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【NPJ通信・連載記事】音楽・女性・ジェンダー ─クラシック音楽界は超男性世界!?/小林 緑

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クラシック音楽の問題点 (19)
「風の時代」のクラシック音楽

寄稿:谷戸基岩

2022年9月23日


 前回、本連載の記事を書いた時はまだ新型コロナの世界的な感染爆発が始まる前だった。思えば2020年 1 月15日にサントリーホールで下野竜也指揮読売交響楽団による、ロシアの現代作曲家ソフィア・グバイドゥーリナの「ペスト流行時の酒宴」という曲の日本初演を聴いた時にも、「凄い曲だなぁ。人類への警鐘のような意味合いがあるのかな・・・そういえば中国で新しいインフルエンザが流行っているみたいだけど・・・」などとまるで他人事のような感想しか抱けなかった。しかし 2 月下旬から新型コロナの感染拡大でコンサートの中止がポツポツと出始め、 3 月になると行く予定にしていた29公演のうち24公演が中止になるという有様だった。その後も 4 月、5 月、6 月は 0 公演、7 月、8 月にようやく 2 公演ずつ、 9 月にやっと10公演まで回復し最終的に2019年12月~2020年11月までで114公演しか行けなかった。翌2020年12月~2021年11月に関しても153公演に留まった。
 私が本稿で活動報告の一環として「コンサート・ベスト・テン」を書く条件として自分に課しているノルマ年間240公演を大幅に下回る状態になり、本連載に関して筆を擱かざるを得なかった。コンサートの実演がもたらす刺激もその頻度が減り、このクラシック業界の未来がどうなるのかも自分の中では想像すらできなかった。そんな状況下、海外で発売されるCDやDVDの刺激的なソフトについての紹介記事を書くこと以外に、何かを語る意欲が薄れてしまいますます筆を執る気持ちになれなかった。
 と同時に2020年 5 - 7 月にかけては非常勤講師を務めている尚美学園大学の担当授業が完全にオンラインになり、これまで口八丁手八丁で話していた内容をしっかりと文章化せねばならなくなり大変な思いをした。これまで授業で観賞用に使ってきた様々なソフトの代わりにYOUTUBEの音源や映像を使うことになったため、その調整でも苦労した。ただお陰で、YOUTUBEで鑑賞できるクラシック音楽のレパートリーの広さ、質の高い音源・映像も少なからずあることを知ることが出来たのだが・・・。

 新型コロナ流行の波が繰り返される中で中学時代から親しんで来た西洋占星術の本が2020年12月22日の木星と土星のグレート・コンジャンクション (大会合) を境に「地 (土) の時代」から「風の時代」へと約220年毎に起こる時代の変化を予言しているのに気がついた。それを読み、そして21世紀になってからも続く終末観・閉塞感を考え合せると、私は新型コロナの流行は「地の時代」を強制終了させるための天命ではないかとする考え方に大きな説得力を感じざるを得ない。「地の時代」は1802年に始まったとされており、所有、蓄積、効率化などがキーワードとされているからだ。ちょうどアメリカ合衆国がその領土を様々な手段を使って拡大し、産業発展し、政治的、軍事的、経済的な側面で世界への影響力を増大させていった時代と一致する。では「風の時代」にはアメリカ合衆国が内部崩壊するのだろうか ? 様々な深刻な社会的分断を抱えており、州ごとの自治権が強い、銃社会の国だけに何が起こるか判らないのではないだろうか ? 
 「地の時代」における過剰なまでの産業発展がもたらした「地球温暖化」と深刻化する「気候変動」も「地の時代」を強制終了する大きな圧力となるのではないか。特効薬はないだけにより深刻だ。そして過度な産業効率化をもたらした経済的なグローバリゼーションの弊害。ウクライナ戦争は安易なグローバリゼーションの拡大・依存がいかに危険なものであるのかをいやが上にも実感させた。
 微生物学者でエコロジストのルネ・デュボスは「文明というものは、一般的に、初期段階においてその繁栄に貢献したいくつかの特性の過度な発展によって消滅する。我々の産業文明の形態は、専門家たちに、生活の質ではなく、発展の効率を成功の本質的な基準とすることを許したことの報いを被っている。・・・我々の時代の邪悪な力はテクノロジーそれ自体ではなく、手段を目的と考えてしまうような我々の性向なのだ」と述べている。
 過度な所有、過度な富の蓄積、過度な効率化・・・望むと望まないにかかわらず、こうした傾向に歯止めがかかるのが「風の時代」なのではないだろうか。私にはそう思えてならない。

 それゆえに、これからの時代の大切な行動指針は恐らく次のように要約できるのではないかと思っている。全く個人的な考えではあるが・・・。
① 国、社会、会社の部品として生きるのではなく、個人として感じ、考えて生きる
② 地球規模で考え、地域的に行動する
③ 手段を目的と考えたがる性向を戒める
④ 小さく生きることを恐れない

 さて、音楽の産業化が始まったのもちょうど「地の時代」と考えることが出来るのではないか。18世紀以前はそれぞれの都市、地域の領主、宗教指導者などのために作品を書くというのが基本的な音楽の「在り方」だった。しかし19世紀以降の市民社会の発展に伴って不特定多数の人々にコンサート興行、楽譜販売、個人や音楽教育機関などでの指導・・・を通してビジネスを行うという形態に変化して行った。それから約 1 世紀の間に演奏される楽器も、コンサート会場の環境も大きく変化して行ったし、音楽ジャーナリズム、音楽学といったマスメディアや教育の場を通して価値観を規定していくシステムも徐々にその存在感を高めて行った。
 やがて19世紀末に起こった録音機器の発明によって、クラシック音楽はその「在り方」に大きな変化が生じることになった。私たちはそれが存在することを前提としている時代に生きているため、「録音が無かった時代」のことを想像するイマジネーションに乏しい傾向がある。一例を挙げるなら、録音が存在しなかった時代には「ある種の音楽」に接するためにはそれが実際に演奏されている空間に行かなければならなかったのだ、という当たり前の事実をつい忘れがちになる。レコードが存在することによって、自分が住んでいる・生活しているのとは全く異なる社会・宗教・生活環境・階層、さらには時代の音源にも私たちは接することが出来るようになったのだ。20世紀初頭にはフレッド・ガイズバーグのように初期の録音機器を携えて世界旅行を行いながら膨大な音源を蒐集したレコード制作者まで現れるようになっている。
 もうひとつ忘れてはいけないのは19世紀末から20世紀初頭にアメリカ合衆国でレコード産業の発展に大きな貢献を果たしたのはそれまで活躍の場が制限されていた黒人音楽家たちだったこと。そうした中、未だに人種差別が強く残っていた同国で上流階級の人々が彼らの音楽に接する機会を与えたのがレコードだったのだ。クラシック音楽業界にとってのビジネス上の脅威、競合相手となるポピュラー音楽産業はそうした録音、レコードの発展と影響力の拡大によって20世紀における音楽史の主役に躍り出るようになった。
 さらに約100年前に起こったスペイン風邪のパンデミックの後に音楽を支えるテクノロジーは飛躍的な発展を遂げた。マイクロフォンの登場がその幕開けだった。それまでのアコースティック録音に代わって電気録音が登場し、SPレコードにおける音の解像度が飛躍的に改善。さらにはラジオ放送が開始された。テープレコーダーの発明、LPレコード、ステレオ録音、PCM録音、CD、ネット配信と続く録音テクノロジーと音楽ソフトの「在り方」の変化もそれぞれの音楽ジャンルにおける音楽の在り方に多大な影響を与えて来たことは間違いない。
 クラシック音楽業界は「地の時代」の最初の100年ほどはそうしたテクノロジーとは無縁に産業発展してきた。ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、ショパン、シューマンといった作曲家たちの録音は遺されていないし、当時の人々が彼らの作品をどのように演奏していたかを伝える音源もない。これに対して主に20世紀ポピュラー音楽の場合には「その作品が世に知られるようになるきっかけとなった音源」が多くの場合に存在する。仮にそれらを「音の原典」と呼ぶことにしよう。クラシック音楽業界が抱える大きな問題は、「地の時代」の後半、すなわちポピュラー音楽との競合が始まった20世紀以降においても、作曲者が自ら積極的に関与して「音の原典」を作ろうとしなかったことではないか。もし仮に「音の原典」に相当するような音源があったとしても、「録音が古い」、「今日とは演奏様式が違う」などと難癖をつけて「音の原典」とは認めたがらなかったのだ。つまり「録音」を作曲家やアーティストのプロモーションには使うくせに、「この曲の『音の原典』を作って世に広めよう」というポピュラー音楽の手法 (すなわち「録音が存在する時代の原典の作り方」) を取り入れようとしなかったことが問題なのだ。19世紀以降ずっと楽譜の販売が業界の基幹産業であったがゆえに、「音楽は本来、楽譜を基に演奏・再現されるべきもの」という考え方から脱却できなかったとも考えられる。そのために電気録音時代以前 (1920年代半ば以前) のアコースティック録音期には自動ピアノによる録音も含めて、作曲者自身が関与した、あるいは同時代の音楽趣味を良く理解した人々による録音が多々遺されているにも拘わらず、そうしたものが重視されず、同時代の現役演奏家や若手音楽家たちの新録音ばかりがもてはやされるという状況が1980年代半ばまで続いて行った。
 幸いなことにCDの時代になって、新録音へのある種の手詰まり感もあってか、こうした古い録音への関心がこれまでになく高まり復刻盤が多数発売されるようになり、さらにYOUTUBEの登場によってこうした古い音源へのアクセスが更に容易になってきた。これも「風の時代」の先駆的影響なのであろうか・・・

 かくして「風の時代」には恐らく、次のようなことがクラシック音楽業界には起こるのではないだろうか・・・これは私の希望的観測に過ぎないのかもしれないが・・・

① 19世紀に形成され20世紀以降にひとつの神話として定着している「音楽史」をもっと多様な価値観、幅広い視点から再構築する必要が生じる。現代人のではなく、それぞれの時代の人々の価値観や趣味を尊重した音楽史の形成が急務となる。さらに全ての音楽ジャンルを内包する「音楽史」が形成される。
② 様々な楽器の19世紀における変遷を「進化」とは考えず「変化」ととらえ、それぞれの良さを再評価する運動に勢いがつく。
③ 「地の時代」に盛んに喧伝された「国家が推奨する情操教育に良い一般教養」といった位置づけではなく、本来あるべき「好事家の一趣味」としてのクラシック音楽への回帰が加速する。
④ 現役のクラシック音楽の作曲家も、たとえそれが現代音楽業界に向けられたものであっても、演奏に供される楽譜と同様に常に「音の原典」の制作を心がけるようになる。
⑤ 国家、自治体や大企業による関与が減じられ、「持続可能なクラシック音楽」の在り方が真剣に考えられるようになる。

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