NPJ

TWITTER

RSS

トップ  >  NPJ通信  >  第88回「七五郎沢の森とンドキの森」

【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

過去の記事へ

第88回「七五郎沢の森とンドキの森」

2017年12月8日

▼七五郎沢のキツネ

 七五郎沢の森に生きてきたキツネ。先祖代々受け継がれてきたまま、森の恵みや川の産物を食べて生きてきた。そこには、豊かな自然があったのである。子を産んだキツネはある日、乳をあげても泣き止まぬ子に気付く。乳が出ていなかったのだ。食べ物に困窮していたのだ。キツネは食べ物を探しに、子をおいて巣から沢へ森へと出る。しかし、あたりは従来森になかった人工物だらけで、獲物となる動物もいない。川は汚染され魚はもはやいない。空には、カラスが舞い、恐れをなしたリスなど他の野生動物や鳥は逃げていく。

 食物に困ったキツネはいつしか森を抜け、人間の住処に入る。そこで、偶然、ゴミ山にたかるネズミを発見、それを捉えるチャンスに恵まれる。しかし、ネズミは腹をすかして動きの鈍いキツネを馬鹿にするだけで、ふてぶてしい態度をとる。だが、やがて、逆に残飯を食いすぎてすばしっこさを失ったネズミはキツネに捉えられてしまう。キツネはネズミをくわえて七五郎沢に戻る。しかし、そこはもはや昔ながらの森は残っておらず、重機が森を駆逐していく。獲物のネズミを地中に隠そうと土を掘ると、そこにも人間が捨てた医療具やゴミが見つかる。失望したキツネは生まれ育った森を去る。子を捨てて…。

 他の森にたどり着いて、誇りを持って「七五郎沢のキツネ」と称しても、もはや決して誰も認識しないであろう。

 この悲しい物語は、結城幸司氏(原作・版画)、すぎはらちゅん氏(監督・脚本・アニメーション)によって製作された『七五郎沢のキツネ』(2014© tane project)と題する14分ほどのアニメ映画だ。北海道・函館近くの従来の自然林が近代化で崩され医療具など人工物のゴミであふれる。そこに依拠してきた野生動物がもはや生きられない様を物語っている。それは、和人により翻弄されてきた先住民アイヌ民族の悲しい歴史をも二重写しにしているのだ。

 
▼アイヌ感謝祭

 ぼくはこれまでずっと、アフリカ中央部熱帯林地域にて、野生生物の研究・調査や生物多様性保全、森林保全、国立公園管理などに関わってきたが、森の先住民族ピグミーがその伝統的知識や技能を失いつつあること、そして彼らが依拠すべき森林や野生生物が次々と消失していく有様を目の当たりにしてみてきたことから、ここ数年、先住民族の問題に強い関心を持つように至った。

 その直接的な動機は、森を知らない若い世代のピグミーとはもはやわれわれは保全の仕事をできなくなるという点だ。森を熟知している彼らの存在があってこそ、われわれはこれまで、動物を追い調査研究を実施し、また動物観察の可能なツーリズムも立ち上げてきた。密猟者を効率よく追跡するには彼らの森での技能は必要不可欠であった。そうした先住民の不在は、こうした保全の仕事を不可能にする。

 日本の先住民と言えば、アイヌである。実はぼくは、大学の卒業研究の時、自然人類学研究室のメンバーの一人として、アイヌの咀嚼に関する身体特徴を調べ、その食性や日常生活との関連性を調べたことがある。それから約30年たった今、またアイヌの問題に関わるとは、単なる奇遇とは思えない。

 いま現在のアイヌの方々のおかれている状況を知りたい、それは、同じ森林に依拠してきた先住民ピグミーの今後の行方を考えていくに、何かヒントになるものを得られるかもしれないと思ったからだ。また、逆に、日本にはほとんど知られていないピグミーのことをもっと多くの方に知ってもらうには、同じ先住民族のアイヌの事例を挙げれば日本人により理解がしやすくなるのではないかと思ったのである。

 そうしたいきさつの中、ある伝手から偶然、ぼくは東京近郊に在住のアイヌの方々と知り合うきっかけができた。そのつながりから、毎年開かれている「アイヌ感謝祭」にぼくは招かれて、アフリカ熱帯林に住む先住民族ピグミーの講演をする依頼を受けた(写真336)。たまたまその機会に、この映画を見るチャンスに会い、また製作者に出会う機会に恵まれた。
         写真337:アイヌ感謝祭で講演する筆者©アイヌ感謝祭

 この映像に見られるような似た状況は、アフリカ熱帯林やそこに棲む野生生物、そしてそこに依拠してきたピグミーに多く共通する点がある。「是非、ピグミーにも鑑賞していただき、感想を聞いてみたい」と製作者に申し出たら、快く映像のコピーを頂いた。「是非、彼らの感想を聞かせてください」という願いも託されたのである。

 そしてその2ヶ月後、ンドキの森に近いコンゴ共和国北部のある村で、ピグミー8人の男性を前に、この映像を見せる機会を作った(写真337)。彼らにははじめ、「非常に興味深い映像がある。まずは見てほしい。言葉は日本の先住民のことばで、テロップも英語でわからないだろうけど、とにかく見てほしい」と説明し、映像を回した。
  写真338:「七五郎沢のキツネ」を鑑賞するコンゴ共和国北部のピグミーたち©西原智昭

 鑑賞後、まず「どんな内容の映像だった?」と聞くと、驚くほど、正確に映像の内容を理解していた。彼らの優れた感性であれば、ことばなどわからなくても、きっと内容を把握するだろうと期待はしていたが、それは如実に示されたのだ。彼らの感性だけではないであろう。そこには、先住民に共通する問題とそれへの強い意識が、映像の適確な理解を導き出したのだと思われる。

 
▼映像を見た直後のピグミーの感想

 最初の一声は、「主人公の大きな動物(注:キツネのこと、もちろんピグミーはキツネを知らないのでこう呼んだ)はただネズミを追いかけるだけ。もう森には他の動物はいないということだ」、「同じことを感じた。野生動物はもうネズミしか食べるものがないということだ」、「もう森が元の状態じゃないから、森のなかに食物はない」というものであった。

 鋭い観察眼である。映像の中の話し言葉もテロップの文字も読めない彼らは、映像からすでに内容を読み取っていた。ことばを越えて他の先住民族の理解がすばやく得られたと言うのは、これが優れたアニメの作品であることも物語っている。

 「どうして、森は荒らされたか?」と尋ねると、「森はもはや以前の状態じゃなく、開発されたあとみたいだ。だから食物はないんだ」。「ここと全く同じ状況だ」と彼らは、続けて答える。「森にはタイヤとかゴミがあり、ペットボトルが川を流れていた」し、「川の水は汚い色だった。魚もいなくなっていた」、そして「ぼくらの森でも、ブルーダイカー(注:小型レイヨウ類で、ピグミーの主要な獣肉となる動物)を取るにはずっと遠くに行かないと取れないから、この映像の森の様子と似たような状況だ」と、彼らは映像の内容を説明していく。

 そこで、「日本にもここと同じように豊かな森があった。ここと違って暑い場所ではなく寒いところだけど、そこには先住民が住んでいて、しかし外部の人間が森を荒らし動物もいなくなった。先住民はちょうど君たちみたいに生きるのが困難になったのだ。森は荒らされ、汚いゴミが森に捨てられたという歴史がある」とぼくが補足説明をすると、「彼らもぼくらと同じように、たいへんな状況なんだ」と同調する。

 「でも、君らはまだいいかもしれない。少なくても近くに森がある。そしてそこで、ココの葉(注:野生の葉で食用となるピグミーの日常食物)も採集できるのでは?」と問いかけると、「いや、ココの葉も取るのが難しくなった。ずっと遠くまで行かないと取れないんだ」、「食用の毛虫も以前のようには近くで取れない。もう森がなくなってきているから」とすかさず反応する。

 「密猟者が森に入り、そのキャンプ地にはゴミを捨てていく。鍋や服も捨てていく」、「下流で川の水を飲もうとすると、そうした衣類が浮かんでいる」、「彼らのキャンプ地にはプラスティックが捨てられ、森の様相も変わってきている」と、彼らは密猟者による意外な被害の側面をも語り始めた。

 映像に出てきたカラスのことを問うと、「そうそう、あのカラスたち。以前にはいなかった。やつらは、人間の捨てたゴミとかに集まってきている」と、ここでも七五郎沢の森とピグミーの森が同様な状況であることを彼らは強調した。

 
▼第二回目の映写会

 二ヶ月後、別の村で同じく上映会をする機会があった。これは、OrigiNationsという組織がピグミーの若者や年長者など男女総勢20数人を集めたワークショップの合間に実施させていただいた(写真339)。
    写真339:「七五郎沢のキツネ」を鑑賞する老若男女のピグミーたち©西原智昭

 人数が多く、しかも上映会は村の中で行なったため、参加者以外の農耕民なども映像を覗きに来たり、まわりの雑音でなかなか集中できない環境であった。しかし、上映後のぼくの説明で、彼らの置かれている立場がアイヌと似た道を歩んでいることを、映像を通じて理解してもらったようだ(写真340)。

写真340:「七五郎沢のキツネ」を鑑賞後討論に参加している老若男女のピグミーたち©西原智昭

 印象的だったのは、特に若いピグミーの青年がみなの前で、「ぼくらがこうなったのは、伐採による開発と、それによって密猟者が増えたためだ」と明確に発言したことだった。これは、第一回目の上映会では見られなかった光景だった。

こんな記事もオススメです!

第8話 あなたは、体とお話していますか?

北朝鮮は一方的に非核化の約束を破ってきたのか(下)

北朝鮮は一方的に非核化の約束を破ってきたのか(上)

憲法9条改正と北朝鮮問題を考える