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【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

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連載「ホタルの宿る森からのメッセージ」
第36回「森の中で生きるということ(その1)~決して寂しいことではない」

2015年7月29日

▼森に連続13ヶ月

1991年から1992年にかけて、13ヶ月にわたる現地調査を実施した。指導教官や同僚など何人か日本人研究者などの出入りはあった。食料の買い出しに一度だけ数日間大きな町にも出た。そのほかは森のガイドとしての先住民の交代などで二度ほど数日ずつボマサ村へ戻っただけである。それを除けばフルタイム森の中で生活した。

おそらくこの連続滞在の記録はまだ誰にも破られていないであろう。森は一般には、生活をするには「困難な」あるいは「不快な」場所である。すでに何回か連続記事で書いてきた虫は、その中で最大の障壁の一つかもしれない。雨、沼地の踏破、限られた食事の内容、飲み水の確保、食糧や装備の運搬と管理、ヘビやゾウ、ヒョウなど危険と思われる動物の存在、マラリア等熱帯地方固有の病気など、容易にはクリアできないハードルは挙げたら切りがない。今や、ネットやスマホなどに夢中になっている人が多い中、森の中ではチャットもフェイスブックもできない。そういう状況に耐えられぬ人はいるかもしれない。

日が差しこみ水底の砂地が見える森の中の小川の様子©西原智昭

日が差しこみ水底の砂地が見える森の中の小川の様子©西原智昭

そうした中で、長期間継続して森の中で滞在するのは想像の域を超えると思われる。もちろん、体力のタフさや、現地の人と過ごすために不可欠なことばの能力はある程度必要である。しかし、それは必要条件であって、体力があってことばができても、森の中に自動的に何カ月も住めるわけではない。

そこには、奇跡はない。森という厳然とした現実、不快と思われる虫や危険そうな動物の存在、限られた食糧や容易でない物資の管理、人里から遠く離れた場所、それらを冷静に見つめるしかない。為し得る程度に為し得るだけである。

▼歩くということ

あえていえば、森を歩くこと自体の楽しさが不便で快適でない森の生活を支えているのかもしれない。熱帯林の中は興味が尽きることがない。

何もかも始めて尽くしだった25年前のンドキの森での生活と調査。なかでももっとも苦手意識があったのは植物だ。

動物はある程度種の見分けがつくにせよ、植物など到底識別ができるとは思えなかった。植物の調査の経験がないばかりか、日本でも、木や葉をじっくり観察したことすらない。ゴリラの調査に入ればいずれ植物とも関わらざるを得ないだろう。そうした覚悟はできていた。せめて、ゴリラの食べる植物くらいはひとつひとつ覚えていくしかないな、と漠然と思っていたくらいだ。

しかしものは慣れというものだ。毎日木々に埋もれながら寝食するキャンプ生活、ゴリラを探しに歩けばいやでも植物は目に入る。そのうちなんとなく一種類一種類の植物の違いが見えてくる。繰り返しガイドである森の先住民にも植物を現地語名で教わる。下手ながらも、葉や果実、花のスケッチをする。そうしたことの積み重ね。やがて同じ森の中にもいくつかの森林タイプがあることがわかる。ついには森の全体の構造も見えてくる。そのゆっくりとではあったが、不得意に思っていたことがそうでなくなり、森全体が見渡せていくようになっていく感覚が自分でわかる。そして、次第に、毎日森を歩くこと自体が楽しくなってくる。

1989年度の第一回目にあたる半年の調査は終わりに近付いてきたとき、当時住んでいた京都の風景が思い起こされてくる。その生活が現実的感覚でもどってくる。しかし気持ちとしては、もはやンドキになっていた自分に気づく。仮に日本に戻っても、必ずしやンドキの風景を思い出し、ンドキに戻ってくるぼく自身の姿を思い浮かべる。

それで、25年後の今もぼくはその現地にいるのである。

▼花

少なくても何千種類もあるといわれているンドキの森の植物。当然のことながら花もそれ相当の数の種類がある。でも実際目にすることができるのは限られた種類だ。多くは高い樹冠で花を咲かせそのまま散ってしまう。それで見ることができないのだ。われわれが間近に見られるのは、背の低い木や草本類の花がほとんどだ。

熱帯の花というと、エキゾチックでカラフル、あるいは毒々しい色をした花で満ち溢れている、と想像されるかもしれない。しかしアフリカの熱帯林には、東南アジアにあるラフレシアのような巨大な花もないし、多くは地味な色をして、小さく、においもあまり特徴的でないものだ。そんな中で、香りで惹きつけられる花は数種類あった。

ひとつは黄色い花弁をもつ最大直径5cmくらいの花。高さ10mくらいのわりと小さい木から落ちてくる。さわやかなにおい。フレッシュさを髣髴させるにおい。きっとこれで香水を作ったら若い女の子にぴったりかもしれないと、森の中で想像したりする。もうひとつはマメ科の現地語名“ベンバ”の花。

ベンバの花;指と比較して花弁の大きさがわかる©西原智昭

ベンバの花;指と比較して花弁の大きさがわかる©西原智昭

ベンバといえば大木だ。季節になると枝の先という先にふんだんに咲く。色は赤紫色で、小さい。しかしベンバはその純林を作るので、その時期には林床一面にその花が見られ、森の中はその香りで満ちる。これも香水として十分通用しそうな香りだ。対象女性の年齢層としてはもう少し上が適切かもしれない。

一度だけぼくは地上に落ちているベンバの花を集めて、それを束ねてそこから花汁を絞り出した。そうして得られた液体からはまさにその花の香りがする。あらっぽい製造法による香水にほかならなかった。しかし防腐剤もなにももっていないキャンプ生活では、その日のうちにはその液体も腐り始めた。だからそのにおいをいまだ日本に紹介することはできていない。ことばだけでにおいを人に伝えることはいかにむずかしいことか。

▼ひとりぼっち

よく人々はぼくにこう問いかけてくる。「奥地の森に入ってさびしいことはないですか」。今でこそ、国立公園管理基地などでの事務仕事が多くなったが、初期の何年かで、熱帯林の中でのテント生活はこれまで通算しておそらく1,500日程度だと思う。そのうち、ガイドとして雇っていた先住民なしで、完全に一人で過ごしたのは、おそらく10日にも満たないであろう。ほかに日本人や外国人、コンゴ人の研究者などが出入りしていたときもあるが、現地の先住民とだけ一緒という日々が圧倒的に多く、むしろそういうときがたいへん気楽であったのは覚えている。だから孤独による寂しさを味わったことはほとんどないといってよい。数ヶ月もたてば現地のことばに慣れ、先住民ともことばによる問題は次第になくなっていったので、日常会話にも事欠かなかった。

コンゴ共和国は日本から見れば地球の裏側であるし、ただでさえ場所は人里から遠く離れている。いちばん近い村まで30km以上あったし、交通手段も当時は数日かけての徒歩しかなかった。もちろん郵便局もなければ、電話もない(衛星電話や衛星経由のメールが使用できるようになったのはごく最近のことだ)。無線機すら持っていなかった。ラジオの短波放送でも聞かなければ外からの情報は一切ない。

緊急の用事(たとえば村住まいの先住民の家族の訃報等)があって村からまさに飛脚のようなメッセンジャーがくることを除けば、完全に外から遮断された状態であった。ときには、村に出る先住民に託し日本への手紙を送り出したこともある。彼は村に着いてうまくだれか外国人などがつかまればその手紙を渡すのである。そしてその人がどこか郵便局のある都市や町からそれを航空便で出す。逆に日本から首都ブラザビルに着いた手紙にしても、だれかがボマサ村まで来る機会があるにせよ、誰かがキャンプに来ることがなければ、受け取る由もないのである。

今でこそコンパクトな衛星電話による直接通話やメールの送受信は奥地のキャンプ地でも当たり前になりつつあり、無線機を常設しているところも多い。しかしぼくがコンゴ共和国に入った当初、コミュニケーション手段がきわめて限定されていたという点では、情報過多の都会から考えると、極めて寂しい世界が想像されるのかもしれない。同じキャンプ地に日本人がいなければ、日本語を話す機会もない。面白くないラジオ・ジャパンなど無理に聞きたくなかったので、日本語を聞くことすらない。

でもニュースがないという状況も悪くない。世界から取り残された感じだが、一方で、何かに気をもむことなく、自分がやるべきことに集中できる。一方で雇っていた先住民への憂慮は常にあった。というのも、彼らは村に嫁・子供など家族をおいてわれわれのためにガイドとしてついてきてくれるのだ。彼らにとって村から遠いところでキャンプ生活するということは家族の消息を知りえないということになる。そこで、彼らには一定期間ごとのローテーションを決め、定期的にメンバーを交代するというシステムを確立した。

ただいつも死と隣り合わせだという覚悟はあった。身近にいる先住民たちにはそうなってほしくはなかったが、ぼく自身はそうした気持ちは常に持っていた。30kmというキャンプ地から村への距離。交通手段は徒歩しかない。しかも歩行困難な3箇所の沼地を超えなければならない。もし大けがや大病をすれば、村にすら辿り着けず死に至りかねない。よほどのときは莫大なお金をかけてヘリコプターでも呼べねばならぬだろうが、アレンジには相当数の日数はかかるであろうし、かなり非現実的な解決の選択肢であることは間違いない。

▼恋しいもの

「そんなに長くいて、日本のことや食事が恋しくなりませんか」という質問も多い。

川での水浴びも気持ちいいものだ。でもときおり学生時代から毎日のように通った京都の銭湯が恋しくなることはある。日本食では恋しくなるものはラーメンくらい。しかしそれほど渇望しているというほどのものではない。たまにスパゲッティでラーメン代わりのものを作ったことはある。日本から持ち込むものは、梅干、乾燥わかめ、乾燥味噌、醤油くらい。お酒については、のどがカラカラになったとき、冷たいビールはよく頭に思い描いていた。でも、それだけだ。「ないものはない」と割り切れば特に問題はない。

日常のささやかな楽しみは、寝る前の数10分小説を読むこと、そして寝ている間に何か夢を見、それをノートに書き留めること。

森での生活というのは、すぐにでも逃げ出したくなるような荒唐無稽のものではない。少なくともぼくにはそうであった。

(続く)

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