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【NPJ通信・連載記事】メディア傍見/前澤 猛

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メディア傍見40 朝日新聞は「クック事件」に学んで欲しい

2014年9月24日

朝日新聞は、2014年の8月、9月に過去の「従軍慰安婦報道」と「吉田調書報道」を相次いで取り消ししました。

「慰安婦報道」の取り消しは、8月5日の同紙で公表されました。「慰安婦を強制連行した」と述べた「吉田清治証言」の初報(1982年9月2日)からは32年経っていました。「吉田調書報道」(5月20日)は「所長命令に違反して、福島原発の職員9割が撤退した」と報じたものでしたが、9月11日に、突然、朝日新聞社長の記者会見で取り消されました。これについては、この「メディア傍見」(6月28日掲載)でも疑問を投げかけていました。

しかし、同紙が連続して誤報と認めた二つの報道について、同紙は、記事そのものは取り消したものの、誤報を招いた経緯の検証や謝罪はいずれもが不徹底だとして、他のメディアや広く社会から批判を浴びました。すなわち…

①訂正・取り消しまでの社内処理とその事実の公開の大幅な遅れ。

②誤報の原因・経過の検証が不十分で、その報道は弁解、言い訳に終始している。

③関与した記者・編集者の氏名、ポスト(アイデンティティ)や具体的な言動が秘匿されていて、誤報の掲載と以後の誤報維持についての責任が明らかにされていない―などについてです。

慰安婦報道を検証した記事(8月5日)では、「女子挺身隊の名で戦場に連行された元慰安婦の証言」を報じた(1991年8月11日)記者(当時)・植村隆氏の名前を明らかにしていますが、年齢や現況(3月に早期退社)については触れず、「吉田証言」などを報じた他の記者は匿名で年齢のみ記載でした。その識別の基準はわかりません。

いずれにしても、ジャーナリストとしての重要な倫理規範は、「正確な真実の報道」であり、また報道の公正さを疑われないために「利害の衝突(conflict of interest)」を回避すること、言い換えれば「公私のけじめ」をつけることではないでしょうか。なぜ、吉田証言は長期にわたって、なぜ誤報のまま、朝日新聞と担当記者によって放置、あるいは維持されてきたのでしょうか。

「女子挺身隊=慰安婦」の混同についても、同様の疑問が寄せられていますが、植村氏の場合は、さらに「利害の衝突」が指摘されています。義母を事件の利害関係者に持つ記者が、そうした利害関係を無視し、また朝日もそれを棚上げしている姿勢が理解困難なのです。百歩譲って、朝日の言うように、記者と義母との間に情報のやり取りがなかったとしても(それは説得力がありませんが)、朝日はそうした利害抵触を進んで公表し、その上で社会全体の批判に正面から向き合うべきだったでしょう。いきなり一面で「記者が名指しで中傷され」(5月5日。杉浦編集担当・取締役)と非難されても、一般読者には何のことかわかりません。

「吉田調書」については、社長謝罪会見と翌日の経緯報道で、「吉田調書がスクープだったため、その情報の扱いが少数の原発担当記者に委ねられ、公正なデスクワークが働かなった」という趣旨の弁解が述べられています(杉浦編集担当)。それは、言い換えれば、今回の誤報の責任が、そうした報道に関与した特定の担当記者の予断、偏見、誤読(あるいは意図)にあったことを示唆しています。しかし、やはり、その責任記者の当該報道に対する取材、資料解釈、執筆記事、事後の正当性固執などの具体的な言動については、「慰安婦報道」同様に、朝日は全く言及していません。

さらに、朝日新聞は、9月20日(2014年)の紙面で、報道局長、編成局長ら幹部3人の解任を発表しました。その理由については、「吉田調書報道の間違いを認めて記事を取り消した問題で…」とされるだけで、その3人が、この「問題」で、実際にどのような判断、言動をとり、それがどのように解任責任に値するのか、それらは明らかにされていません。報道機関が自らの事実検証と公表を後回しにして、職制上の責任者の処分を急いでは、問題の詳細な経緯を知らされていない読者は戸惑うばかりです。なによりも、これまで同紙が、他の事件報道で「形式的な謝罪」を批判してきたことと、あまりにも矛盾してはいないでしょうか。

記者は「表現の自由」を標榜し、あるいはそれに厚く保障されて、取材報道に専念しています。それは、記者が「公人」であることを意味します。したがって、場合によっては、そうした記者の言動には、公人としての強い責任が伴います。

今回の朝日の相次ぐ誤報容認・謝罪でも、誤報を犯した経緯と責任の詳細を進んで公表してこそ(もちろん、取材源秘匿は別にして)、ジャーナリズムとしての朝日新聞の責任を全うすることになるのではないでしょうか。公人(政官財界人)を取材、報道する記者が、ひとたび問題を起こしたとき、プライバシーを主張して、自らのアイデンティティや思考、行動を秘匿することなどは、社会から理解、支持されません。編集幹部の辞意など、形式的、表面的な責任だけを問題にして、今回のジャーナリズムとしての危機を、朝日ははたして乗り切ることができるでしょうか。

もちろん、朝日新聞の今回の過誤は、朝日一社にのみ起きうることではありません。自社の過誤に対するあいまいな事実究明と責任回避は、他社でもしばしばみられます。そうした、閉鎖的な日本のメディア状況を見るとき、30年も前に、アメリカのワシントン・ポスト紙が「クックねつ造報道事件」(1981年4月)で見せた公明正大な処理に、改めて強い関心を持たざるを得ません。

同紙は、1980年9月、クック記者による「8歳のヘロイン中毒少年のルポ『ジミーの世界』」を掲載し、翌年4月、ピュリツァ賞を受賞しました。しかし、それがきっかけで、記事にねつ造疑惑が浮上すると、同紙はただちにオンブズマン、ビル・グリーン(社外から招聘していたデューク大学教授)に調査の絶対的な権限を与え、わずか3日後には、膨大で詳細なオンブズマン・レポートを掲載しました。それは、結果的にねつ造報道にかかわった社内関係者の言動を、氏名、写真とともに、余すところなく描写しました。まさに、事実に基づく再現ドラマでした。

クックは責任を問われて解雇されました。しかし、その後、彼女のプライバシーは、今日に至るまで徹底的に守られています。また、レポートで名指しされた社主をはじめデスクに至るまで、他の社員は誰一人として辞任していません。結果はともあれ、誰もが善意と誠意と熱意をもって職務に従事していたからです。

この経過は、欧米ではジャーナリズムの記念碑として広く知られていますが、日本では必ずしも周知されていません。しかし、公明正大なメディアとはどうあるべきか、とくに、問題を起こした後、ジャーナリズムとしての対応はどうあるべきか―そうした教訓を、朝日新聞をはじめとする日本のメディアは、「クック捏造事件」から汲み取るべきではないでしょうか。

(2014年9月24日記)

 

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