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【NPJ通信・連載記事】ペルーの今を生きる人々/五十川 大輔

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ペルーの今を生きる人々
第2回 労働の価値が不当にしか評価されない社会

2014年5月5日

リマ郊外に広がる低所得者居住区

遠く離れてはいますが、日本のことは常に気にかかります。 ここ数年、非正規雇用者や失業者を総括するワーキングプアやプレカリアートといった言葉をネット上でよく目にするようになりました。 社会から排除される人たちの数が、一つの社会階層的なカテゴリーを形成するまでに拡大を続けているということは、 形式的な民主主義によって覆い隠されていた利益至上主義の本質部分が、日本国内においてもいよいよ剥き出しになってきているということでしょうか。

しかしながら、経済のグローバル化に乗じて、 多様な生活環境や精神世界に暮らす人々を搾取のピラミッドの最底辺へと組み込んでいく作業に、何の負い目を感じることもなく加担し続けてきたのがこの国ですから、 景気回復のためには労働者をモノのように使い捨てることもやむなしといった態度が国内の政策に反映され始めたとしても、別段驚くには値しないことです。

地球上のありとあらゆるものに値札を付け、人間の日々の営みまでもが商品化されることによって叩き売られていくような、 そんな社会が加速度的に世界を覆いつくしてしまった今、社会とは誰のために存在するのか、または働くとは何を意味するのかといった、 人間にとって本質的かつ恒久的な課題を改めて問い直さざるを得ないような状況に迫られていることは、日本のみならずここペルーにおいても例外ではありません。

遥か植民地時代より続く欧米諸国による侵略の過程で、今日 「発展途上国」 や 「低開発国」 などと呼ばれる国に住まう人々は、 常に安価な労働力として搾取され非人間的な扱いを受けてきました。そして、植民地時代に植え付けられた腐敗した社会構造は、 各国が独立を果たした後も解体されることはなく、今度は余剰な労動力として国民の大多数を排除することによって、不平等を正当化させるような社会を作り出しました。

人間の労働が商品として扱われるようなシステムの下、多くの人々が供給過多を理由に生存ぎりぎりの 「相場」 を設定され、 過酷で不当な労働条件を甘んじて受け入れるより他ないような状況が、今のペルーには(世界の大部分の国でも状況は同じだと思いますが)存在します。

労働力人口の6割以上がインフォーマルセクターに属しており、医療保険も年金も期待できないような状況の中では、 たとえ日当5ドルの仕事であっても 「ないよりまし」 だから人は集まるでしょうし、ある商社の奥さんにとって月200ドルで家政婦さんを雇うことは、 ペルーは 「物価が安い」 し、それが家政婦さんの 「相場」 だから、何ら後ろめたいことではないのかもしれません。

私は、思うところがありリマ郊外の低所得者居住区に5年ほど前から住んでいます。近所のおばさんたちが朝から晩まで必死に働く姿を見ていて、 彼女たちの 「相場」 は恐ろしいほどに過小評価されていると感じますし、いくら 「物価が安い」 といっても、 交通費を差し引けばその日食べていくだけのお金しか残らないような状況を、「ないよりまし」 で済ませてしまうのはあまりにもひどいはなしだと感じています。

洗濯をする女性

 

ペルーでは、公立校と私立校の間にはその質において驚くほどの差があり、 当然のごとく家庭が裕福なほど質の高い教育(教育とは何かを知ることもなくその質について語るのは非常におこがましいかぎりですが)を受ける機会に恵まれることになります。 その結果、学校教育が経済格差や社会的排除を肯定させるための道具として機能している節が、この国においては見受けられます。

教育の機会の不平等は、公立の学校にしか通えない子どもたちに対して圧倒的に不利な将来を約束し、両親と同様に自己の労働が不当に評価され、 謂れのない負い目を感じて生きていかざるをえないような状況を多くの子どもたちにもたらしています。

そして社会は知らないうちに、賃金の高い労働にありつけなかったり、一市民としての諸権利を享受できなかったりするのは、 しっかりと勉学を修めて相応の能力を身に付けなかった結果であるといったふうに、不平等の原因を個人の資質の問題へとすり替えてしまうのです。

このような如何ともしがたい現実を前に、人々は不平等が拡大していくことに異を唱えたり、既存の体制に抗ったりすることは無意味なことだと思うようになり、 メディアを通じた政治家や企業家たちによる悪扇動を無批判に受け入れることによって、 自らが消費社会の最底辺へと位置づけられることを甘んじて受け入れているようになっていくのです。

そして、他者の幸福を顧みる余裕など与えない社会は、必然的に人間の利己的で攻撃的な性格を前面に引き出すことになります。 心に抱える闇が深い分、社会から受ける差別や排除といった重圧をより多く受ける分、人は他者や社会に対して恨みや妬みの感情を抱くようになり、 不信感や連帯感の欠如から容易に人を裏切ったりするようになるのかもしれません。

私の暮らす地区では、NGO団体や政府の貧困対策プログラムによって支給される救援物資や資金の横領が、 自治組織の役員たちによって日常的に繰り返されています。 私自身も、大学の同級生らと共にささやかな活動を試みてきましたが、シングルマザーを集めて母親クラブなるものを作ろうとした際には、 地区で利権を握る女性たちによって、彼女たちに参加を呼びかけなかった腹いせに活動を妨害されましたし、 他の機関と協働で運営していた保育園の子どもたちの昼食代が、寄付金を管理していた地区役員に半年以上に渡って大幅に横領されていたということもありました。

「エンパワーメント」 や 「意識化」 といった言葉に見られるように、慢性的な貧困を改善していくためには、 自己に対する内省や社会に対する問題意識が各個人に芽生え、問題を共有する人々が連帯することがなによりも必要なのですが、 彼らの抱える問題の深さを前にそんなことはまったくの机上の空論にしか思えず、自己の無力さを思い知り、彼らとは分かり合えないのだと拒絶するようになり、 相当に心を病み、何のためにペルーまでやってきたのか分からなくなるような状態が長い間続きました。

自宅兼活動拠点

 

そんな中、現在クシ・プンクの代表を務めるY氏に、働く子どもたちが主体となって活動する運動体の存在を教えられ、彼らの活動理念に惹き付けられていったのは、 私としては半ば必然的な結果でした。

「児童労働」 という言葉で、ただ単に哀れみの対象として扱われている彼らが、自らの声で自らの環境を変えようとしている。 そしてその波は、静かで小さなものではあるけれども、ペルー国内に留まらずラテンアメリカ、さらには世界レベルにまでその範囲を拡げているという事実を知ったとき、 少なからず衝撃を受けました。

クシ・プンク 活動の様子

働くがゆえに、自らも社会の発展に貢献している主体である。 そして、社会的主体であるがゆえに、自らを取り巻く生活環境の改善に向けて発言し参画していく権利を有する政治的主体である、 という彼らの認識を私自身どこまで理解できているかはわかりませんが、次回以降少しづつでも紹介していければと思います。

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