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【NPJ通信・連載記事】一水四見・歴史曼荼羅/村石恵照

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一水四見 ーー 歴史認識ということ ーー

2014年9月5日

一水四見: 仏教の認識論(唯識説)による縁起を説明する喩え。 人間が水と見るものを、天人は瑠璃でできた大地、地獄の住人は膿みで充満した河、魚は住処としてそれぞれ見る。 同一の客観的対象は、主観の認識能力・機能・立場等によって様々に認識されうること。

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およそ2500年前、インド亜大陸に誕生した仏教の開祖・釈尊の言葉と行動の記録の集大成である阿含経典(あごんきょうてん)に記されている一つの難問がある。

「わたしとは、なにか? どこから来たり、どこへゆくのか?」

この難問に挑戦したのがブッダとなる以前の青年シッダールタであった。かれは現在のネパールの地域に、京都府より少し広いくらいの領地をもつシャカ族の王の長男であった。しかし29歳の時、妻子を捨て、王権を捨て、全財産を捨ててこの難問に挑戦した。そして35歳の時、この難問を解決し(解脱し)て「(わがいのちの縁起の真相に)目覚めた者」すなわちブッダ(覚者)となり、シャカ族の聖者・釈尊となった。

仏教は「一切のもの・ことは相互に生成的に連動している」縁起の教えであるから、仏教的に歴史を洞察すれば縁起史観となる。そして「わたしとは、なにか? どこから来たり、どこへゆくのか?」の難問をかかえた「わたしたち」の集合意識が「歴史意識」であり、その歴史意識につらなる個人または一定の集団の意識が一定の歴史的問題にかかわったとき「歴史認識」が生まれると、とりあえず定義しておきたい。

現在地球上で72億の人々が様々な生活苦、病気の苦、戦乱の中での不安などの苦悩を背負って生きているが、ブッダによる苦の認識は、健康、家庭、政治権力(王権)、経済力などに恵まれていても解決されえない人間の根源的苦悩(無明)の自覚である。そして歴史意識の無明を忘却して「歴史認識」のレベルでさまざまな「文化的営み」がおこなわれて日々の喜怒哀楽を生きているのがわたしたちの実状である。

文化の定義はさまざまであるが、文化的営みとは苦悩の軽減活動と定義づけることもできる。

わたしたちの中で特に、芸術家や芸能人は人間の緊張感情(ストレス)の緩和行為に、医師の医療行為は生理的苦痛の除去に、法律的制度下の弁護士は人間関係の苦悩の解消と軽減化に直接かかわっている職業人であり、この点で彼らは、製造・運輸・金融などとは異なる職業人であるといえよう。

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だいぶ以前からマスコミなどで「歴史認識」ということがとりあげられている。マスコミでの歴史認識とは実はどういうことか、わたしにはよくわからない。むかしから言われる「歴史はくりかえす」ということも、わたしにはよくわからない。わたしの「歴史認識」はさきにのべたとおりで、諸行無常の歴史意識であるから歴史認識も諸行無常であり一瞬たりとも滞ることなく未知の世界へと進展しているのが人間の歴史である。むかしあった一定の歴史的現象に類似した現象が現在してくるということはいえるだろうが、仏教では時間は河の流れのように未来から現在へ流れてくると象徴されているから歴史にくりかえすことなど本質的にありえない。

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歴史認識に関連してマスコミに登場する言葉に歴史観があるが、これは広義の歴史認識と考えればよいと思う。

まず、いたって常識的なことであるが、世界の歴史認識と日本の歴史認識との違いについてのべたい。

日本以外の国民の歴史認識とは事実上、戦争経験を中心とした歴史に深く関わっているから、たいていの国には軍事博物館がある。戦争とは、通常異民族、異宗教、異言語の外国兵が自国内に侵入して来て、そこを戦場として戦闘がおこなわれることである。具体的にたとえれば、東京の銀座に外国の戦車が侵略してきて、市街を破壊し、略奪、婦女暴行などがおこなわれることである。そこで日本史は過去二千年来、このような戦争を経験していない。朝鮮半島や中国に軍隊をおくった経験はあるが、米軍の日本攻撃以前に日本はかって一度も外国軍に侵略されたことがない。だから敗戦は外地での体験であり、内地では情報としての経験である。そこで日本人の一般的歴史認識は大方の外国の歴史認識と異なるだろう。

蒙古襲来は、当時の政権の心胆を寒からしめる事態であったが、それは九州の一部のことで当時の国民一般は関わっていない。つまり、沖縄は措いて、日本人には 被占領体験が欠如している。

日本のテレビの歴史大河ドラマは、日本人の武士同士の規模の大きい闘争に過ぎず、戦争ではない。関ヶ原の戦いも戦争ではなく、目下シリアやイラクで起こっているような一般庶民をも巻き込んだ内戦でもない。

日本人の歴史は、決定的に異宗教・異民族が深く絡まっている欧米、韓国、中国の歴史とその深刻の度合いが異なる。比叡山の僧兵などは宗教戦争でもなく、西欧の宗教戦争のイデオロギー性、規模、仮借ない残酷さに比べれば、暴力団的行動に過ぎない。

日中戦争でアジアへ派兵された旧日本兵も敵国での戦闘体験をしているが、日本国土で日本国民と共同して敵兵と戦ったわけではない。だから日本兵の歴史認識も世界の兵士の歴史認識とは異なる。

もっとも残念なことは、数は少ないがわたしの数十年の知己である90歳台の戦争体験者らは、アジア諸国の戦地での戦時体験を語らず、沈黙したまま他界していった。自分がかかわらなくても、他の日本人兵士たちがおこなった中国大陸での行為については熟知していたはずである。映画「蟻の兵隊」にみられる一般の兵士や民間人を置き去りにしてさっさと帰国していった情けない上官たちにも歴史認識はないだろう。彼らにあるのは、戦地でおこなったことを黙して語らない「利己認識」だけである。

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ちなみに敗戦を終戦、占領軍を進駐軍、撤退を転進、全滅を玉砕、と言った旧日本軍の稚拙な言語操作を一概に批判することもできない。 わたしは戦争が終わった日をあえて敗戦日という必要を感じないが、アメリカ軍による東京の占領は、確かにナチスがワルシャワに侵攻したようなこととは違っていた。小学生の時、わたしの実家は米軍に接収された東京、中央区の聖路加病院の目の前にあり、小学校はその隣であったから毎日アメリカ兵を見て暮らしていた。冬など道路からガラス越しに病院の中をのぞくと、半袖の白衣を着た血色のよい白人の看護婦の顔と腕が見えて、病院内は冬でも完全なセントラルヒーティングであった。こちらはズックの靴を履いて鼻水を拭いた両袖口が乾燥してテカテカになったセーターを着て通学したものであったが、チューインガムや大きなコンビーフの缶詰などをよくもらっていてアメリカ兵を憎む理由も苦い経験も皆無であった。 クリスマスにもプレゼントをたくさんもらった記憶がある。 もちろん一部に犯罪的なこともおこなわれ、パンパンガールといわれる日本女性もいたが、総じてアメリカ兵は確かに進駐軍であって占領軍ではなかった。 以上は、当時中央区築地に在住の昭和16年生まれのわたしのささやかな記憶にすぎない。

現在の東京一極集中化は、戦争体験を中核にもつ歴史認識の欠如した政治家や経済人たちの反国益的結果にみえる。正常な愛国心と防衛感覚をもてば、一極集中化した東京は利敵施設以外のなにものでもない。ましてや大量電力の消失、放射能汚染の被害と恐怖、汚染地域の国土の喪失などを考えれば、原発などは、敵にとって最大効果の上がる最も脆弱な攻撃対象施設である。

つまり第二次世界大戦以後の日本の為政者は総じて、大方の世界の国々が共有している戦争体験を内在している基本的歴史認識が体験として欠如している。日本以外の国々の政治家がすぐれているというのではない、ただ日本の政治家が世界の国々が共有している戦争体験を中核とした歴史認識にもとづいた国益についての統合思考が欠如しているということである。

世界の指導者らの「殺」にかかわる心理状況については別の機会に論じたいが、民間人に二発の原発を落として、しかも精神的に健常者として振る舞えるような資質の政治家は日本人には考えられない。前大統領ブッシュが、テロリストに一定の拷問をすることを認めるような神経は日本の政治家には(幸いなことに)ないだろう。幸いなことだが、主要な西欧先進国には植民地体験と長期間にわたる戦闘体験の長い伝統があり、それが日本の政治家にない。

習近平氏の世界を見る視座と彼の頭脳の回路の仕組みには、中国の膨大な歴史認識が定着しているはずである。安倍晋三氏の歴史認識はいかなるものか? 日本という国の歴史の特質をどの程度理解しているのか、お聞きしたいものである。一水四見の知恵で日本の国益の本質を客観視する心の余裕があるのか? これもお聞きしたいものである。伊勢神宮と靖国神社との決定的異質性をどれだけ理解しているのか? これがわかっていれば原発推進などしないはずである。

(2014/09/02記)

(筆者紹介)

村石恵照(えしょう)

東洋大学(大学院文学研究科仏教学専攻博士課程)、外国政府機関勤務(インド大使館、マレーシア大使館)、特許法律事務所勤務、Young East誌 編集主任 (日本仏教文化紹介誌(英文・季刊)、会長(故)中村元博士)、英文毎日(Mainichi Daily News)コラムニスト(筆名 Kenkichi Murano、1982-1986、日本文化紹介コラム:Kiku and Sakura)、零細出版社経営などを経て、平成24年3月まで武蔵野大学教授。現在、武蔵野大学客員教授。東京仏教学院講師。

研究領域 : 仏教学 /日本文化論 /イギリス思想 (G.オーウェル)。

著作/論文 : A Study of Shinran’s Major Work: the Kyo-gyo-shin-sho、『地球の歩き方=旅の会話集15(ハンガリー・チェコ・ポーランド語/英語』(ダイヤモンド・ビッグ社)、『仏陀のエネルギー・ヨーロッパに生きる親鸞の心』(翻訳)、『オーウェル―20世紀を超えて』(共著)、「いのちをめぐる仏教知のパラダイム試論」(『仏教最前線の課題』)、Gentle Charm of Japan(DharmaEn)など。

所属学会 : 日本宗教学会、日本印度学仏教学会、国際真宗学会など。

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