あとはボートでボマサ村に戻れるのだ。しかし伐採会社の小型機に乗れない事態も想定して、カメルーンを陸路にて東南部へ向かう手はずも探ることにした。

ガボンに避難して以来、何かにつけぼくは日本大使館にお世話になった。大使館の人々は、ぼくのコンゴ共和国北東部に戻るという主張に対して、口をそろえて「日本に帰国するべきだ」という。コンゴ人の若手研究者を放置するわけにはいかない、内戦で危険な地域を回避しながら、内戦の拡大していない安全な現地へ戻るのだと説明しても受け付けられない。「そこまでいうのなら、自己責任で行くということにしてください」、つまり「勝手にしろ」というのが大使館の結論であった。邦人の保護のためには当然のことであろうが、上記の通りカメルーンに渡りそこからコンゴ共和国北部にアクセスする邦人の責任は一切取らないというのだ。しかし、どうでもいいことだ。ぼくの気持は不動であった。

民間機でカメルーンの商都ドゥアラに到着。内戦が始まってからすでに20日が経つ。目的の伐採会社を訪ねるが、ほとんど門前払いを食らう。雨季でトラックによる輸送が大変だから、物資を小型機で運ばなければならない。したがって飛行機には人を載せるスペースがないという。そこで、WCSカメルーンの事務所のある首都ヤウンデへバスで移動。車のチャーター等も考えたが、費用がかさむのとWCSカメルーンのスタッフの勧めで、ヤウンデから公共バスを乗り継いでカメルーン東南部の伐採会社の基地リボンゴまで行くことになった。うまくいって3~4日の旅である。リボンゴにさえ着けば、ボマサは近い。その脇を流れるサンガ川を船外機付きボートで下れば数時間の距離である。しかし、バスでの旅には不安はあった。リンガラ語の通じない世界。フランス語のみだ。

当時はメールや携帯電話、衛星電話などなく通信は容易でなかった。ヤウンデを出発する前、ほぼ唯一の通信手段である無線を駆使してボマサへメッセージを送る。いうまでもなくンドキの森にいる二人のコンゴ人たちへのメッセージだ。そしてそのメッセンジャーをジョマンボなどのいる森に派遣するのである。「ぼくはあと一週間以内にボマサに到着するだろう。ぼくをボマサで待っていてもよいし、町へ出ても構わない。ボマサから出発するときはWCSから150,000フランCFAを各人借りるように。そのお金はぼくがあとでWCSに支払う旨を伝えてあるから心配しないように。必要ならテントとシュラフを持っていっても構わない」、そういった内容であった。

はじめての土地での一人旅がはじまる。陸路による長距離移動。話には聞いていたが、カメルーンの公共バスは故障が多い。そのたびに立ち往生。荷物と人を詰めるだけ積み込む。大雨の中でさえ、猛然とスピードを出して走る。事故が起こらないのが不思議なくらいである。また道路上にはいくつもの検問所があり、警察官などは外国人であるぼくには根拠のない言いがかりをつけてくる。辿り着いただけでも恩の字だといわねばならない。そんな不安な道中、フランス語のあまりできぬぼくは、多くの無名の人々に親切に助けられた。そして、3日かけ、ようやく目的地のリボンゴに到着したのだ。

終着点リボンゴ。カメルーンの地でありながらコンゴ共和国は近い。コンゴ人の知り合いに偶然会い、得意のリンガラ語もほとばしる。帰ってきたなという実感。あとはそのボートでボマサに行けばよいのだ。

▼ボマサへの帰還

長い道のりのバスの旅の翌朝、からだはなおも疲れている。オムレツとパンとコーヒーを朝食として食べ、元気が出る。ボマサへぼくを送り出してくれるボートが準備されるのを待つが、肝心なガソリンはない!といわれる。残りの方法は何とかカメルーンのアメリカ大使館と連絡をとり、ボマサに無線連絡して、ボマサからボートを送ってもらうしかない…と思ってうたたねしていたところへ、WCSボマサの船頭であるゴボロが現れる。やった!ついに、ボマサに戻れるのだ。

16時45分過ぎボマサ着。本当に戻ってきた。内戦が始まってから、ほぼ一カ月の月日が経っていた。しかし現地のWCSスタッフの様子はみな一様に暗い。昨日今日と会合をやったようだ。このまま内戦が続くようであれば、首都ブラザビル事務所を隣国カメルーンのヤウンデに移す、雇用人数を削減する、ジョニー(注:コンゴ共和国森林省の職員で、ヌアバレ・ンドキ国立公園長官)がボマサのプロジェクトを動かす、万が一の場合は、脱出し、ボマサ基地を燃やす、などが決定されたようだ。

▼元気なジョマンボら

ぼくが首都で勃発した内戦に遭遇・脱出、そしてカメルーン経由でボマサに戻ってくるまで、ジョマンボらは森の中で調査を継続していたのだ。ブラザビルへ戻ってもよいという無線によるぼくの推奨にも関わらず、調査継続という任務を献身的に実施していたのだ。翌々日の朝、ぼくは5時30分に起きて、ボマサを出発、ひとりの先住民ガイドと共に30㎞先のジョマンボらのいる森のキャンプ地へ急ぐ。荷物が大してないので楽に歩けるが、急ぎ足で歩いているため足には負担がかかる。ぼくらは通常二日かかる道のりを半日で歩き、14時に国立公園内の調査地のキャンプに到着し、そしてジョマンボらに再会、早速翌日には彼らとボマサに出る準備をする。ジョマンボらを、彼らの家族のいるブラザビルに無事送り戻すためだ。ついにぼく自身もその使命を果たすことができたのだ。その数日後ウエッソに出たジョマンボたちは幸運なことにブラザビルへ向かう最終国内便に乗れたという。彼らの無事を祈る。

そして、キャンプ地からボマサへの帰還時に左足のひざが急激に痛くなる。これは、あのカメルーンでのぎゅうぎゅう詰めの狭いバスの中、左足に負担がかかっていたことと、強行軍で森のキャンプ地まで歩いたことと関係しているのかもしれない。初めて味わう強烈な痛みであった。

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