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【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

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連載「ホタルの宿る森からのメッセージ」
第45回 熱帯林養成ギプス-コンゴ人研修プログラム その2

2015年12月14日

▼ときには一徹

巨人の星を目指して、わが子飛雄馬を鍛え上げた父・一徹。これは、かつて一世を風靡したアニメ番組「巨人の星」の中の話であるが、もちろんこのコンゴ人のための調査研究・研修プログラムでそんな過酷なトレーニングを行なった試しはない。調査・研究については、これは各人の能力の違いに応じて対処し、本人がベストで遂行できるように研修を実施したのは確かだ。システマティックなデータ収集に不慣れであったのはほぼ全員に共通であったが、なかには、地図の見方、コンパスの使い方すら十全に知らぬものもいたばかりか、ごく簡単な距離計算など数値の取り扱いなどに時間の要するものもいた。

コンゴ人研修者のためのセミナー時の司会(左手は著者)©西原智昭

コンゴ人研修者のためのセミナー時の司会(左手は著者)©西原智昭

ただぼくがもっとも強く指導しなければならないことがあった。ときにはぼくも“一徹”になった。研修者の心に“養成ギプス”なるものをつけざるを得ないときもあった。各人の健康管理への注意喚起。いうまでもないことだ。そしてキャンプ運営に関わる食糧の管理と健全な衛生状態の確保である。たとえば使用した食器は川で洗うべきなのに、バケツにたまった水で洗いとすすぎを同時に行なっていた。横着してはいけない。食糧が底をつけば、または食料品が劣化すれば、森の中で生活することは不可能になり、したがって調査もできなくなる。こうした点、食糧管理も調査遂行に重要な仕事の一つとして、交替で受け持つように指示した。一回ごとの調理に使用する米、フフ、干し魚の量や、それらが常に湿気をもたぬように乾燥台に載せるなど管理を怠ってはいけなかった。

とはいえ、総じていえば彼らとは充実した日々を送ったといえる。彼らのほとんどは無事3ヶ月の森の中でのクールを終え、その後ブラザビルで英語を学ぶものもいれば、再び森にやってくるものもいた。何よりも彼らは健康であった。大きな病もせず、事故や怪我もなかった。ただ唯一の例外的な以下の「事件」を除いて。

▼  森に迷ったコンゴ人研修生

ジョマンボ・セラファンは優秀な研修生のひとりであった。調査継続への意志も強く、何度か研修に参加した。その延長上で、ぼくは彼を広域調査に連れ出した。その何日目か彼は一晩キャンプへ戻ってこなかったのだ。ぼくはその日の朝、北東方面の調査を彼に指示した。適当な時間を見計らって迂回して、キャンプに戻るようにともいった。それはごく普通の指示であるし、森をよく知るガイドであるガスコという先住民もひとりついていた。

ジョマンボ・セラファン(中央)と先住民ガイド(ドカンダ:左、ガスコ:右)©西原智昭

ジョマンボ・セラファン(中央)と先住民ガイド(ドカンダ:左、ガスコ:右)©西原智昭

夕闇が迫り、夜がとっぷりとつかる。ジョマンボとガスコがキャンプに戻る気配はない。気が気でない。何か事故に会っていないことを望む。ガスコなら下手に森で迷うような先住民ではない。森の達人の一人だ。いずれにせよ、ぼくは夜にはどうすることもできない。翌朝ぼくの先住民ガイドであるドカンダと彼らの通ったと思われる道をたどっていくしかない。

眠れぬ夜を過ごし、翌早朝、ドカンダと出陣。ガスコの通った後を示すナタ目が見える。指示通り北東方面へ向かっている。ここかしこで彼らの名を呼ぶ。応答はない。まったくない。ときおり彼らの痕跡を見失うが、ベテランであるドカンダはしばらくすると別の痕跡を見つける。昼を過ぎても手がかりはない。だいぶ遠くまで来たようだ。

彼らの道は迂回してキャンプの方へ向かおうとしている。そしてある小川沿いで火を使ったあとを発見した。彼らは食糧をもっていなかったはずだ。偶然もっていたマッチで火を作り、川の水だけ飲んでここで夜を明かしたのだろう。おおむね予想されるのは、ジョマンボは指示通り北東方面の調査を行なった、しかし時間の配分を間違え遠くに行き過ぎて、キャンプに戻る前に日が暮れてしまった、懐中電灯もないので野営するしかなかったのだろう。

その場からキャンプへ急ぐ。もう夕方の時刻になっていた。果たして、彼らはキャンプにいた。あー、安堵。無事であり、健康である。事情はぼくの推測したとおりで、彼らはこの日は午前中の早い時間にはキャンプに着いたという。もうぼくもドカンダもキャンプにいなかったので、キャンプにいるしかないと考え、腹ごしらえをし、夜眠らなかった分、テントの中で寝ていたのだという。やれやれだ。

万が一のことを考えたら、この事件はぼくにとって冷や汗ものであったことは正直に告白しなければならない。とくにジョマンボに過剰な指示をしたわけではない。しかしすべての責任はこのぼくにかかってくる。もはや研修プログラムを継続することができなくなる可能性もある。それだけでなく、ぼく自身がもうコンゴ共和国にいることすらむずかしくなるかもしれない。一方、ジョマンボ自身も肝を冷やしたであろう。森の中での始めてのビバーグ。しかし本人にとってもよい経験になったにちがいない。

▼  著しい成長

その後、ジョマンボの成長は著しく、彼はぼくの不在時にも現場で指揮を取り調査・研究を実施できるようになった。ぼくにとってもっとも信頼のおける人材となっていった。同時に、彼は英語力も身につけ、ついにはぼくがイギリスの霊長類に関する学会へ派遣した人物でもある。不慣れな英語による彼の研究成果の発表は彼にとって苦心の産物だったとはいえ、学会に参加していた諸外国の霊長類学者から多くの激励を受ける機会を得た。

こうして、より実地経験の多い若手コンゴ人が経験の少ないコンゴ人に野外調査の研修を実施するという段階にも達しつつあった。これは研修参加者の努力の成果にほかならないが、コンゴ人自らが自国の森の研究と保護活動を実施していくという体制づくりが少しずつ実現していくことにほかならなかった。

▼広がる意義

研修プログラムで成果を挙げ始めたのはジョマンボだけではなかった。

研修プログラムのゴールの一つは、ジョマンボのような人材を次々と排出し、コンゴ人自ら調査・研究を実施、さらにその成果をより多くの人々へ提供し、コンゴ人同士で、コンゴ共和国の熱帯林の将来について討論できるようになる土台を作っていくことであった。そうした市井の人への普及の第一歩が彼ら自身の発表によるセミナーであった。ブラザビルで行なったそうした機会は直接参加したものだけにとどまってほしくなかった。そこで、コンゴ共和国国営テレビ局などのメディアも招待し、そうしたセミナーがテレビの上で放映されることで、さらに裾野を広げていく試みも行なった。

コンゴ人研修の成果を発表するセミナーに参加したコンゴ人聴衆©西原智昭

コンゴ人研修の成果を発表するセミナーに参加したコンゴ人聴衆©西原智昭

コンゴ共和国の町に住む多くの人は、自分の国の野生生物の生態や熱帯林の現状について知らない。知らないのは彼らのせいではない。知る機会がないのである。だから既成観念でものをいうしかない。たとえばゴリラは凶暴な動物だと思い込んでいる。ゾウは危険で怖い動物だから、撃ってしまうべきだ、と。そして、彼らにとって多くの動物は、単に食べ物としての対象にしかすぎないのだ。彼らが知っているのは、「肉としての」死体となった動物だけであった。そこに必要なのは、野生に生息する動物に関する適切な情報とその提供の場である。

しかもそれはコンゴ人自身の手によるものでなければ効果は薄い。もし外国人研究者による発表であれば、「あー、なんだ、白人の研究成果ね」で終わってしまいかねない。外国人も、そうした自分の研究成果の発表が、研究者としての自己満足に終わるケースも少なくない。そうした「白人主導型」にはなってほしくなかったのである。

セミナーで発表するコンゴ人研究者©西原智昭

セミナーで発表するコンゴ人研究者©西原智昭

もっとローカルなレベルでは、現地に住む子供たちを近所の森に連れて行くということも重要だ。彼らももちろん近所の森に行くことはある。しかしそれが実際どういう場所なのか知らないことが多く、実際に動物を見たことがないという子供も多い。そこで彼らにも「森はこういうところである」という森についての学習会の機会を作っていく。というのは地元の人たちは、これまでもその森の近くに住んでいたし、森の産物というのに依存して生きてきた。ところが、実際に熱帯林の起こっている問題や現状に気付かずに、森の産物利用をどんどん続けていく、とくに周囲からの影響で、商業利用のために過剰に利用してしまう、あるいは外部から密猟者が入ってきて密猟を受け入れてしまう、という状況を放っておいてよいものなのかどうか。彼ら自身の将来の生活の糧ということを考えても、彼ら自身が森で一体何が起こっていて、森はどういう場所であるということを知っておくことは肝要であると思われるのだ。そこに、ローカルな「森の学校」のようなものの意義があるものと考える。

森の中で生態学を学ぶ子供たち©西原智昭

森の中で生態学を学ぶ子供たち©西原智昭

▼さらに突き進む研修者たち

ぼくが主導していた「熱帯林養成ギプス-コンゴ人研修プログラム」は、1997年の内戦で頓挫してしまった。しかし、その後、その研修の意図や成果はWCSの中で継承され、研修を受けたものの何人かは、研究アシスタントなどを経て、さらには、プロジェクト・マネージメントにも関わるようになった。われわれWCSは研究調査が何より母体であり、研究者が国立公園などのマネージメントに関わっていくのが王道である。彼らの一部は、その途を辿って行ったのである。

当時より20年弱の歳月を経た今、こうした研修者各人それぞれ異なる道を辿っては来たが、WCSコンゴ共和国の主要プロジェクトである北東部地域では、彼らが各プロジェクトの責任者となり、活躍している。ぼくが目指していた「コンゴ人によるコンゴ人のためのコンゴ共和国の国立公園、自然、野生生物のマネージメント」が実現されてきているのである。ぼくは、現在、彼らのアドバイザー的な役割であり、日々必要に応じて、バックアップを心がけている。

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