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【NPJ通信・連載記事】ビーバーテール通信―カナダから考える日本と世界―

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ビーバーテール通信 第 5 回 戦争の比喩が隠すもの

2020年5月6日

小笠原みどり (ジャーナリスト・社会学者)

 「ばっかだなあ、ウィルスは銃じゃ撃てないんだよ」。13歳のウチの子が、私が居間で読んでいる新聞を横からのぞきこんで言った。

 あれはまだ、新型コロナウィルス (COVID-19) によって彼の春休みが 2 週間延長されたばかりの頃。カナダのトゥルードー首相が人々に外出しないよう呼びかけ、私たちが暮らすオンタリオ州が緊急事態を宣言して、学校も公共施設も商店も次々に閉まっていった 3 月中旬。それから始まった半軟禁生活は、もう 8 週目に入る。外出予定が消え、人と会わず、家で三度の食事の用意をして、仕事もして、たまに買い出しと散歩に出て・・・の繰り返しは、時間の感覚を失わせる。毎日が砂のようにサラサラと両手の平からこぼれ落ちていく。昨日、一昨日、先週、何をしたのかを思い出すのが難しくなってきた。学校の春休みは再延長、再々延長されて、私たちは永遠の緊急事態のなかに取り残されている気がする。


緊急事態が宣言された直後は、まだ大学生たちがボールを蹴っていたフットボール場。今では閉鎖され、穏やかな春の日でも無人に= 4 月21日、カナダ・キングストンのクイーンズ大学で、溝越賢撮影

 

 子どもが目にした新聞記事は、新型コロナ感染拡大防止のために、アメリカのトランプ大統領がカナダとの国境に兵士を配備する考えがあると、カナダ政府に伝えたことを報じていた。カナダ政府はこれに強く反発し、その後、計画は進んでいないようだ。が、トランプ大統領がちょうどコロナ対策に着手して、自分を「戦時大統領だ」と呼んだ矢先で、アメリカ政府が感染症を戦争と同等に扱っていることを示していた。

 多分、13歳が想像したのは、国境に並んだフル装備の兵士が、カナダ側から浮遊してくる目に見えない無数のウィルスに向かって、マシンガンを連射している図。その勇ましい (と自分で思っている) 最高司令官、金髪のあの男。しかし残念がながら、世界最大の軍事力もウィルスを照準に入れることはできない。そんなの当たり前じゃない、見えないんだから、ホントに大人? と思ったわけだ。

 カナダとアメリカの国境は、世界で最長の軍事化されていない国境と呼ばれてきた。軍事化されていないというのは、軍が配備されていないだけでなく、行き来が自由という意味も含まれている。長い間、パスポートもいらなかった。もともと国境というのは、人々の生活圏のなかに後から引かれたものだから、今でもカナダに暮らしているけれど、勤め先はアメリカという人たちもいる。パスポートが必要になったのは、 9.11以降。カナダは 9.11の発生となんの関係もないが、なんとアメリカでは議員を含めて「テロリストは自由な国境を利用してカナダからやって来た」と思い込んでいる人たちがいる。「敵」はいつも外からやってくると思う思考パターンが、戦争をする国家には染み付いている。

 「戦争対応」なのは最高司令官だけではない。アメリカではコロナ流行下で、なんと銃の売り上げが過去最高を記録している。銃の個人所持を擁護するアメリカのロビーイストたちは、コロナで大半のビジネスが閉鎖されても、銃の販売はスーパーマーケットや薬局と同じく「必要不可欠な事業」だと政府に働きかけた。感染拡大のなかで、マスクをしながら銃の撃ち方教室に参加している女性と子どもの写真を新聞で見た。この人たちは、まさかウィルスを撃ち殺せると思っているわけではないだろうから、いったい誰を撃つつもりなのだろうか。感染者だろうか、食糧やマスクを奪っていく「敵」だろうか・・・・・・アメリカ社会の分断がここまで深刻で、その「解決法」として人々が暴力を頼みにしていることに、別の恐怖がわいてくる。ウィルスではなく、この「戦争対応」によって流血の惨事がいつ引き起こされてもおかしくない。

 感染症に武器で応じる隣国に対し、カナダは距離を取っているように見える。けれどメディアからは、ひっきりなしに戦争用語が流れ続ける。前回の通信に書いたが、全国紙グローブ・アンド・メール (以下、グローブ紙) の社説は国境が閉鎖されてから「先回りしてウィルスを殺せ」(3月17日)、「いい市民になろう、距離を保って」(18日)、「ウィルスとの戦争の準備はいいか?」(19日) と連日、読者を「一丸となって立ち向かう」 (We stand together) ことに駆り立てた。家にいろ (stay home) と呼びかける政府や医療機関や学校も、はじめは「感染者の急増を抑えるため」 (flatten the curve)、つまり病院の「医療崩壊」を避けるためという表現を使っていたが、やがてもっと単純な「ウィルスを退治しよう」 (beat the virus, defeat the virus) に変わっていった。ウィルスを殴ったり蹴ったりはできないのに・・・・・・。

 いま流行っているのは、医療従事者やスーパーの店員など「必要不可欠な事業」で働く人たちを「前線要員」(frontline workers) と呼ぶこと。もうここは戦場で、働いている人たちはみんな兵士なのだ。「前線のヒーローたちに感謝しよう」というメッセージが、メディアにも、街の看板にもあふれている。月曜の夜 7 時にはベランダに出て鍋を叩き、前線に感謝を捧げよう、とか。前線の兵隊さん、ありがとう ! 千人針や慰問袋が呼びかけられた時代を、急に間近に感じる。


「我々は前線で働く人々を支援します」というスローガンを掲げるダウンタウンの電光掲示板。病院やスーパーは、いつの間にかコロナウィルスの「前線」(frontline)に=4月21日、カナダ・キングストンで、溝越賢撮影

 

 アメリカの銃の記事を新聞で読んだ午後、「私たちは戦争と同じようにCOVID-19と戦わなくてはならない」と題した寄稿文を同じ紙面に見つけて、私はもうじっと座っていられなかった。この大学教授による寄稿は「COVID-19との戦いは戦争であり、私たち一人ひとりが潜在的に徴兵リストに載っているのだ。私たちの考え方もそれに合わせて変えなくてはならない」と結んでいた。私はグローブ紙に初めて投書した。同紙の規定に従って、特定の記事への感想に限定した短い投書は、3日後、こんな内容で掲載された。
 

 4 月 7 日に掲載されたイアン・ブルマ氏による記事「アメリカ人はパンデミックに銃を取る――最悪の結果になる可能性」は私たちに、COVID-19へのアメリカ文化の暴力的な反応として、「必要不可欠な」銃のかつてない売り上げを伝えています。確かにこれは狂気の沙汰です。けれど、カナダ文化も同じような戦争心理を共有していないでしょうか。アンドリュー・ポッター氏が「私たちは戦争と同じようにCOVID-19と戦わなくてはならない」の論考で「私たちもいのちを賭けよう」と、けしかけるように。グローブ紙の専属コラムニストたちもまた、国境閉鎖以来、たくさんの戦争の比喩を使ってきました。

 このような言葉を使って人々を扇動することの結果を、私たちは注意して考えるべきです。もしこれが戦争なら、これは国の内部の戦争、内戦です。なぜならウィルスは私たちの中にいるからです。その結果として (ウィルスの発生地と考えられている) アジア系の人々に対する人種差別と暴力が世界中で発生しているようです。

 さらに戦争の比喩は、女性や子ども、それ以外の弱い立場にある市民に対 する暴力を肯定しかねません。歴史は、戦場でこうした暴力が常に起きて来たことを示しています。私たちは公衆衛生の問題に戦争の比喩を使うのをやめるべきです。私たちはいま、お互いに戦っているのではなく、助け合っているのですから。
 小笠原みどり (キングストン)

 掲載文で、私のおぼつかない英文法は直されていたが、表現も弱められていた。原文は「私たちは戦争の比喩を使うのをやめるべきです」ではなく、「戦争の比喩を使うのをやめてほしい」とグローブ紙に求めていた。戦争の心理をつくりだすメディアに、私は身の危険を感じたからだ。アジア系の外見の人々を、ウィルスを持ち込んだ人間とみなして攻撃する事件は北米で数多く起きている。アジア出身者だけではない。インドではムスリムが、中国ではアフリカ系の人々が、要するに普段から差別され、攻撃されやすい人たちがパンデミックのスケープゴートにされているのだ。

 戦争の比喩は他者への非難と攻撃を正当化する。その攻撃はもう、比喩ではない。現実なのだ。「敵」は国の外にいると仮定されているけれど、否応なく国の内側にも戦闘を持ち込む。ウィルスが敵なら、なおのこと。

 そして戦争の比喩は、こうして人々が直面する現実がそれぞれに異なることも覆い隠す。緊急事態に「一丸となって立ち向かう」ために。

 戦争の比喩が隠すもの。例えば、新型コロナによるカナダの死者は、 8 割が高齢者介護施設で暮らすお年寄りや介護職員であるということ。高齢者介護施設の劣悪な衛生状態と労働環境、人手不足が放置されてきたということ。

 戦争の比喩が隠すもの。例えば、病院のベッド数が何年もかけて新自由主義経済政策の下で減らされ、感染症の患者が治療を受けられる体制ではなかったということ。2004年 (SARS)、2009年 (H1N1) にも同じことを経験したのに、反省は生かされず、失敗は繰り返されたということ。

 戦争の比喩が隠すもの。例えば、感染を確かめるための検査を受けたくても、簡単には受けられないこと。国も州も、この 2 カ月間に十分な検査体制を確立できず、感染実態を的確に伝えるデータも公表できていないこと。病人は大切にされず、病気でない人も不安を煽られながら、孤立を強いられていること。

 戦争の比喩が隠すもの。例えば、ビジネスへの休業命令で失業したのは、圧倒的に非正規雇用で働く人々だということ。低賃金で安定しない仕事についているのは、男性よりも女性、白人よりも非白人が多いということ。そして感染の危険があっても、収入のために職場に行かざるを得ないのも、やはり非正規雇用で働いている人たちであるということ。

 戦争の比喩が隠すもの。例えば、学校閉鎖が家庭に及ぼす負担は、ひとり親には極端に重いこと。家庭での無償労働は、GDPにはカウントされない。重い負担はインターネットの長時間使用へとつながり、子どもたちへのネットの負の影響は無視されて、オンライン授業への切り替えが図られていること。

 戦争の比喩が隠すもの。例えば、外国籍の住民や留学生は、政府の緊急支援から除外されていること。昨日まで多様性を称賛していた社会が、自国民優先主義に先祖返りし、いのちの線引きを仕方のないものと受け入れること。

 戦争の比喩が隠すもの。例えば、カナダのような「リベラル民主主義国」が看板にする「自由」が、緊急事態下で消え去っても、ほとんど誰もそれを指摘しないということ。

 まだまだあるが、つまり戦争の比喩は、露わになった政治の責任――古いもの、新しいもの、両方――を見えなくする。人々をひとまとめにして、感情を動員し、命令に服従させるのが戦争体制だからだ。お粗末な保健医療体制のツケを払い、防護服もマスクも足りない惨状に「前線のヒーローたち」があげている悲鳴を、人々の称賛でかき消しながら。


パンデミックを「一緒に乗り越えよう」と呼びかけるポスターが休業中のレストランの窓に貼られていた。窓に映るのは市庁舎= 4月21日、カナダ・キングストンで、溝越賢撮影

 

 しかし、13歳にもわかる。感染症は戦争ではない。ウィルスは力では制圧できないのだから。いま一番求められているのは、人のいのちを大切にする保健医療を実現することだろう。なのに、これを戦争にしてしまう政治指導者たちのすり替えに、私たちは飲み込まれてはならない。

 日本では、政府がコロナ対策としての緊急事態宣言を延長し、この機に憲法に緊急事態条項を入れて、民主主義の停止を全面的に広げたいようだ。緊急事態下で、どれだけ多くの腐敗スキャンダルをなかったことにし、どれだけ大きな権限を持って人々に命令できるかを、安倍政権は味わってしまった。世界中で誰よりも永遠の緊急事態を望んでいるのは、落ち目の独裁者たちだろう。

 こんな人々の不安につけこむ詐欺に騙されてはいけない。詐欺師たちが勝手に始めた戦争で、勝手に私たちを徴兵リストに載せないように。 

〈了〉
 


【プロフィール】
小笠原みどり (おがさわら・みどり)
ジャーナリスト、社会学者、元朝日新聞記者。
アメリカの世界監視網を内部告発したエドワード・
スノーデンに2016年5月、日本人ジャーナリストと
して初の単独インタビュー。
18年、カナダ・クイーンズ大学大学院で監視研究
により社会学博士号を取得。
新著に『スノーデン ・ファイル徹底検証 日本はアメリカの世界監視システムにどう加担してきたか』(毎日新聞出版)。

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