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【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

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第79回「日本人の自然観と日本の自然保護NGO・研究者・学校教育(1)」

2017年4月12日

▼日本人のあり方

 「日本人はなぜ世界中の野生生物を食い荒らすのか」と、2002年チリで開催されたワシントン条約会議の会場の外で、チリの子どもたちは言う。

 日本人には、古来より、日本列島における自然環境や身近な野生生物を尊重しめでるといった習慣や伝統が根付いている。それは、富士山をめで、春には桜、秋には紅葉を楽しみ、庭園、華道、盆栽などを通して自然界を模倣したものを身近におき、昔話や和歌・俳句には自然界のものや野生動物が親しみのある存在として登場することなどにも窺える。

 今西錦司が『自然学の提唱』(講談社学術文庫1986)の中でも述べているように、日本には古来から日本独自の自然観があるようだ。たとえば、

 東洋で生まれた宗教には、このような厳しさがない。切り離すよりも、むしろなんでも包容してゆこうというのである。仏教にはそういうところが感じられる。自然はひとつであるといったが、なにもかもをその中に包容して、しかも一つであるからこそ広大無辺といいうるのである。・・・われわれは自然に溶けこみ、自然と一体化することができ(27ページ)。

 わが国は天恵に満ちみちていて、五穀のみのりはもとより、山の幸海の幸もふんだんにあり、自然とはわれわれをはぐくみ育てる慈母にもたとえられるべき存在であった(51ページ)。

 わが国はもともと汎神論的な国がらであって、八百万の神の存在を認め、それだけではなお足りないというので、チミモウリョウの存在までも認めようとする。・・・神も人も生物もみなこの地上に棲み分けて、仲よく暮らすことができたら、それがいちばんええのやないか、ということであります(59ページ)。

 われわれ人間は自然界の一員であり、その自然界すべてのものに敬いと慈しみをもつといった日本人固有の自然観。その背景には仏教などの宗教があるのかもしれない。それは自然界全体を尊重する姿勢、さらにいえば自然界との共存原理というものにつながっていくと思われる。そうであるからゆえ、そうした自然を日常生活でもめでようとするために、そのミニチュアとして、庭園や盆栽、生け花などが発達してきたともいえる。

 しかしここで、ハタと思考が止まってしまう。自然環境や野生生物に関して、国外で起こっている事情については疎いからであろうか。大量の象牙利用によるアフリカゾウの激減、鯨肉利用を盛んにしたための遠洋での鯨類頭数の減少、海外からの違法木材を輸入した結果である海外の森林の破壊などがその事例であるといえる。ここでは、日本人の従来の自然観と日本人による実際の野生生物(あるいはその身体の一部)の過剰利用との間に、大きなギャップがあることが露呈する。歴史的に伝統的に自然を敬う気持ちがある一方で、なぜ日本から見たら地球の裏側にあるチリの子供たちまでが疑問に思うほど、われわれ日本人は世界中の野生生物を「食い荒らしている」のであろうか。不思議な自然観であるとしかいいようがない。

 その思いは今でも続いている。

 そこには、「一体化した自然」ではあっても、あくまで利用優先の対象であり、自然界やそこに生息する野生生物の生存価値は実はあまり考慮されていないというところにあるのかもしれない。

 
▼ギャップの根源

 こうした日本の実情をみたときに、日本人の自然観と実際のゾウの密猟を招きかねない象牙利用との間のギャップを生み出しているものが何なのであろうかと、あらためて考えてみたい。

 日常レベルでみる限り、現実的な一般市民の生活上、象牙だけに限らず鯨肉、べっ甲、トラやクマによる薬など、かつてのような大規模な需要はない。しかしながら、象牙などについては依然ワシントン条約などで日本は取引解禁を主張する。日本には国際的視点から見たグローバルな保全に関する認識にいくつかの構造的欠陥があることを指摘しておく必要がありそうである。

 大多数の日本人にとって、世界各地の野生生物やその生息地や生態系やその現状についての情報が欠如している。あるいはそうした情報提供の場ができあがっていない。したがって野生生物を利用するということと、それによって野生へ影響が及ぶということの両者の間が容易につながらず、世界規模での自然の保全という大きな視野での発想が生まれにくい土壌にあるのではなかろうか。

 その意味で、いまだ日本は“鎖国状態”にあるようにも思える。思えば、明治維新でそれまでの封建社会から近代社会に生まれ変わった日本ではあった。そのとき、「鎖国」政策をやめ西洋の技術や文化、政治形態などを学んだ。しかし、そこには西洋に追いつけ追い越せの強い近代国家建設という大きな目標があった。その上で、西洋の国家に匹敵する独立国家を築き上げるといったナショナリズムという背景があったように思われる。そして、国家として成長したら、実質的には「殻を閉じている」かのような印象を受ける。文明開化を目的とした開国は、まるで「仮面開国」であったように思うのはぼくだけなのであろうか。

 日本独自のものを育み、大切にすることは大事なことである。独自の不調や文化も、いまのグローバルな世界の文脈の中で、今一度掘り起こし、国際的コンセンサスのあり方をも考慮しながら、この地球上での政策を顧みなければならないであろう。そうした柔軟性を兼ね備えた独自の文化の構築が必要であると思われる。

 いつまでも、意固地になって、自分の国のあり方だけを主張するだけでは、いまの地球では生きていけないのである。

 
▼自然保護に関わるNGOのあり方

 多くの日本人は自然保護や動物保護、その活動に対しある種の先入観を抱いているようである。そうした団体や組織は、当人にとって大事な、あるいはかわいらしい、特定の動物を守りたい、飼育下の動物についてならその劣悪な飼育環境から解放してあげたいと説き、野生動物を守ることが先決であって、野生生物利用に関する各地域の事情やそれぞれの伝統文化を全く考慮に入れない極端な考えをもつ人々の集まりである、というものである。

 真の「保護」を考えていくには、野生生物だけではなく、それに関わる人間の諸活動についても目を向けていかなければならないし、それぞれについての基礎調査が必要となってくる。そこで得られた信頼のおける情報をもとに、野生生物の利用に関わる諸問題だけでなく、行政のあり方や法制度、教育システム、調査方法そのものなどに対しても主張・提言・実践的活動をしていくのが本来の「保全活動」の姿であると考える。日本の場合、こうした多角的な観点から、また国際的視野をも考慮に入れたNGOの存在とそうしたNGOによる「保護活動」が一般的でないために、「保護」に対して偏った通念がいまだに現存する。それは「真の保全活動」を目指す人々にとって、逆に社会的な障壁ともなっている。

 またテレビなどメディアを通じて報道される「保護活動」も、たとえば捕鯨漁船に体当たりするといったような過激な活動や組織に比重が置かれており、それも「保護団体」全体への固定観念を生み出す温床ともなっている。また日本では「保護」をプロフェッショナルに、つまり職として仕事ができる基盤がなく、どうしても片手間作業であるという印象を一般に与えかねない。つまり余暇を利用した「ボランティア活動」程度の評価しか生まれないのも実情である。メディアについては、別途記事を参照されたい。

 こうした障壁を打破していくためにも、正統的な「保護」とはどういうものであるべきなのか、もう一度きちんと検討しなければならない。そこに真の自然保護NGOのあり方が問われるべきだからである。

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