NPJ

TWITTER

RSS

トップ  >  NPJ通信  >  一水四見  シャルリー・エブド襲撃事件」をめぐって「フランスの自由」とはなにか?

【NPJ通信・連載記事】一水四見・歴史曼荼羅/村石恵照

過去の記事へ

一水四見  
シャルリー・エブド襲撃事件」をめぐって「フランスの自由」とはなにか?

2015年2月26日

「わたしは、あなたの語る言葉の一つにも同意するものではないが、あなたが、そのことを言う権利については死に至るまで擁護するつもりである。」

これはヴォルテールが ルソーに語った言葉だ。著名な知識人同士での表現の自由に関わるやりとりである。

***

世界中で次から次へと事件が発生しているので、マスメディアのショウウインドウではどんどんニュースという展示品を入れ替えている。

フランスの週刊新聞「シャルリー・エブド」襲撃事件(1月7日)も、あっと言う間にマスメディアから消え去ってしまった。

その後、「イスラム国」による日本人ジャーナリスト後藤健二氏(1月30日死亡?)ら二名の殺害殺害事件がテレビ画面で生々しく報道された。

しかしテレビ画面では、アフリカの某地域の飢餓のニュースの後にグルメ番組の画面が現われ、殺人事件のニュースの次にお笑い芸人が登場している状況だ。

フランスと日本とを問わず、被害者と遺族方には冷たい言い方だが、「シャルリー・エブド」襲撃も二名の日本人ジャーナリスト殺害も、現在、ほとんどの国民の日常的な記憶から消えていることだろう。

しかし「シャルリー・エブド」襲撃事件によって浮かび上がってきたことは、宗教に深く関わる近代西欧の「自由」の問題である。

***

いま手元にフランスのコイン(10F) がある。

自由・平等・友愛( LIBERTÉ, ÉGALITÉ, FRATERNITÉ)の文字が刻印されているが、特に「フランスの自由」の意味がゆらいでいるようだ。

フランス語もフランス文化にも疎い筆者には、フランス語 LIBERTÉ の複雑な文化的な意味合いについて語る資格がないかもしれない。

しかし、そういってしまえば世界の諸問題について、どの国の人も他国のことについてなにもいえなくなって不自由だ。

ともかく「フランスの自由」について一考してみたい。

「自由」そのものについてではない。これについて内容を吟味すると終始がつかなくなるので各国の国語辞書の標準的定義を採用する。

「フランス人の自由」についてでもない。

なぜなら国籍上の「フランス人」には貧しいイスラム教徒もいれば裕福なイスラム教徒もいるし、経験なカトリック教徒もいれば無神論者もいて、フランス国籍の人は様々な意見をもっているだろう。

「フランス人の自由」についてではなく、総じて「フランスの自由」について批判的に一考したい。

***

さらに「フランスの自由」について一考するのは、「自由」それ自体は一定の文化体系の中でしか歴史的現実性をもつ意味がないからである。

J.S.ミルが「自由」を論じても、それは、彼が生きたイングランドの歴史的現実に限定されていることは当然である。

西欧の思想家の説明を参考にして日本人が日本語で「自由」を理解しても、それは日本の歴史的現実に影響を受けている「自由」であることも当然である。

***

批判的一考の端緒は、フランスの歴史学者のエマニュエル・トッド氏の「広がる自己偏愛 シャルリー批判を封じ込めた違和感」(朝日新聞;2/15)の記事を読んだからである。

批判的一考の一端は、以前から感じていたことであるが、(私の理解不足と思うが)なぜフランスでは「平等」ではなく、「自由」を第一義的に考えるのか、である。

表現の自由というが、表現の平等といわないのはなぜか。

***

フランス革命以前に、アメリカの独立宣言(1776年7月4日)には、「全ての人間は、平等に造られており、彼らは造物主によって当然の不可譲の諸権利が付与されており、その中に生命、自由、幸福の追求があることを自明の真理とする」という趣旨が書いてある。(“We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty, and the pursuit of Happiness. ”)

ここで「全ての人間;all men」は 人々一般(people in general)であって成人男性ではないことは納得されるが、しかし独立宣言の当時、黒人奴隷やネイティブ・アメリカンらが含まれていなかったことや、白人でも女性には選挙権がなかったことも周知のことである。

現在のアメリカの状況を鑑みれば、「自由」の意味が歴史的に改善された内容へと変容してきていることは明らかである。

暗殺されたマルチン・ルーサー・キングの “ I have a dream” の夢は正夢となってオバマ大統領によって一応象徴的に実現された。

***

ではフランスの国是である「自由・平等・友愛」はどうか?

「シャルリー・エブド」襲撃事件で顕在化してきたきたことは、「自由」が主導していて「平等」がその陰に隠れているように見えることだ。

このような傾向に権力の中枢にいる人々を含めてて哲学好きのフランス人の多数が「友愛」で団結したようだ。

パリでは、「言論の自由」や「テロとの戦い」を宣言するオラン ド大統領支持のデモに100万人以上が参加し、世界40カ国の首脳がパリに参集したと言われる。

世界の首脳(非民主的国家の代表者を含んだ権力側)と一般市民(通常は権力監視の批判側)が団結したデモによって擁護される「フランスの自由」とは、いったいどういうことなのか?

彼ら首脳たちは、自由と平等をどのように理解しているのだろうか。

(cf. 「シャルリー・エブド」を支持する抗議デモに参加した各国首脳、Twitterで偽善を暴かれる; The Huffington Post UK;投稿日: 2015年01月15日 執筆者:Lucy Sherriff )

***

先の新聞記事のなかで、エマニュエル・トッド氏は言う――

「表現の自由は絶対でなければいけません。風刺の自由も絶対です。・・・一方で私にも誰にでも、無論イスラム教徒にも、シャルリーを批判する権利がある。イスラム嫌いのくだらん新聞だと、事件の後も軽蔑しつづける権利が完全にある」

ところで、表現の自由を自負するヴォルテールの国のフランスで、エマニュエル・トッド氏のような著名な知識人でさえ「フランスの自由」に脅かされる気配を感じているようだ。

同記事でトッド氏はさらに言う――

「私がシャルリーを批判する権利に触れたとします。社会的弱者が頼る宗教を風刺するのは品がないぜと。

すると相手は『君は表現の自由に賛成じゃないのか、本当のフランス人じゃないな』

と決めつけるわけです。

上流の知識層でリベラルな人々が、あの大行進に参加して人々がです。

『私はシャルリー』が『私はフランス人』と同義になっている。」

***

トッド氏に与すれば、「フランスの自由」は、善良なフランス人のイスラム教徒にとって不平等である。

ヴォルテールと同時代人の啓蒙主義者モンテスキュー(1689-1755)は『法の精神』で「黒人が人間だと考えることは不可能である。彼らを人間であると考えれば、我々がキリスト教徒でないことを認めざるをえなくなる」といっている。

モンテスキューの「法の精神」も「平等」に関しては、現代では改心してもらわなければならない。

***

フランスの知識人たちに問いたい、「いったい自由と平等の関係はどうなっているのか?」

世俗主義の名のもとに、自由と平等について、フランスの自負として安住してしまっているのではないのか?

日本のフランス思想の研究者にも、フランス思想の歴史的流れにおいて「自由」と「平等」のそれぞれの意味と両者の関係を、お聞きしたいことである。観念的に論じないで、具体的な「シャルリー・エブド」襲撃事件に即した説明をお聞きしたいことである。

***

「いったい自由に意味するものがあるとすれば、それは人々に対して彼らが聞きたくないと思うことを告げる権利である(If liberty means anything at all, it means the right to tell people what they don’t want to hear.)」

これはオーウェルの言葉だ。

「人々」には一般市民も知識人も独裁者もいるだろう。

では「彼らが聞きたくないと思うことを告げる」のはだれか。

だれでもの「わたし」である。

「わたし」はヴォルテールやルソーなどの知識人たちに限定されてはいない。

オーウェルは、西欧の知識人が自由と平等を弄んでいることを批判するのだ。

***

自由の極端な政治的支配欲の病的肥大化がヒトラーのファシズムであり、平等の政治的野望の強制的支配がスターリンのコミュニズムである。

そして現代は、利害的「友愛」の絆でむすばれた少数の人々の都合のいいように意味を変容された「自由」の名のもとに、金融資本主義というグローバリズムの支配欲の妖怪が世界中をインターネットを通じて動き回っている状況を呈しているようだ。

だからこそ、「自由」と「平等」の理念を育てていった常に批判を怠らない西欧的良識の歴史的伝統は尊重され続けなくてはならないと思う。。

***

自由は第一義的に「個」に関わり、平等は同様に「多」に関わる、相矛盾する理念である。

自由、自由と謳うばかりでなく、平等にも同等の配慮が必要ではないのか?

「平等」と「自由」は共に重要な仏教理念であるが、特に我欲に結びつき易い「自由」の理念は慈悲にもとづいたものでなくてはならないと説く鈴木大拙の言葉を思い出す。

「東洋でも西洋でも、政治の機構は自由を主としたものでなくてはならぬ、そうしてこの自由の出処は霊性的自由である。」

「霊性」とは、私見によれば、仏教、キリスト教、イスラム教などの教理的差別の根底にある普遍的人間性に関わる精神領域のことである。

(2015/02/22記)

こんな記事もオススメです!

米中露三大軍事大国に囲まれた日本ー「1984年」の全体主義世界における日本の立場 ー*

馬鹿げたウォーゲーム

防衛力抜本強化予算 = 5年間43兆円を上回る軍拡の兆し

国立大学法人法成立 : その先に見える景色と私たちの課題