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【NPJ通信・連載記事】一水四見・歴史曼荼羅/村石恵照

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一水四見 ーー日本の英語教育の熱心なる不毛ーー

2014年10月17日

長年にわたって、わたしにはよくわからない奇妙な思いをさせられている日本の教育事情がある。 おそらく大方の日本人も同様の気持ちを抱いていることと思う。多大な国家予算を使い(つまり税金を使って)、中学、高校の授業時間に多大な時間を費やし、なんら満足な結果を生徒たちにもたらしていない英語教育の実情である。だから、特に英語に関する日本人の奇妙な劣等感をくすぐるような内容の出版物が、週刊誌と単行本とを問わず次から次へとでてくる。英語と日本人論は、特殊な日本事情である。

日本の英語教育についての人々の思いは大体以下のようなものだろう:

◯ 読めても話せない英語教育はだめ!

◯ コミュニカティヴな英語が必要。

◯ 使える英語が大切。

◯ 受験英語が英語上達のネックだ。

◯ 自然な使える英語を!

◯ 英語の映画が聞き取れるか?

◯ いかにネイティブの英語を話すか?

◯ 外人に話しかけられ答えられなくて恥ずかしかった。

◯ 文法中心、書き言葉中心の英語はだめ。

◯ ネイティブたちからすると日本人の発音は自然な英語ではなく、堅苦しいぎこちない英語に聞こえる。

以上は「英語コンプレックス項目群」というべきものであり、 英語教員から一般の人々までの英語教育にかかわる意見、提案、疑問、不満、失望などが混在している。しかしそれぞれの疑問や意見自体が全部奇妙である。意見や疑問を呈している本人が自分の言っていることの内容がわかっているのかと疑問をもたざるをえない。

学歴的に凡庸なわたしは仏教学が専攻であったから、サンスクリット語とチベット語を学ぶために英語の文法書と辞書を使わなければならなかったから、英語の学修目的がはっきりしている。特にぺらぺらしゃべれなくても劣等感を持つ必要はない。他の専門分野の人々も同様のことと思う。

趣味で学ぶの人と外国語の研究者は措いて、外国語の修得でもっとも大切なことは、「修得中または修得後の直近の将来に、その外国語の運用が必要とされるという切実感のある動機と具体的な目的」であり、修得方法は第二義的なことである。

***

では日本の中学、高校の英語教育の目的はなにか?東京に住んで3年に1回道ばたでガイジンに話しかけられて恥をかかないためなのか?修得後にすぐに生活上の必要があるからなのか?映画の英語をサブタイトルなしで聞き取れることなのか?(わたしは言えないが)「腕立て伏せ」を英語で言えるためなのか?

「英語コンプレックス項目群」のすべては、外国語修得についての「修得中または修得後の直近の将来に、その外国語の運用が必要とされるという切実感のある動機と具体的な目的」にとって有害無益なことである。

***

とにかく日本の英語教育はダメなのだ、という意見が多いので、ではこれに対処するには、どうしたらよいか?

”日本の教育を変えるキーマン” 遠藤利明氏(自民党議員)は語る。

「・・・私は「英語教育を何とかしたい」と思っていろいろ模索しているわけなんですが、自分のことを振り返ってみても中学、高校で英語を6年間、習ったけれどまったくできない、しゃべれない。1つには、日本では「教養としての英語」になってしまっている部分も大きいと思うのです。ちょっとでも間違うと恥ずかしい。makeの後にどんな前置詞が来ようと、前後の脈略で何を言っているか相手が推測して理解してもらえるはずなのに、「間違っているからしゃべってはいけない!」と自ら口を閉ざしてしまう。そういった姿勢は絶対に変えていかなければならない、という思いがもともとのスタートとしてあったのです。」安河内哲也 (東進ビジネススクール講師);ウェブサイト「政治家と「英語教育の未来」を語り合った!」( 2014年10月08日 )

1)中学、高校で英語を6年間習った。2)ちょっとでも間違うとはずかしい。3)教養としての英語になってしまっている。「こういう思いが「スタートとしてあった」ので英語教育を変えたいという。

しかし、1)実は日本の中学、高校では、“6年間”も英語を習ってはいない。問題は正味の学修時間が何時間かだ。いったい何百時間、どのような期間内に、実際口頭練習をし、聴取訓練をしたのかが問題である。

2)“ 恥ずかしさ”と英語学習との関係は、英語学習以前の、戦後日本人の知識人の一部にある根深い問題だ。『三四郎』を読むと、白人のガイジンに対する日本の知識人のコンプレックスは明治から始まっているかもしれない。同書で「例の男」は「西洋の夫婦」を [おそらく婦人の方に重点をおいて] ちょいと見てつぶやく「ああ美しい」、「御互いあわれだなあ」。

今は亡き明治生まれの築地育ちの父は、白人のガイジンに話しかけられて「あの人の言うことはまったくわからねえ」と言っていた。その時自分も「あたりめーだ。日本語じゃねんだから」と思った。知識人ではない父はガイジンに話しかけられてドギマギしたりはずかしいとは思わなかった。

日本に居住する外国人はなによりも日本人から日本語で話しかけられてほしいと思っているのに、白人だと英語で話しかけたかる日本人がいる。迷惑な日本人である。

3)教養としてでも英語を学べれば大したものであるが、英語を学んで教養を身に付けるには大変な努力がいる。教養とは生き方の基本の充実に役立つ言葉の漢方薬のようなものであり、それを英語で修得できればよいが、そうなっていない。

小学生も英語を学ぶと世界観が広がるなどという教員もいる。英語を学ぶ程度にもよるだろうが、英語で世界観を学ばなくても他にいくらでも方法はある。

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ある英語教員の提案である。

「今までのやり方では駄目だ。では、何が変わればいいのか。私の答えは、明快だ。(1)英語教員自身が英語を使える日本人であることと(2)小学校から英語教育を始めること。この2つをきちんと実行することが決め手だと信じている。」

このダメな英語教育の明快な対処法も、よくわからない。「英語教員自身が英語を使える日本人であること」とはどういうことなのか?すでにダメな英語教育を受けてかた数千人(?)の英語教員を「英語を使える日本人」にどのように育成するのか?

***

小学校から英語授業を導入したら、そこでどんな英語をどのように教えるのか。英語の歌を歌って、英語でクイズをして、そして、いったい何を具体的な目標とするのか。

小学校を卒業して商社に勤める子供はいないから、教室で習った英語を生活の場でどのように生かすのか? だらだらと大学卒業までどうやって学修意欲を持続させるのか。英語圏の国で小学校まで過ごした児童でも帰国して使わなければすぐに錆び付いてしまう。

6年間も英語を習って英語がしゃべれないというコンプレックスをもつ日本人が、もし小学生から学修すれば高校までに、12年間英語を学修してもしゃれれないというコンプレックスを持たされるだろうことは確実である。

現在、大卒者で何パーセントが日常的に、職業的に英語を話しているのが?

不毛な英語学習に費やした時間と関心は、他の科目の学修時間の削減と集中力の散漫につながる。

***

いったいノーベル賞を受賞した日本人の何人がぺらぺら英語をしゃべっているのだろうか。

世界的に活躍する有名、無名の人々がいるが、語学力そのものを必要とする人を除いて英語は必要に応じて修得しているだけのことだ。有名な音楽家をあげれば、小沢征爾氏や世界の多くの若者たちを国境と文化の壁を超えて魅了している名曲「シルクロード」の喜多郎氏に流暢な英語を期待している外国人なぞいないだろう。10月にはイランのテヘランで彼の演奏会があり、喜多郎氏はイスラム教の人々にも宗教の枠さえ超えて感動を与えることだろう。

***

もし小学校で英語教育を始めたら、彼らが高校と大学を卒業した時点で、彼らの英語能力の程度と、特に肝心な事は何%が英語のを必要とする職場に勤務したかを調査すべきである。

現在、日本の上位校の大卒者で、英語を必要とする職場に何%就職しているのか?

教育行政は国民の知力の維持、向上に直結する重要な行政である。外国語教員に国家的な外国語教育政策を任せてはならない。外国語教員は実際の教育現場で活躍するのが役割である。

日本はイギリスの植民地となった国ではない。アメリカに占領されて上層階級が英語をしゃべるフィリピンでもない。同じ植民地化の歴史をもつ国でもインドとシンガポールでは歴史的事情が違う。

韓国や中国の英語教育事情と日本の状況とを混同してはならない。

英語教育の実体的目的は「子供たちが異なる文化に触れ、さまざまな価値観の人々と出会い、その世界をひろげること」(「英語教育 アジアトップ級って?」、朝日新聞論説;2014・10・6)ではない。

「その世界を広げる」ためには、小学校では欧米人とアジア人とを問わず、だれにでも平等な気持ちでつき合うことの大切さを教える授業をもうければよいことで、英語教育以前のもっとも大切は教育である。特に教師の意識改革が必要である。

***

日本の英語教育を不毛の努力から救う単純な提言をして諸賢のご意見をお聞きしたい。

1)与野党合意のもと、外務大臣には日本歴史と世界史の十分な知識を持ち、完璧に英語または中国語を話せる人材を選ぶこと。各政党はそのような人材を確保、育成しておく。

2)ジャーナリストの指標であるべき大手の新聞の論説委員は十全の英語運用能力をもち、口頭と英文で世界の政治家やジャーナリストと対話ができる人材であること。そのような対話をテレビやインターネットで世界に発信する機会を増やすこと。

***

なぜか、ほっとするニュースがあった。

「外国人定住分校に活気 北海道、倶知安町立西小学校樺山分校、生徒27名。児童の約半数は、両親または片方が外国人。北海道インターナショナルスクール・ニコセ校では、授業はすべて英語で授業が行われている。」(ある日の朝日新聞の記事)

(2014/10/15 記)

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