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【NPJ通信・連載記事】一水四見・歴史曼荼羅/村石恵照

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平和に生きていたアフガン人はどこへ行ったのか?

2021年9月4日


 1979年、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻した。
 2001年、米同時多発テロ後、米軍がアフガニスタンを空爆した。

 2017年 4 月13日、就任間もないトランプ大統領が「全ての爆弾の母 (Mother of All Bombs) 」をアフガニスタンに実戦使用した。
 アメリカ空軍が開発した通常兵器としては史上最大の破壊力を持つとされる爆弾だ。
 場所はナンガルハール州アチン地区にある ISIL のトンネル施設 (アメリカ国防省発表) 。

 この攻撃で ISIL の戦闘員とみられる90人以上が死亡。この攻撃は地下要塞を複数持つ北朝鮮への牽制、との情報も。

 そして現在、タリバンが地方都市を制圧し首都カブールに侵攻、アフガニスタンは内乱的状況にある。

 では平和なアフガン人たちが、これまで一体何を犯したというのだろうか。

 安全な日本にいて、やりきれない思いなどというのは現地で悲惨を体験している人々にとっては戯言である。

 が、私のやりきれなさは、近代西欧知識人のいまだに懲りない、覇権性の歴史認識に根本的に疑義を持たない知的怠慢に対してである。

 欧米の一流大学を出た人材が集まる様々なシンクタンクで検討されている議論は、基本的に覇権性の情念に根ざした功利的イデオロギーにもとづいた戦略や戦術ではないのか。

 そして戦争とは、覇権性の情念の具体的行動である。

 大多数の近代西欧知識人や宗教家は、死刑制度は残酷だとしてそれに反対するが、一貫して戦争反対、武器製造に異議をとなえた西欧の識者を、寡聞にして私は知らない。

 そして現在、透明なコロナウイルスが地球を包みこんでいる最中、アフガニスタンを中心にして大国の覇権が渦巻いているようだ。

* * *

 1968年11月から1969年 3月まで、私はインドの仏跡を中心に南アジアを旅していた。
 その途中でインドのニューデリーを北上しフィロゼプール駅からリキシャ (人力車) で印パが対峙している国境に行きパキスタンへ入国。ラホール出発してパキスタンを列車で横断してペシャワールへ。そこからバスでカイバル峠を越えてアフガニスタンのカブールに行った。

 1975年、神田神保町で小出版社を経営していてインド関係の書籍を輸入する仕事の関係でインドを訪問中、急遽アフガニスタンを思い出してニューデリーから空路カブールへ行った。

 滞在日誌を記した万年筆書きの二冊のノートブックと写真のアルバムを久しぶりに見て、往時の人々の笑顔を懐かしく見ながら、やりきれない気分になった。

 誤字やいい加減な記述もあるがそのママに、1975年のカブール訪問日誌の一部を以下記す。

(1975・06・02) アフガニスタン・カブール:
 ニューデリー空港からアフガンエアラインでカブールへ。久方ぶりのカブールは、想像したよりも美しい街である。デリーから飛んで来たからかもしれないが、とにかくインドとは違った別世界を感じさせる。

 気温は23度くらいで乾燥しておりいたってしのぎやすい。少々腹に変調をきたしていたが、かって経験した症状であるので不安は少しもない。カブール空港では US$5 を払いビザを取得し,タクシーでインターコンティネンタルホテルへ。(タクシー代100AF) 1AF、約 5 円。ホテルは東京のホテルニューオータニと同等の立派なものでホテルから見渡す景色はまことにすばらしい。・・・

(1975・06・03) アフガニスタン・カブール:
 5 時ごろ目覚めると朝もやのかかったカブール市内が見渡せた。10時ごろホテルの前に待っていた政府のタクシーで市内見物にでかける。 2 時ごろ一旦もどりいっぷく。タクシーでもう一度市内見物。バザールは相変わらずの活況で、数世紀以前もかくの如しと思わせる昔ながらの風物、風俗がみられる。シシカバブを焼く店、毛皮、飾りもの、肉、カーペットを売る店。ロバに乗って行く行商人、チャドルをつけた女たち。

 夕方ホテルについていっぷくして気がついたが、ショルダーバックに入れた財布を盗まれた。すべて航空券もいっしょである。バザールで写真をとっている際、ショルダーバックの口を時々交換レンズを入れかえるために開けたままにして起き、財布を上の方においていたのでスリにやられたのかもしれない。
 幸い T/C と現金の余分は別にしておりパスポートも安全であったので、ひとまず安心であったが、インドルピーと US$ 等、総額にして150ドルぐらいであろうか。但し航空券は全部やられてしまった。

(1975・06・04) アフガニスタン・カブール:
 朝 9 時にホテルを出発、タクシーで再度カブール見物にゆく。たまたま雇ったドライバーがいい男で、この日は彼の家庭に招かれたり、カシミールのような風光明媚な郊外へドライブして夕方すぎまで、あちこち見物。
 インドのデリーと比較するとどこまでもきれいな絵ハガキになるようなところばかりである。
 人種的にも日本人と似たような顔をした者や、まるでヨーロッパ人のようなのやら色々まじっていて興味深い。

 カブールの学校では、ロシア語が教えられているというから、ソ連の影響力もかなり強いと思われる。
 又ドイツ人の観光客も多く、街にはフォルクスワーゲンが多くみられる。
 ソ連、パキスタン、中国、イランに囲まれているせいか、まことに人種的又輸入品からみると国際的である。又、子供たちの顔立ちが非常によい。又、日本人に対して非常に好感を持っているのが感じられ、彼等は総じて自分たちはヨーロッパ人よりアジア人であるという自覚のもとに、日本人もアジア人の同胞とみなしているか、そうみなしたい気持がある様に思える。

 中国語のノートブックを小学生が持っている所を見ると中国の影響も多少あるのだろう。ともかく同じ国際都市でも香港やシンガポールとは違った趣を持っている。
 国全体がのんびりしており、もちろんバザールやどこかではスリやカッパライはいるだろうが、とにかく人のよさを感じさせる。

(1975・06・05) アフガニスタン・カブール:
 朝、昨日に雇った Mr ◯ ◯ の車で空港に向い、通常の如く空港のチェックを終えて、アリアナ・アフガン・エアラインで一路デリーへ向かう。かなりの低空飛行のためアフガンの地勢が一目瞭然とわかる。
 乾燥した山岳や丘陵のつづいた土地である。が、次第にパキスタンに入り、インドに近づくにつれて、かなりの高空にまで、インドの砂塵が舞い上がってきている・・・

* * *

 3 日間のアフガン滞在であったが、1975年の往時を思い出して、これだけ多民族が同居し、部族的伝統が支配し、古代と現在が日常生活でごったになっている部族社会に、なにかのんびりしたカブールの状況に、改めて別世界を感じた。

 市内では荷物の運搬にはロバが活躍していた。

 伝統的イスラム教のチャドルを身につけた女性たちとパンタロンの女性たちが、違和感なく歩いていた。

 こんなものまで路上で販売、と言うより、これは一体なんだろう。

 カブールの人々は写真を取られることに嫌悪感を持たず、笑顔で被写体になってくれた。
 ちなみに現地でのコミュニケーションは、すべて片言の英語である。
 しかし片言英語さえ通じない場合が多かったが、若気の至りで、なんとかやりくしたのだろう。

 市中の空き地での射撃ビジネス。料金を払えば射撃ができる。私に向かって笑っている男性の営業。

* * *

 以上、約半世紀も前のささやかな個人的カブールの記憶を記して見た。

 最初にカブールを訪れたのは52年前、再度の訪問は46年前、中心地に限れば現在のカブールは一変して大都市の様相になった。東京の街路が嫌になるほどせせこましく見える。

 8 月22日現在、Youtubeで検索すれば、カブールの市街の状況やアフガニスタンからの出国を求めて人々が空港に殺到している光景が飛び込んでくる。

 マスクをしている姿はほとんど見られない。マスクどころの状況ではないだろう。

 「全ての爆弾の母」に痛めつけられたアフガンの人々と、アフガン在住者に対する安全の確保と物的支援が必要なことは当然であるが、人道や人権の名の下に様々な形の政治的介入がなされてはならないだろう。

 アフガンの混乱と悲惨は、新たな展開を迎えて世界に疑問をなげているが、その疑問の根本的原因に西欧の覇権の知性は気づこうとしていないようだ。
 46年前、カブール市街を少し離れると遊牧民の世界だった。いまはどうだろうか。

 あの時、わたしを家庭に招いてくれたタクシーの運転手の家族たちは、今どうしているだろうか。

 少年だった君たちは、いまどこにいるのだろうか。元気でいてほしい。

 少女だったあなたたちは、いま何をしているのだろうか。
 幸せであってほしい。
 君たちがなぜ不幸な目に合わなければならないのか。
 近代西欧の知性とは、いったい何なのだ。
 不条理ではないか。
 君たちが、いったい、なにを犯したというのか。

(2021年 8 月22日村石恵照・記;本コラム掲載写真;June 2 – June 5,1975・筆者撮影)

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