【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭
ホタルの宿る森からのメッセージ第1回 「カッチーニのアベマリア」
アフリカに出入りするようになって早25年、アフリカ中央部・熱帯林における野生生物の研究調査やその生物多様性保全のプロジェクトに従事している。 その中で、特にここ10年での自然環境や人間のあらゆる活動の熱帯林への進出は著しい。 それは、先進国・新興国による自然資源への需要の拡大であり、それに伴い、こちらのアフリカ人の心のあり方も変貌させてきた。 過剰な 「欲」 が多くの 「不正」 を産み出している。そこでは、何も言葉を発せず抵抗のできぬ自然やそこに生息している野生生物が消失の一途を辿っている。
ぼくは2013年の3月、一時帰国の際に、東京で催された友人の写真展を訪れた。 その2年前に起こった東日本大震災にともなう原発事故で、荒地となった福島の街を撮った写真である。 確か展示会の最終日で、室内楽も催された。お寺の本堂の中という独特の場の雰囲気の中で、 それは、放射能のため誰も住めない福島の街やそれを作り出した人間の愚かさをえぐり出し、また人間の存在の悲しみを彷彿させるような演奏会であった。 特に、カッチーニ作曲のアベマリアという曲におけるヴァイオリンの哀調のしらべが、地震・津波という天災の前に人間がいかに弱い存在であり、 かつ、その上に原発事故という人災が襲いかかった猛威に人間がいかに無力であったことを、伝えていた。
その曲は初めて聴いた曲であるにもかかわらず、ぼくに強烈な感性を詠出させた。 ぼくがアフリカの現場で日常的に目にしている、人間の犠牲となっている野生のゾウのやさしい目をも同時に思い出させたのだ。 象牙目的の密猟は後を絶たず、絶滅の日も遠くないマルミミゾウの目だ。
我々の努力ではなかなか押さえられないほど、溢れ出る人間の欲とその根底にある悲哀さ。たとえばそれは、原発であり、密猟だ。 しかも、その実情がわれわれの知るよりどころであるはずのメディアから発信されていない。 不十分な情報か、場合によってはすでに粉飾されたあるいはごまかしの入った情報でしかない。 撮影や取材のためにこちらアフリカの現場にやってきた日本のメディアとこれまで何度も仕事をしてきたが、 ぼく自身が強引にでも編集時に修正を要請しなかったならば、正確でない情報に満ちた番組や記事が再生産されたであろう。 実際に、そうなってしまった苦い経験もないわけではない。
いまや、インターネットの発達で、情報は一層氾濫し、どこに信頼すべき情報があるのか、見分けがたい事態となっている。 特に、ネットからの情報は検索するに便利ではあっても、多くがその情報源の由来を明らかにすることができない。 そうした情報の不透明性は、情報の信頼性の質の低下をも招いている。昔のように、薄暗い図書館で書籍や論文の山にうずもれて、 確かな著者による確たる情報を引用しながら、さらに新たな論説や記事を出すという時代とはまるっきり違うのである。 いったいわれわれは今どの情報に依拠したらよいのだろうか。まさに、迷走の時代である。
新聞、雑誌、ラジオ、テレビに加えて、いまやネットというソーシャル・メディアまで広く普及するようになった。 しかし、過剰な情報が世界中に行き交うようになったこの国際社会の時代にあっても、肝心な情報は意外と流れてない。 というか、ある特定の分野の情報が関連する人々の間で共有されるようなメカニズムが確立されていない。 とりわけ、国や地域を超えた国際規模での生物多様性問題や自然環境保全に関する分野がそうである。
身近な例をあげる。多くの日本人は、日本がこれまで印章やアクセサリーなどに象牙を使用してきたのを知っている。 しかし、象牙がいまどのような法規制や国際条約の下にあり、 一方日本の象牙業界が好んできた象牙は世界のどの地域のなんというゾウの象牙であったのかを知る人は多くない。 また、アフリカの野生ゾウが象牙目的の密猟のため、今どれくらいの生存の危機的状況にあるかを正確に知る人は限られている。 逆に、アフリカ人で、どのように象牙が日本で伝統的に使われてきたのかを理解している人は皆無に近い。
なぜか。単に、適切な情報をシェアできる基盤がないのである。個別の情報はあるかもしれない。 しかし、アフリカとアジアといったような両地域に関わる問題であるのに、両大陸を超えたような情報共有や流布のメカニズムがないのである。 メディアに関わる人間も、異なる分野や領域の間に立ちはだかる壁を取り払うその術を知らないから、 思い込みの強いあるいはステレオタイプの報道や表層的な記事が目立つばかりである。 メディアからの情報がなく、学校教育でもそうしたことを教わる機会は皆無に近い市民は、ましてや真相を知る由もない。
日本国内におけるそうした 「正確な情報の欠如」 について、アフリカで長年仕事をしてきた日本人として、ここ何年か課題としてきた。 情報をいかに正しく効果的に多くの人に発信できるか。問題の多いメディアとどう立ち会っていけばよいのか。 学校教育や動物園など教育機関にいかにグローバルな文脈での生物多様性保全や環境保全のテーマを組み込むことができるのか。 しかも、マルミミゾウが絶滅する前に取り組まなければならない。
ぼくが梓澤和幸先生にお会いできたのは、まさにそうしたタイムリーの時期であった。 先生は写真展を開いたぼくの友人である写真家のよき理解者であり、 しかも、ぼくの心を震わせたカッチーニのアベマリアでヴァイオリンを演奏されていた方のお父上でもあったのである。 その梓澤先生に、ぼくはこのブログを書く機会をいただいた。 これまで長い年月に渡る経験を踏まえたアフリカ現場の事情を、日本人という立場から様々な角度で、みなさんにこれからご紹介できればと願う次第である。
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