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【NPJ通信・連載記事】ビーバーテール通信―カナダから考える日本と世界―

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ビーバーテール通信 第14回
 日系カナダ人はなぜ「根こぎ」にされたのか

2023年7月6日

小笠原みどり(ジャーナリスト、社会学者)

 初めて「日系人」という言葉を聞いた幼いとき、誰のことなのかイメージが浮かばなかった。髪は何色? 言葉は何を話す? 大昔に日本からヤシの実のように流れていって、どこかに辿り着いた人たちの子孫? 日本人ではない、でも外国人でもない。実際、日本で「日系人」は日本人と同様には扱われていない。他者扱いされている。では、日本の外に出たらもう日本人ではないのか? 日本人は移動しないのか? いや、世界のあちこちで暮らす日本人がいるこの時代、移動する人々を含まない「日本人」の観念は、とても狭く、現実とかみ合わない。私はもう20年近く、カナダと日本を行ったり来たりしている。子どもはカナダで生まれた。あら、移動する日本人=日系人って私のこと? 

カナダ・ブリティッシュ・コロンビア州バーナビーにある日系文化センター・博物館 = 同館のホームページから

 2月下旬の週末、バンクーバー都市圏の南東部バーナビー市にある「日系文化センター・博物館」を訪ねた。周囲には、中国語、朝鮮語、日本語、ベトナム語の看板が賑やかに立ち、活気にあふれていた。この博物館で「Nikkei」は「日本に祖先を持っている人、または日系人であると自認している人」とシンプルに表記されている。カナダに移住した最初の日本人として記録されているのは、1877年にバンクーバーに到着した永野萬蔵(長崎県出身)なので、祖先といっても「ご先祖様」というほど昔ではない。この150年の間に日本から移り住んだ人たちが、主な「日系カナダ人」といえる。

 私が暮らしているブリティッシュ・コロンビア (B C) 州は、太平洋戦争が始まるまで、カナダに移住した大半の日本人/日系人が暮らしている場所だった。1880年代から、単身で、家族で、村や地域のつながりで、または契約移民として、カナダに来る人は増え続け、漁業、林業、鉱業、農業などの肉体労働に従事した (この歴史は、和泉真澄著『日系カナダ人の移動と運動 知られざる日本人の越境生活史』=小鳥遊書房= に詳しい。以下の歴史的記述も、多くはこの本に負う)。ダウンタウン・バンクーバーのパウエル街は、日系コミュニティーの中心地として栄えるようになった。だが、1945年の真珠湾攻撃をきっかけに、B C州に暮らしていた日本人/日系人約2万2000人は、カナダ内陸部に強制移住させられ、その多くが収容所に入れられた。私はB C州に越してくる前、北オンタリオをキャンプ旅行中に、日系人男性たちの強制労働現場に建てられた記念碑を見つけ、衝撃を覚えた (本連載第9回)。

 家族で訪ねた日系文化センター・博物館は、ちょうど週末の催し物を開催中で、たこ焼きやクレープなどの出店が出て賑わっていた。わが子はマンガ古本市へ直行し、3、4時間入り浸っていた。その間に私は、強制収容についての展示をじっくりと見る。

1942年、第二次大戦開戦直後に行われたカナダ西海岸からの強制立ち退きの手続きを示すフローチャート。西海岸から100マイル (160キロメートル) 以内に住んでいる日系カナダ人は、立ち退かなくてはならなかった =以下の写真はすべて日系文化センター・博物館で、撮影は溝越賢

 カナダ政府は真珠湾攻撃の直後に日本に宣戦布告し、戦時措置法によって「日本人種」
(Japanese race)の血を引く者はすべて「敵性外国人」だと宣言した。対象となった2万2000人のうちの75%はカナダ生まれで、他のカナダ市民と同様、イギリス臣民の法的地位を持っていたが、市民権の有無や年齢にかかわらず、全員が政府に登録を義務づけられ、行動を制限された。1942年2月には、太平洋沿岸から100マイルの「保護区域」から退去するよう命令が出た。「国家安全保障」上の理由からだったが、実際には日系人がスパイ活動をしたり、日本を支援したりしている証拠はなく、何の脅威でもないことを警察が表明している。にもかかわらず、人々はスーツケース一つに詰め込めるものだけを詰め込んで、警察の監視の下、わが家を追われた。住宅、農場、商店、船、車など、後に残された個人の財産や所有物はすべて、「敵性資産管理局」が信託管理するという約束だったが、1943年から所有者の同意なしに、市場価格以下で売却されてしまった。

 博物館の壁面に、体験者メアリー・ハラガさんの言葉が記されていた。「指紋や写真を取られ、『外国人』登録番号を与えられました。  (中略) 私にとって最悪だったことは、自分の国から敵性外国人であると言われたことでした。私はカナダの国を愛するカナダ人でしたが、敵と同じ顔をしていたのです。」

敵性外国人とされ、登録証を義務付けられたことについての日系二世の証言

 18―45歳の単身男性の多くは、カナダ横断高速道路 (Trans-Canada Highway) の建設現場へと駆り出された。私が遭遇した北オンタリオ・スクライバーの労働キャンプはその一つだったのだ。女性や子どもの大半は家族ごとに、B C州の内陸部の廃鉱になった鉱山の町や街から隔離された場所に送られ、自ら建てた収容所で暮らした。家族と離れることに抗議するなど抵抗した人たちは、北オンタリオのアングラー捕虜収容所に送られた。

 これら何の罪もない人々への強制的な隔離と収奪は、日本が無謀な戦争を始めたことが引き金となって引き起こされた。とんだとばっちりだ。けれど、戦争という非常事態下では、仕方なかったのだろうか? 移動する日本人=日系人である以上、疑いをかけられてもやむをえなかったのだろうか? 

 カナダ政府は戦争中、日本と同じ枢軸国側であったドイツ、イタリア出身のカナダ市民も収容した。が、その数はドイツ847人、イタリア632人で、日系人のように全集団ではなかった。共産主義者100人も収容されている。国籍に基づく「敵性外国人」の烙印だけで、カナダ市民を含む日系人の大規模集団隔離を説明するのには無理がある。

 実は、B C州には長きにわたるアジア人差別の歴史がある。1871年にカナダに参入したB C州は、その4年後にまず先住民族と中国人移民の選挙人登録を禁止し、ヨーロッパ系入植者と同等の政治参加権を封じた。その一方で、北米大陸の東海岸側とを結ぶカナダ太平洋鉄道の建設に、1万5000人以上の中国人を白人よりも安い労働力として雇い、ロッキー山脈の工事現場など危険な作業に投入した。増えていく中国人労働者に対し、この頃から白人移民の間で「黄禍論」が起き始める。1885年に鉄道が完成するや、政府は中国人だけに一人50ドルの「人頭税」を課して移民を厳しく制限した。その労働力不足を埋めるようにして日本人移民が増えると、白人移民の敵意は日本人にも向かった。1895年、先住民族と中国人に加えて、日本人移民も選挙人登録を禁止され、医師や弁護士など社会的地位の高い職業からは排除された。

 1907年9月には、バンクーバーのパウエル街を中心とする日本人居住区と中国人街を白人たちが襲撃する暴動が起きた。「ホワイト・カナダ」を掲げる「アジア人排除連盟」支部の集会で、政治家、宗教家、労働組合幹部らがアジア人移民の全面停止を求めた直後だった。日系人が多く勤めていた製材所や日本人学校も放火された。

 その25年後、戦争開始とともに日系カナダ人だけが強制収容所に集団隔離され、所有物を奪われたのは、この人種差別の歴史を抜きには理解できない。バンクーバー中央選挙区選出の国会議員で、戦争中の内閣でB C州代表を勤めたイアン・マッケンジーは1922年の時点で、すでにこう発言している。「私たちは経済的には彼ら(日本人)とは競えない。人種的には彼らを同化することはできない。(中略)だから私たちの中から彼らを排除し、土地を所有することを禁止しなくてはならない」(Jordan Stanger-Ross. 2020. Landscapes of Injustice: A New Perspective on the Internment and Dispossession of Japanese Canadians. McGill-Queen’s University Press.
P. 4)

 戦争という緊急事態はこうした白人至上主義者たちに、願いを叶える絶好の機会をもたらした。戦時措置法は、内閣に議会の審議や承認を得ず、独断で政策を進める権限を与えた。マッケンジーは戦争中、退役軍人大臣に就任し、強制売却された日系人の土地を戦場から戻ってきた兵士たちの住宅対策に当てた。その正当性を主張するために、彼は日本人がいかに「同化不可能人種」かということを再三強調している。カナダの一見、民主主義的な制度は、実は「人種」によって参加が制限されてきたのだ。

 日系カナダ人たちの強制収容は、最近の言葉では「根こぎ」(Uproot)と表現される。移民した地域で根を下ろし、コミュニティーを形成していたのが、そこで築いた人間関係や財産もろともに、生きていく基盤を失ったからだ。国境の南側、アメリカでも同様に日系アメリカ人が戦争中に強制収容されたが、財産の没収は少なかった。日系カナダ人にとっての困難は、家や船や農場を二束三文で売り払われたことで、帰る場所を失ったことだ。その上、根こぎ政策は戦後も続いた。日本の敗戦によってカナダ政府は強制収容所を閉鎖したが、多くの日系人を「本国送還」の名の下に日本へ追放した。「本国送還」された4319人のうち、45%は子ども、つまりカナダで生まれ、日本には行ったことのない人たちだった。日本へ行っても生活の基盤がなく、敗戦後の食糧難で、その後カナダへ戻った人も多い。カナダ政府は、カナダに踏みとどまった人たちにはロッキー山脈の東側へ移住するよう求め、B C州へ帰ってくることを事実上禁じた。1949年に選挙権を獲得するまでの合計7年間、日系カナダ人は移動を制限される人種隔離政策の対象になったことになる。

 博物館で読んだススム・タバタさんの体験は、この戦後の出来事だ。「1946年私は、サンフランシスコにあるカリフォルニア大学バークレー校に申し込み、入学許可が下りました。しかしカナダ政府がアメリカへの移動許可を発行しなかったため、行くことができませんでした。私は敵性外国人と呼ばれました。1947年にバンクーバーのブリティッシュ・コロンビア大学から入学許可を得て今度は行くことができましたが、警察に届けて移動許可証をもらわなければなりませんでした。」

イリザワ・タカオ氏の登録証。指紋のほか、身長や体重などの情報が記されている。

 「人種」にもとづく政治は、戦争が終わったからといって終わらなかった。が、散り散りにされた日系カナダ人の共同体はその後、カナダ生まれの2世たちを中心に政府の不当な扱いに対する賠償を求める運動を開始し、1988年に政府から「カナダが日系カナダ人の人権を侵害した」という公式表明と、一人当たり2万1000ドルの賠償を勝ち取る。「人種」をめぐる権利のたたかいは、今も様々に続いている。

 博物館を去る間際、スローカン・シティの強制収容所で生まれたというミキ・ヒライさんの話が聞けた。ヒライさんは戦後の送還船で、両親とともに日本へ渡ったが、敗戦後の日本で暮らしを立てることは難しく、カナダへ戻った。初めは理容師として、その後は水産業界で働き、やがて安定した生活を築くことができたという。バンクーバーで子どもや孫に囲まれて「人生でいまが一番幸せなとき」と話す。けれど「何があっても戦争はやったらいけない」ということだけが言いたくて、博物館の展示場に立ち、来る人たちに自分の体験を語っている。

「カナダは戦争に勝った側。勝った側でも、私の両親や日系人たちはすべてを失い、多くの苦労をしたんだから。私は日本語も中途半端、英語も中途半端。戦争をすれば、また私のような人間が生まれる。ウクライナの戦争も、すぐに止めなくてはいけないよ。」

〈了〉

 

 

【プロフィール】
小笠原みどり (おがさわら・みどり)
ジャーナリスト、社会学者、元朝日新聞記者。
アメリカの世界監視網を内部告発したエドワード・
スノーデンに2016年 5 月、日本人ジャーナリストと
して初の単独インタビュー。
18年、カナダ・クイーンズ大学大学院で監視研究
により社会学博士号を取得。
オタワ大学特別研究員を経て、2021年からヴィクトリア大学教員。
著書に『スノーデン ・ファイル徹底検証 日本はアメリカの世界監視システムにどう加担してきたか』(毎日新聞出版) など。

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